2、レンの変化
「婚約した? 誰が?」
「……この話の流れで、私以外の誰が居るのよ」
物憂げに髪をかきあげながら、レナスがどこか疲れたような顔で言った。
「誰と」
「ビルフレッド・ヘザー・レイ。レイ家の三男」
投げやりな調子で返ってきた言葉に、ニーナは頭の中でレイチェルから聞いた貴族の系譜を整理した。
レイ家と言えば八選家に名前を連ねる名門であり、確か王族の血の流れも汲んでいるはずだ。現当主は公爵、侯爵、男爵の三つの爵位を有しており、三人の息子にそれぞれを与える予定だと聞いている。その三男であれば、次期男爵ということだ。
「なんで婚約したの」
「私の意志じゃないわよ」
あくまで淡々と話すレナスとは対照的に、ニーナは黙って考え込んでしまう。
貴族の婚姻というのはほとんどの場合、本人の意思とは関係なく決まる。それはニーナも知っていた。だが実際に親友の身にそんな事態が起こってみると、何と言っていいものか分からなかった。明らかにレナスが憂鬱そうな様子をしているので尚更だ。
なんとなく黙りこんでしまったニーナとレナスは、二人同時に視線を落とし――――そろって絶叫を上げると、その場から飛びのいた。
床から人間の顔半分が生えていた。サラリとした銀髪に、眼鏡をかけた金色の瞳……。
「アキ!」
音もなくアキの身体が上昇し、やがて全身が床の上に現れた。
「気味の悪い真似はしないで下さい!」
半ば八つ当たり気味にレナスがアキに詰め寄る。
ニーナもレナス同様、死ぬほど驚いたショックで心臓が激しい動機を刻んでいたが、自分以上に取り乱している人間――レナスを間近に見たせいで、間もなく冷静さを取り戻した。
「良かったな。時空を歪める術は、滅多に見ることの叶わない第一級魔法だ」
しゃあしゃあと言い放つアキに憤慨するレナスを抑え、ニーナが「心臓に悪いからやめて」と低い声で呟いた。
「……アキ教授、まさか時々こうやってニーナのこと覗いてないでしょうね」
「使い魔の全てを把握しておくのは主の義務だろう。隅々まで、な」
レナスの問いに、ニヤリと意味深な笑みを浮かべるアキ。
「ニーナ! 今すぐうちに引っ越して来なさい!」
ニーナの肩を掴んで強く揺さぶるレナス。
頼むからレナスを刺激しないで欲しい。
ガクガクと前後に揺さぶられながら、ニーナはアキを睨みつけた。
相変わらず人の悪い笑みを浮かべて二人の様子を見ていたアキが、ふと怪訝な表情で周囲を見回した。
「……どうかした?」
「いや。俺が魔法を使って現れた上に、お前たちが悲鳴を上げただろう? 以前のようにレンが来るかと思ったんだが……来ないな」
アキの言葉に、さっとニーナの顔が無表情になった。他人を寄せ付けない、近寄り難くよそよそしい雰囲気は、学園で孤立している時のものと同じだった。
「レンなら来ない」
「それで用心棒が務まるのか?」
「……今は店の方に出てる」
「店に? 珍しいわね」
レナスが驚きの声を上げるのと同時に、階下から騒がしい物音が聞こえてきた。この店の雰囲気には似つかわしくない、甲高い罵り声も響いてくる。
ニーナは険しい表情を浮かべると、身を翻して出て行った。
残されたアキとレナスは顔を見合わせ、その後を追いかける。
ヒステリックな叫び声と、陶器の砕ける音。高価な食器類が壁に叩きつけられ、飛び散った破片が危うい所でニーナの顔を掠めていった。
咄嗟にニーナの身体を引き寄せたアキは、凍てつくほどに冷ややかな視線でティーカップを投げつけた娼婦を睨みつける。
腕の中に居るニーナはもちろんのこと、アキの背後に続いていたレナスにも見ることは出来なかったが、その瞳の中には激しい怒りが渦巻いていた。
「誰だあれは」
アキの視線の先に居る娼婦を見て、レナスも眉を潜めた。
歳は三十始めというところだろうか。身体つきも顔立ちも悪くないと思うのだが、ピンク色の髪はボサボサで、焦点の合わない瞳で周囲を睨みつけていた。足取りもおぼつかず、相当酒を飲んでいるようだ。
この高級娼館には相応しくない娼婦の姿であった。そして開店前とは言え、この店でこのような醜態が許されるはずが無い。
「オリビア。新入りなんだけど、問題があって」
醒めた目でオリビアを見据えながら、ニーナが小声で説明した。
