2、娼館ウィッチグラス
「ただいま、母さん」
「お帰り。すぐに夕飯だからね」
自分に背中を向けたまま言うミヤオの言葉に、ニーナは「おや?」と眉を潜めてみせた。
「今日、忙しいの?」
「そうなんだよ。予約のお客さんが多いらしくてね。先に食べとかないと」
「ふーん」
言いながら自分の部屋へと向かう。
何人もの姉さんたちと廊下や階段ですれ違った。
誰もが皆、開店前の忙しさでバタバタしている。
なかには全裸に近いような扇情的な格好の女も居たけれど、ここでは珍しくもない格好なので誰も気にしない。
ニーナの住む場所、それは娼館であった。
この館で厨房仕事を任されているのがミヤオ。その息子のレンは用心棒と力仕事をしている。
十五年前、レンは生まれたばかりの捨て子を拾ってきた。それがニーナである。
ミヤオとレンは実の家族のように自分を受け入れ、育ててくれた。
幼い頃から娼婦という仕事を間近で見てきたニーナには、それが特異な職業だという意識が無かった。
成長するにつれ娼婦に対する世間の見方も知るようになったが、ニーナの価値観がそれで揺らぐことはなかった。
魚屋や肉屋などと同じように、彼女の中で娼婦というのはあくまでも職業の一つでしかなかったのだ。
娼婦だからといって、何を悲観的になる必要がある? 何を蔑む必要がある?
捨て子で、必要最低限の学しか持たず、裏町で暮らしている自分である。
このまま成人すれば娼婦か酒場の踊り子が妥当な職業だろうな、と本気で思っていた。
教授たちのほとんどは階級意識を強く持っているため、自分たちの気に障るものでない限り、庶民のニーナの言動や思惑などには無関心だ。
むしろ「その通りだ」と賛同さえしただろう。
だがジン教授は珍しく、庶民であっても高い志と目的を持って勉強すべしという教育理念に燃えている教師だったため、ニーナの作文の内容を嘆いた。
それが反省文の課題へとつながったのである。
自分のやったことに後悔も反省もしていないが、罰則を受けたなどと聞いたらミヤオもレンも心配するだろう。
このことは二人には黙っていようとニーナは決めた。
彼女が着替えを済ませ厨房に戻ると、すでに二人分の夕飯が食卓の上に乗っていた。
レンの姿は無い。いつものようにお風呂を沸かしているのだろう。
慌しくミヤオと共に食事を済ませ、仕事に取りかかった。
忙しくなる前に夕飯を済ませようとやって来る姉さんたちの給仕と皿洗いをしているうちに、店は開店時間を迎える。
三十人を超える娼婦たちの面倒を二人で見るのだから、この時間はいつも戦場のようだった。
給仕、皿洗い、シーツの交換、洗濯……目の回るような思いをしながら働いていると、ディジー姉さんからの注文が来た。
客が夜食と酒を所望しているから、部屋まで運んで欲しいというものだ。
手早く銀の盆にワインとつまみを乗せ、店の方へと足を向けた。
厨房があるのは「裏」と呼ばれる建物で、ミヤオたち一家と全ての娼婦の寝泊りする部屋がある。
娼婦たちが仕事をするのが「店」と呼ばれる建物で、「裏」とは廊下一本で繋がっていた。
ニーナは突き刺さるような光に目を細め、廊下の出口で一瞬、足を止めた。
煌々と輝くシャンデリアを見上げ、優美な曲線を描く螺旋階段へと向かう。
視線を伏せて歩き、客や姉さんたちとすれ違う時は道を譲り、頭を下げる。
そうしてやっと目的の部屋へと辿り着いた。
「姉さん、ニーナです」
控え目なノックをし、そっと囁く。
しばらく待っていると、ガウンを羽織ったディジーがドアを開けた。
「ありがとう」
艶っぽい笑みを浮かべて盆を受け取ったディジーの後ろから、客の男がひょいと顔をのぞかせた。
「やあ、ニーナ」
呆気にとられて男を見つめるニーナ。
ディジーはそんな二人の様子を見て、男を振り返るとしとやかに尋ねた。
「お知り合い?」
「生徒だよ」
アキの言葉にディジーが目を丸くする。
