第4章
私が実家の帰って三日目の夕方、由香利から携帯に電話が入った。
私は散々迷った結果、電話に出た。
由香利から何かの情報が聞けるような気がしたからだ。
由香利の電話は、主人との不倫がバレた事を知らずに、明るい口調で私に語りかけた。
「お父さんの具合が悪いんだって?容態は大丈夫なん?」
私は、ポツリと彼女に答えた。
「うん。大丈夫」
彼女は心配そうな声で言った。
「なんだか”サメちゃん”元気ないやん。大丈夫?」
私は、”サメちゃん”という彼女に苛立って言った。
「何で、私が実家に来てるのを由香利は知ってるん」
私が実家の帰ってることは家族しか知らないのに、彼女が知っているという事は、主人から流れた情報に違いなかった。
なぜ彼女は、そんな事にも気づかずに墓穴を掘ってしまったのだろうと私は思った。
まるで、彼女と主人が繋がっているのを証明するような失態だった。
彼女は、少しだけ口ごもったが答えた。
「昨日、”サメちゃん”の家に電話したら、たまたまさあ、ご主人が言ってたから」
私は、彼女の嘘に呆れたような口調で言った。
「由香利。あなたは今迄、私に電話するときは携帯しか使わなかったんちゃうん?」
彼女は、慌てて言った。
「いや、ね。”サメちゃん”の携帯が電波悪かったのかな?繋がらなかったんで家に・・・」
主人からか、彼女からなのかは解らないけれど、携帯で連絡取りあった時に情報を入手したに決まっていた。
彼女が”しまった”と思っている素振りが受話器を通して、私に伝わってきていた。
私は彼女の苦しい言い訳を聞きかねて言った。
「もう、いいって。由香利さあ。私に隠れてやってる事あるやん。何故なん?」
彼女は、少し沈黙をして、そしてトボケた。
「何のこと?隠れてって・・・。意味解らないけど。あなたの言ってる事」
私は怒りに似た感情で、手が震えて身体全体が震えるのを抑えて言った。
「由香利・・・バレてるし、主人との事」
彼女は、固まって声が出無いようだったが、急に慌てながら言った。
「何の事だか・・・”サメちゃん”誤解してるって。ご主人と付き合ってなんかないよ」
私は言った。
「誰が、主人と付き合ってるって言った?」
私は、確かに彼女に”付き合ってる”とは言っていないし、彼女と主人が不倫しているとも言っていない。
彼女は、暫く沈黙をしたままだったが、静かに言った。
「そういうことだったんか。もう、バレてるのか・・・だから、実家に帰ったん?」
私は、彼女の言葉を聞くか聞かないかで電話を切った。
私の目に、悲しみなのか悔しさなのか解らない涙が溜まっていた。
一時間程して、主人が携帯に電話してきた。
由香利から不倫がバレた事の連絡が、主人に入っている筈だった。
私は、主人がどんな言い訳をするのか聞きたくて携帯電話を取った。
主人は、神妙な口調で言った。
「親父さんの調子はどうだ?ところで真琴、いつ帰ってくるんだ?」
私は、その軽率な問いに答えた。
「お久しぶりです。由香利から電話が入ったんでしょう?」
主人は一瞬黙って、そして切り出した。
「あのな。何言ってるねん?そんな事は誤解やって・・・なあ、迎えに行こか?」
私は、無神経な言葉に涙が出てくるのを感じながら言った。
「誤解って?どんな誤解なん?」
主人は、しどろもどろになって言った。
「いや、誤解とか違ごてな、いや、誤解やて。お前、何疑ってるんや。何もしてないって」
私は悲しさを通り越した感情が、怒りに変わりそうな自分を抑え言った。
「でも、由香利から電話あったんでしょ!さっき、バレたって」
主人は、溜息をついて言った。
「まあ、有った事は有ったけど、お前が誤解してるから電話してくれと」
私は言った。
「おかしいやん。だったら何故、あなたの携帯電話の番号を由香利が知ってる訳?」
主人は自分が言った言葉に、辻褄が合わないことを理解して閉口した。
主人は、長い時間黙って言い訳を探したが見つからなかったようだった。
「兎に角、いつ帰ってくるんや!子供をほったらかして、それでもお前は母親か!」
逆切れした主人に、私も感情的になって言った。
「あなたこそ不倫をしていて、娘に父親だと言えるの!」
私は携帯電話を切って畳の上に投げ捨てた。
私は、その夜になって父母に、主人とは離婚を前提に話を進める事を伝えた。
私は、自分の方向性が決まると何だか気が落ち着いたように感じた。
確かに娘の事は心配だが、今の状態で家に戻っても解決しないし、一緒に一つ屋根の下に住む事自体が無理だと思った。
