1、美貌の音楽教授
一日の終わりを告げる鐘が鳴り響くと、少女はため息と共にノートを閉じた。
授業の時間をこっそりと課題の反省文を書くことに費やし、どうにか書き終えたのだ。
あとはこれをジン教授に提出すれば、居残りせずに帰ることができる。
「聞いてニーナ!!」
壊れんばかりの勢いで教室のドアが開けられ、非常に美しい少女が飛び込んで来た。
豊かに波打つ水色の髪が、少女の背中で弾んでいる。
クラスメイトたちは彼女の姿を見たとたん、慌てふためきバタバタと教室の後ろへ集まると整列した。
ニーナはノートの上に手を置いたまま迷惑そうな視線を彼女へと向ける。
「……ここには来るなと言っただろうが、レナス」
「知らないわよそんなこと」
抗議の声をバッサリと切り捨て、レナスがニーナの隣の席に腰掛けた。
ニーナはチラリと直立不動のクラスメイトたちに目をやり、心の中で嘆息した。そして非難がましい視線をレナスに送る。
だがレナスは首を振って髪を後ろに流すと、平然と言い放った。
「なによ。私が来たからって普通にしてればいいだけじゃない」
そう言えるのは自分の好きなように生きてきたレナスだからこそ、だ。
普通は貴族クラスの生徒が--しかも「学園の人魚」と呼ばれている彼女が飛び込んできたら、庶民クラスの生徒が萎縮しない方がおかしい。
むしろ身分の差に頓着しない彼女の方が珍しいのだ。
「歩きながら話そうか」
これ以上クラスメイトを緊張させておくのも申し訳ない気がして、ニーナが立ち上がる。レナスもすぐにそれに習った。
「ちょっと教授にこれを提出してくるから」
「何よそれ」
二人並んで歩きながら職員室へと向かう。
「反省文」
「今度は何をやらかしたのよ」
驚いた様子も見せずにレナスが尋ねた。ニーナが罰則を受けるのは日常茶飯事のことだから、いちいち反応していられない。
ニーナは何かと目立つのだ。
容姿は平凡なのだが、不思議な存在感があった。それが独特の物言いと相まって人の目をひきつける。
ついでに言うと、教授陣さえ一目置く「学園の人魚」と親しくしていることも、良くも悪くも彼女が注目される理由の一つであったのだが。
「作文の内容が悪いって」
「作文?」
レナスが形の良い眉を潜めた。
「将来の夢、という内容で書かされたんだけどね」
「それでどうして反省文まで書かされるのよ」
「夢は娼婦かダンサー、って書いたら気に入らなかったらしくて」
呆れて立ち止まるレナス。
ニーナはそれに気づかず、数歩進んだところでようやく、隣に彼女が居ないことに気がついた。
振り返ると咎めるような視線が突き刺さる。
「どうしてそんなに要領が悪いのよ!」
「えー……でも本当のことだし」
「正直に書けば良いってもんじゃないのよ!」
苦虫を噛み潰したような顔で立腹するレナスに、ニーナは不思議そうな視線を送るばかりだ。
レナスはしばらくギリギリと歯軋りをしていたが、やがて諦めた様子で肩を落とした。
「もう良いわよ。それでこそニーナよ」
「ありがとう」
「褒めてない!」
二人は再び並んで歩き出した。
木造だった庶民クラスの校舎を抜けて、中庭を突っ切る。その先にはガラスで建てられた教授棟があった。
乳白色のガラスで出来た建物は一見すると脆そうだが、実は土神の加護を受けた教授が魔法で強化しているため、実際は要塞なみの強固さを持っている。
その壁は今、茜色の夕陽を浴びて不思議な紋様を浮かべていた。
先ほどまで膨れっ面だったレナスの顔が、教授棟に近づくにつれて何かを期待するような夢見がちなものに変わっていく。
それに気づいたニーナが声をかけた。
「どうした、レナス」
「あのね、あのね、さっき話そうとしてたことなんだけど」
うんうんとニーナが頷く。
「新しく来た音楽の教授がすごく素敵なのよ! 今行けばお会いできるかもしれないわ!」