「元は銀行家の愛人だったんだけど、お払い箱にされてウチに押しつけられたの。でも本人は昔の栄華が忘れられずに、いつまでも現実を受け入れようとしないから……ああやって酒を飲んでは暴れるわけ」
オリビアを囲むようにして他の娼婦たちが立っているのだが、皆、怖がって近づけないようだった。
「レンは? こういう時こそ用心棒の出番じゃないの」
レナスが疑問を口にすると、ニーナはきっぱりと首を振った。
「ダメなの。これは女たちの問題だから、自分たちで解決しないと。……でも今日はレイチェルもミレイユも留守だし……どうしよう」
歯がゆい思いをしながらニーナは悩んでいた。
何とかしなければと思うのだが、姉さんたちを差し置いて若輩者の自分が出て行くなんて、そんな差し出がましいことは出来ない。しかしレナスやアキの魔法に頼るというのも問題外だ。これは娼婦の問題なのだから、娼婦の手によって治めなければならない。
そうしてニーナが悩んでいる間にも、オリビアの叫びはエスカレートしていった。
「なによアンタたち! なに見てるのよ。アタシを誰だと思ってるの? あのグランジ銀行の頭取に愛された女よ! アンタたちとは格が違うんだから。アタシが望めばねぇ、叶わないことなんて無かったのよ。何でも自分の思い通りにできた。知らないでしょう? そんな上流階級の暮らしなんて。本当に上質で優雅な生活なんて、アンタたちに分かるわけが無いでしょ!」
呂律の回らない声で、娼婦たちを嘲るオリビア。それは完全に酔っ払いの戯言で、ニーナの隣ではレナスが呆れたように鼻を鳴らしていた。
だが娼婦たちの中には、オリビアの言葉に気分を害した者も居たようだ。
悪化していく事態に、思わずニーナが口を開こうとした時。目の前をさっと影が横切った。
「その程度で上流を名乗らないでちょうだい」
凛とした声が、静まり返った店内に響いた。
まだ年若い、少女と言って良いぐらいの娼婦がオリビアの前に立ち塞がり、じっと彼女を見下ろしている。小柄な身体に似合わない不思議な威圧感に、オリビアがたじろいだ。
「……な、なによ」
「本当の上流階級の女が、どんな立場に居るか知らないでしょう? 一日中、絹のクッションに座ってじっとしているだけ。身の回りのことは全て使用人が世話を焼いてくれる。
……だけどね。人の上に立つ人間は決して自分の我を通したり、自由に物を言うことは許されない。厳しく己を律することが生まれながらの義務。上流に行けば行くほどね。
言っては悪いけれど、好きなように面白おかしく暮らしてきた貴女のそれは、中流の生活でしかないわ」
娼婦の言葉には、不思議な説得力があった。まるで彼女が身を持って実感してきたことを語っているように。
その態度と物腰は、かつて彼女が自分の言う「上流階級」に属していたことが容易に想像できるほど、堂々としたものだった。
恐らく、オリビアもそのことを察したのであろう。彼女は苦々しげに口を歪めると「アンタが昔はどれだけの階級だったか知らないけど、今じゃただの娼婦じゃない」と吐き捨てた。
「そうよ」
けれど少女は眉一つ動かすことも無く、オリビアの言葉を肯定した。
「今はただの娼婦よ。私も貴女も……ね。お互いに、用済みになって捨てられた身であることに変わりは無いわ」
少女の言葉に現実を突きつけられ、みるみるオリビアの目が見開かれていったかと思うと――――彼女は床に崩れ落ちて気を失った。
慌てて他の娼婦たちがオリビアの身体を運び出そうと動き出す。後片付けをしながらも彼女たちの熱っぽい賞賛の視線が、少女に注がれていた。
揉め事を解決した年若い娼婦はしばらくその場に立ちすくんでいたが、ため息をついて視線を落とすと階段に向かって歩き出した。
さっと彼女に駆け寄り、その身体を支えたのは、レン。恐らくどこかで今の事態を見守っていたのだろう。彼はニーナたちに気づくことなく、そのまま娼婦と一緒に階上へと消えた。
「……あの女性も新入り。エミレア・ランカード」
彼らの後姿を見送ったまま、ニーナが誰にともなく呟いた。
いつものレンらしからぬ行動。それがあの娼婦、エミレアの存在によるものであることは明らかであった。
そしてそれがニーナにも影響を与えていることを、アキとレナスは気がついていた。