第1話 はじまりの千円札
金木犀の香りは、いつも予報なくやってくる。
校門を抜けた時、甘く、懐かしい香りが鼻をくすぐった。まだ暑さの残る午後の空気に、秋の報せが混じっている。
今井雄二は、自転車のハンドルを握る手に少し力を込めた。彼にとって、この香りは、ただ静かに過ぎ去る季節の記録に過ぎなかった。
あの日までは。
駅の券売機で、彼女は立ち尽くしていた。
夕方のラッシュが始まる直前、まばらな人混みの中で、その背中が心細そうに見えた。
彼女は千円札を投入口に入れようとしていた。しかし、機械はその札を無情にも吐き出し続ける。
三度目、四度目。背後に並んだサラリーマンが、舌打ちをした。
今井は自分の後ろにも人が並び始めたのを感じ、一歩前へ出た。
「あの……」
声をかけると、彼女が弾かれたように振り向いた。大きな瞳が不安げに揺れている。
今井は自分の財布から、真新しい千円札を取り出し、彼女に差し出した。
「これ、使って。俺のと、交換で」
彼女は驚いた顔で今井の手元と顔を交互に見たが、やがて「あ、すみません……ありがとうございます」と消え入る声で言い、札を受け取った。
今度は、機械は素直にそれを飲み込んだ。
カードを手に、彼女は今井に向かって頭を下げた。
「本当に……、ありがとうございました」
そう言い残して、彼女は改札の向こうへ消えていった。
人の流れに押されて歩き出したあとも、視線が動いている。
さっきの後ろ姿を、探している。
(……いや、別に)
自分に言い聞かせるように首を振り、改札を抜けた。
その日から、今井は彼女の姿をたびたび見かけるようになった。
彼女は今井を見つけると、必ず足を止め、花が咲くような笑顔で、小さく会釈をしてくる。
今井はといえば、顔を赤くしてぎこちなく頷くのが精一杯だった。
彼女の名前も知らない。ただ、彼女が同じ学校のどこかにいて、自分と同じ空気を吸っている。
それだけで、今井の日常は少しだけ違って見えた。
「おーい、今井! また魂抜けてんぞ」
教室に響き渡る声の主は、親友の山崎。
クラスのムードメーカーで、今井とは中学からの腐れ縁だ。
文化祭の出し物が『現代版・ロミオとジュリエット』の劇に決まり、実行委員として張り切っていた。
「劇なんて、俺には向いてないって……」
「固いこと言うなよ。エキストラの街の人Aでいいからさ。お前がいないと締まらないんだよ。適当だけどな!」
山崎はそう言って笑い飛ばす。
今井は隙を見ては練習を抜け出し、図書室や駐輪場へ逃げ込んだ。
目立つことは嫌いだ。自分のような陰キャが舞台に立つなんて、考えただけでぞっとする。
そんなある日の放課後だった。
エキストラが足りないと頭を抱えていた山崎が、一人の女子生徒を連れてきた。
「みんな、注目! 他のクラスから助っ人が来てくれたぞ!」
教室の入り口に、少し緊張した面持ちで立っていたのは、あの駅の彼女だった。
「早川なつみです。よろしくお願いします」
控えめな声たが、その響きは騒がしい放課後の教室に不思議なほどよく通った。
「まさか……」
今井の心臓が、大きく跳ねた。
彼女はこちらに気づくと、いたずらっぽく目を細めて、小さく会釈をした。
その日を境に、今井の態度は一変した。
「おい今井、今日もサボりか?」と呆れ顔で聞いてきた山崎に対し、今井はカバンを机に置き直して答えた。
「……いや。練習、出るよ」
慣れない演劇の練習。ぎこちない立ち居振る舞い。それでも、同じ空間に彼女がいる。
自分の視線の端に、いつも彼女の姿が映っている。
それだけで、今井の日常は、ほんの少しだけ色を変えていた。
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次回、第2章は明日の8時に公開予定です。引き続きよろしくお願いいたします。