頬を紅潮させ、瞳を輝かせて言うレナス。
そのはしゃぎぶりは、まるで憧れの俳優や先輩を語る思春期前の少女のようだった。
「レナス……たしか私より年上だったよね?」
「そうよ。あなた今年で十五でしょ。私は十七よ。なぜ?」
「いや……」
言葉を濁しながらニーナは視線を逸らせた。
ニーナはレナスの様子を見て、十七にしては反応が初々し過ぎないだろうか……と考えていたのだが、それは単に彼女の周辺に居る女たちが強くて逞しいのと、ニーナ自身が年齢にしては冷めているだけだったりする。
しかしその美しさで数多くの男を夢中にさせてきたレナスが、自分から男に関心を持つというのも珍しい。
一体どんな相手なのだろうかと、少し好奇心をそそられた。
教授棟の入り口を入ってすぐの場所に職員室があり、授業を終えた教授たちがチラホラと戻ってきている。
ニーナがジン教授にノートを提出している間にも、レナスはそわそわと辺りを見回していた。
「来たわ! 彼よ」
耳元で囁かれたニーナが顔を上げると、一人の教授がドアをくぐって入ってくる所だった。
ゆったりとしたローブに包まれた細身の身体。知性的な顔にかけた眼鏡は、髪と同じ銀色だった。
こういうインテリタイプが好みなのか……と観察している間にも、レナスは積極的に話しかけている。
「友人のニーナです」
レナスが嬉しそうに紹介すると、教授がこちらに視線を向けた。
軽く会釈するニーナ。
彼女が庶民クラスの生徒であることは、制服の刺繍で分かるはずだ。
レナスの制服には白い糸で学園のエンブレムが刺繍されている。対するニーナの制服は、紺色の刺繍がされていた。
教授の中には庶民クラスというだけであからさまに見下したり嫌悪の表情を浮かべる者もいる。
この新しい教授がそうした反応を見せたとしても、ニーナは気にしなかっただろう。
だからこそ、笑顔で握手を求められた時は少し面食らった。
「初めまして。音楽教授のアキです」
「ニーナと言います」
握手を交わしながら、ニーナは相手を観察した。
顔立ちの整った綺麗な男だ、と思う。ニーナとの身分の差も気にしている様子は無い。
「貴女は音楽の授業をとっているんですか?」
「いいえ。私の授業カリキュラムには含まれていませんから」
肩をすくめるニーナ。その言葉に皮肉な調子はない。
貴族と違い庶民は必要最低限の授業しか受けないため、音楽や作法などの科目とは無縁だった。
「良かったら今度、音楽クラブを見学しに来て下さい」
「考えておきます」
当たり障りのない返事をしながらニーナは呆れていた。
この教授−−アキと言ったか。庶民クラスの生徒がクラブ活動をする余裕があると思っているのだろうか?
ほとんどのクラブは金銭的にも時間的にも余裕がある貴族クラスの生徒で占められている。
彼らは学校が終わった後で、家業を助けるために働く必要も、生活のために労働する必要もないのだから。
世間知らずで呑気な教授だと思いながら横目で見ると、レナスの目に嫉妬の色が浮かんでいるのに気がついた。
そういえば先ほどから握手をしたままだ。
ぱっと手を離し、「ではこれで」と挨拶をするとドアに向かう。
ただの教授と生徒。しかもニーナは音楽の授業をとっていないのだから、これ以上アキと親しくなることもない。
長居は無用だった。
「ね、素敵な教授でしょう?」
教授棟から出たところでレナスが言った。
上の空で相槌を打ちながらニーナはアキのことを思い返していた。
愛想良く微笑みながら握手をした彼の、瞳だけは笑っていなかった。
いやに無機質な、それでいて警戒と探るような色を浮かべた瞳。
何が目的でこの学園に来たのか。自分には関係の無い話だが、何か気にかかる男だ……と首を捻った。
その頃、アキもニーナのことを全く同じように感じていたとは露知らず。