「ちょうど良い。もっと話したいと思っていた。少し相手をしてくれ」
「あ?」
「え?」
アキはニーナの肩に腕を回し、強引に部屋の中へと引き寄せる。
入り口は三人もの人間が自由に動けるほど広くない。
気づけばディジーは、ニーナと身体を入れ替わるようにしてドアの外へと押し出されていた。
「ちょっ……アキ、ニーナは未成年よ!!」
「大丈夫だ。抱きはしない」
閉まりかけたドアの向こうで叫ぶディジーの顔は、自分を追い出したことへの怒りよりも、ニーナの貞操への心配が浮かんでいた。
強引にドアを閉めたアキは、ニーナを寝台に連れて行って座らせる。
ようやくそこで自分の置かれた状況を理解したニーナ。
「……よく教授の給料でこの店に来れましたね」
ワインの栓を抜くアキを上目遣いで見ながら呟いた。
ここ「ウィッチグラス」は裕福な商人や上流階級の客を相手にする高級娼館だ。
教授の給料がどのぐらいか分からないけれど、そう簡単にこの店の門をくぐれるとは信じがたい。
「それは誤解だな。教授の給料もそれほど悪くない」
アキはニヤリと笑うと、ニーナの真正面に椅子を寄せて座り込んだ。
手の中のグラスに満たされたワインを一気に飲む。
その様子を見ながら眉を潜めるニーナ。
学園に居た時の紳士然とした雰囲気は消え去り、目の前の男は傲慢で不敵な笑みを浮かべていた。
いっそ見事と言えるほどの豹変ぶりだ。
この男のこんな姿を見たら、レナスは何と思うだろう。
レナスのヒステリックな憤慨ぶりが目に浮かぶようでニーナはげんなりした。
そんな彼女をアキは面白そうに観察している。
「なるほどな」
頬杖をついたまま彼が呟き、ニーナは小首をかしげた。
「お前の作文をジン教授が見せてくれた。反省文を書かせたが、全く内容が変わっていないと嘆いていたが。
この環境に居るのなら、あの作文の内容を怒る方が間違いだ」
クックッと笑って言うアキに、ニーナはその通りだと頷いた。
「居心地が悪いだろう? あの学園は」
問われてニーナはアキの瞳を真っ直ぐに見つめた。
その瞳に揺らぎは無い。
「悪く、ないわ」
アキの片眉が持ち上がる。ニーナの言ったことを信じていないようだ。
理由を説明しようか。だが、説明しようと言葉を重ねるほど言い訳っぽく聞こえないだろうか。
ニーナは黙っていることにした。代わりに「嘘ではない」という気持ちを込めて見つめるだけで。
その時、アキの瞳が神秘的な金色をしていることに気がついた。
「……そうか」
アキは小さく呟くと、おもむろにニーナの髪を一房手に取り、自分の方へと引き寄せた。
彼女の髪は肩に届くぐらいの長さだったため、それにつられて彼の方へと顔が近づく。
至近距離で見つめあうニーナとアキ。
アキの薄く形の良い唇が、言葉を発するために少しだけ開かれた、その時。
「ニーナから離れてもらおうか」
怒気を含んだ声に驚いて振り返ると、堂々たる体躯の男が腕を組んで壁に寄りかかっていた。
「レン」
目を丸くしたニーナが名前を呼ぶ。
レンは今まで見たことが無いほどの渋面を浮かべていた。
「おやおや。客の邪魔をするのか?」
立ち上がったアキが、皮肉な笑みを浮かべて言う。
「第一に、ニーナは娼婦じゃない。素人女にちょっかいを出すのは客としてのルール違反だ。
第二に、たとえ客とは言え、俺は悪魔が家族に手を出すのを見逃すつもりは無い」
レンの言葉にニーナは、ゆっくりと首をめぐらせてアキを見つめた。
きょとんとした顔で言う。
「悪魔?」
アキは微笑みを浮かべたままニーナを見つめ、そのまま視線をレンに移した。
「分かるのか。……この娼館もなかなか面白い人間が集まっているようだな」
その顔は、笑っているはずなのになぜか恐ろしく、とても美しかった。
ああ。人間じゃないって言うのも納得できるな、この美しさは……その顔に魅入られながら、ニーナはぼんやりと思っていた。




