第55話 斬首作戦
三方ヶ原。
冬の空は高く澄み、冷えた風が草原を渡っていく。
時刻は昼前。
徳川の兵たちは台地の向こうを固唾を呑んで見つめていた。
誰も口数は多くない。
二俣城が落ちてから、まだ一日と経っていなかった。
その速さだけでも異様である。
さらに、生き延びた兵の話は、皆の背筋を冷たくしていた。
――空飛ぶからくりが火を降らせた。
――武田の鉄砲は弾を込めずとも撃ち続ける。
――雷鳴が止まぬ。
酒の席であれば笑い飛ばしたであろう話。
だが、その「与太話」を語った者たちの顔には、冗談の色が一切なかった。
やがて。
丘の向こうに、赤が現れた。
武田の赤備え。……ではない。
兵たちは目を凝らす。
「何だ、あれは。」
誰かが呟く。
赤い。
それは確かに赤い。
だが馬ではない。
牛でもない。
巨大な箱が、四つの黒い輪を履き、列を乱さず進んでくる。
馬が引いている様子もない。
それでも確かに、自ら動いていた。
ごぉぉぉぉ……
腹の底へ響くような唸り声が、風に乗って届く。
獣とも違う。
雷とも違う。
兵たちは思わず槍を握り直した。
「……何だ。」
「何なのだ、あれは。」
十。
ちょうど十の赤い箱が横一列に並び、その後方には黒々とした鉄砲を携えた武田兵が整然と続く。
さらにその奥には、槍隊、騎馬隊、旗本。
見慣れた武田軍の姿がある。
だからこそ、不気味だった。
見慣れた軍勢の中へ、理解できぬものだけが紛れ込んでいる。
その時だった。
「空!」
一人の兵が叫ぶ。
全員が反射的に見上げる。
青空を、小さな黒い影がいくつも横切っていた。
鳥ではない。
鷹でもない。
翼を羽ばたかせることなく、風を切って進む黒い物体。
「……あれか。」
兵が、震える声を漏らす。
「城を落としたという……空飛ぶ、からくりは。」
誰も否定できなかった。
それらは武田軍の上空を静かに旋回し、まるで軍勢全体を見下ろしているかのようだった。
徳川の陣に、ざわめきが広がる。
まだ戦は始まっていない。
矢も飛ばず、鉄砲も鳴らず。
それでも兵たちは悟っていた。
今日、自分たちが相対する武田軍は、昨日まで知っていた武田軍ではないのだと。
◆
武田本陣は小高い丘の上に置かれていた。
馬印が風にはためき、その下では見慣れぬ光景が広がっている。
机上には紙の軍配図だけではなく、黒い箱がいくつも並べられていた。
その一つを抱えた兵が、口元へ細長い器具を当てる。
「山県隊、応答願います。」
間もなく、箱の中から声が響いた。
『山県隊、布陣完了。いつでも参れます。』
通信手はすぐさま別の箱へ手を伸ばす。
「馬場隊。」
『馬場隊、右翼布陣完了。』
「内藤隊。」
『左翼、異常なし。』
「高坂隊。」
『後詰め、配置についた。』
伝令が馬を飛ばすこともなく、わずか数息で全軍の状況が本陣へ集まる。
通信手は信玄へ向き直った。
「御屋形様。各隊、布陣完了にございます。」
信玄は静かに頷いた。
「うむ。」
本陣の後方では、周防ミシェルが腕を組み戦場を眺めている。
そこへ、空を見上げていた兵が声を上げた。
「偵察班より入ります!」
別の通信手が受信機へ耳を寄せる。
『こちら一番機。徳川本陣確認。』
『白地に三つ葉葵の馬印を視認。』
『総大将と見られる一団を確認しました。』
通信手が素早く報告する。
「敵本陣、捕捉。総大将と見られる集団を確認。」
信玄はゆっくり頷いた。
「よし。」
ミシェルは空を旋回する小型機を見上げる。
「信玄公。一つ、懸念がありますわ。」
「申せ。」
「二俣城では城方の反撃が散発的でした。ですが今回は野戦。この平原ではいい的です。」
現状の兵の操縦技量では、射撃しながら機体を細かく動かすことはできない。
いかに現代兵器でも、操縦手の腕はどうしようもない。
「攻撃時にはどうしても動きが止まります。撃ち落とされる可能性がありますわ。」
信玄は微塵も動じなかった。
「ならば。止まる時間を与えねばよい。」
軍配を家康本陣へ向ける。
「爆装機を飛ばせ。」
本陣に控えていた兵が一斉に動き出す。
爆薬を腹に抱えた小型の飛行機械が次々と地面へ並べられる。
操縦兵がしゃがみ込み、羽を回し始めた。
甲高い音が幾重にも重なる。
やがて。
一機、また一機。
爆薬を積んだ機体が空へ舞い上がる。
信玄はその姿を見送り、静かに言った。
「まずは家康。その後、壊走した軍を殲滅する。」
赤き軍勢の頭上を、爆装した黒い影が一直線に徳川本陣へ向かって飛び立った。
ミシェルは思考する。
(ドローンによる敵指導者へのピンポイント爆撃……『斬首作戦』。現代ですら対策困難、この戦国の世で防ぐのは不可能に近い。)
「普通なら、これで詰み。……普通なら。」
しかしミシェルの脳裏にある唯一の可能性についてはまだ排除できていなかった。
(魔法少女が、いなければ。)
◆
徳川本陣。
家康は軍配を掲げ、各隊へ次々と指示を飛ばしていた。
「忠次は右翼を支えよ。」
「榊原は左翼との連絡を絶やすな。」
「伝令、浜松との街道は確保できておるか。」
その時だった。
本陣背後の物見櫓から、兵が血相を変えて叫ぶ。
「申し上げ――」
言葉は最後まで続かなかった。
家康もまた、それを見たからである。
空。
冬空を切り裂き、黒い影が一直線に迫ってくる。
五つ。
羽ばたきもせず。
風に流されることもなく。
ただ真っ直ぐ、本陣だけを目指していた。
「……来たか。」
家康が低く呟く。
物見の兵が震える声を上げる。
「空飛ぶからくり!本陣へ参ります!」
「鉄砲隊!何をしておるか!?撃ち落とせ!」
号令が飛ぶ。
だが遅い。
火縄へ火を移し、弾を込め、狙いを定める。
その間にも黒い影は距離を詰めてくる。
「弓!」
矢が放たれる。
しかし届かない。
届いた数本も、虚しく空を裂くだけだった。
「父上!」
綾が一歩踏み出した。
細い腕を大きく引く。
その腕が。
ぶくり、と膨れ上がった。
袖が張り裂けんばかりに膨張し、橙色の鱗が陽光を弾く。
筋肉が、別の生き物のように隆起する。
本多忠勝が目を見開いた。
「綾様――」
綾は地に突き立てられていた槍を掴む。
「はぁっ!」
轟音。
投じられた槍は、弓矢など比較にならぬ速度で空を裂いた。
一機を正面から貫く。
直後。
空中で火柱が上がった。
爆音。
黒煙。
破片が雨のように降り注ぐ。
「なっ……!」
徳川兵たちが息を呑む。
綾の瞳が残る四機を捉えた。
「本田殿!父上を!」
その一声だけ忠勝へ残し。
綾は地を蹴る。
一本の槍を手にして。
大地が砕ける。
人とは思えぬ跳躍。
一息で十数間を飛び、なお上昇する。
空中で槍を握り締める。
「おおおっ!」
槍が黒い機体へ叩き込まれた。
機体は真っ二つとなり、そのまま爆炎へ変わる。
轟音。
爆風。
(ひとつ!)
爆風の中。
綾はなお落ちない。
空中で槍を掴み直し。
もう一機へ投げ放つ。
貫通。
爆発。
(ふたつ!)
さらに腰の刀を抜く。
閃光のように投げ放たれた刃が、四機目を切り裂く。
炎。
爆風。
黒煙。
(みっつ!!)
綾はその勢いのまま地上へ落ち始める。
(ぐっ……ッ!逃したッ!!)
最後の一機。
煙幕の陰に紛れたそれが、本陣へ飛び込む。
忠勝は即座に前へ出た。
大盾を構える。
家康を背にかばう。
直後。
凄まじい爆音が本陣を呑み込んだ。
土煙が舞い上がる。
爆風が旗を薙ぎ倒し、人馬を吹き飛ばす。
煙が晴れる。
忠勝はなお立っていた。
盾は無残にひしゃげ。
構えた左腕は不自然な方向へ折れ曲がっている。
耳からは細く血が流れ、音のない世界の中で、それでもなお忠勝は倒れはしなかった。
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武田の現代兵器が三方ヶ原を蹂躙し、徳川軍は未曽有の猛攻に晒される。絶望の最中、綾は家康との記憶を想起する。少女の姿を脱ぎ捨て、新たな力が戦場へ解き放たれる。
次回「橙鱗龍姫」
戦場に立つのは少女か、それとも龍か。
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