そして、今更ながら主人と由香利の不倫関係を、知らなかった私の鈍感さを嘆いた。
由香利が以前に行っていた”不倫相手の無邪気で鈍感そうな妻”とは、私を見て言った事だと理解できた。
過去に主人の言った出張と、由香利の実家に帰っていた日が重なる事に疑問を感じていなかった私の不注意もあった。
たぶん、その日も由香利と主人は、何処かの温泉にでも言っていたのかも知れないと私は思った。
主人の早退や出張の日は、由香利と連絡が取れない日と一致していていた事も、思い起こせば不思議な一致だった。
私は主人と由香利が、いつ頃から付き合っていたのか知る由も無かったが、二人に対する憎しみに似た感情は、ますます大きくなっていくのが解った。
私が実家に帰って四日めの夜、私の父の提案で主人と私と私の両親、そして主人の両親が膝を突き合わせて会った。
私は始終、主人の顔を見ずに下を向いていた。
主人は私の父の質問に、苦し紛れの言い訳や言い逃れをしていたが、最後には由香利との不倫を認めた。
主人が言い逃れ出来なくなった理由は、会社で調べた主人の嘘の出張や、嘘の早退などの証拠を突きつけたのが引き金となった。
主人の両親は、息子の不倫をなじったが、最後には私の主人に対する気遣いや態度が行き届かなかった点も有るのではないかと突いて来た。
冷静な私の父は、これ以上話し合っても、元の鞘に収まることは無いと判断し、離婚を前提に話を進める事を切り出し、主人や主人の両親も渋々納得した。
私は、実家に居ても気が滅入ると思い、翌週の月曜からは会社に出勤した。
勿論、実家から通った訳だが、会社には家庭騒動は内緒にしてあった。
私は会社で、重い心を背負ったままだったが、無理に笑顔で対応していた。
社内の仕事が上の空になりがちで、今までに無かったようなミスも連発したのは事実だった。
ある日、社長が社長室に来るようにと言った。
社長は、屈託のない笑顔で言った。
「鮫島君、何か心配事でもあるんか?最近、ちょっと痩せたようだし大丈夫か?」
私は作り笑顔で言った。
「はい。ちょっと、体調不良なだけですから、ご心配を有難うございます」
社長は頷いて言った。
「無理しないように。何か相談あれば言ってくれ。いつでも相談にのるから」
私はお礼を言ってデスクに戻った。
社長は私の体調では無く、私の精神的な悩みだと見抜いているようだった。
しかし社長が、それ以上の事を私に言わなかったのは、社長の懐の深さだと思った。
私は、数日して社長に真実を話し、離婚を前提に別居する事を伝えた。
社長は驚いていたが、そういうことになったのなら仕方ないといって力を貸してくれた。
社長の提案で、私は会社の近くの会社が管理賃貸しているマンションを借り、娘と一緒に暮らすことになった。
私は会社の同僚にも別居を報告して、離婚を前提に別居する事を話した。
私は心機一転、会社の仕事に精を出し、離婚を前提に別居と言う現実を思わせないほど、明るい笑顔を振りまいていた。
社長も私の事を気遣って、色々と便宜を図ってくれたり声をかけてくれたりした。
私は、思い荷物を下ろしたような気がしたが、暗い過去が消え去るものでは無いと自分に言い聞かせ、ハンディキャップを背負って生きる事に強い意欲を持つことを誓った。
以前の私より数倍、自分が強くなったような気がして、自分が頼もしく思えたのも事実だった。
私は母子二人の生活をする上で、男性の力は借りたくなかったし、未来にかけても男性に頼るような事はしないだろうと思った。
母親として強く生きなければならないし、私を襲った悲劇である”不倫”という言葉に近づきたくなかった。
それは自分自身が味わった過去から来る、悲惨なトラウマのようにも感じていた。
別居後の私の生活は、多忙を極め息を付く暇も無く過ぎていった。
家庭裁判所での調停は、半年足らずで案外早く終了した。
私が収入があることと、娘の強い意志で親権は私に与えられた。
主人には一定の養育費の負担と、若干の慰謝料の負担が決定した。
私はローンの残った自宅は要らないし、慰謝料も要らないといったが、最終的には周りの助言で控えめながら慰謝料をもらう事にした。
その後、主人と由香利の関係がどうなったのかとか、由香利の家庭がどうなったのかとかは知る由も無かった。
私と娘は、”鮫島”から旧姓の”白川”に苗字を戻した。
やっと、”鮫島”という可愛くない苗字から、心身ともに開放されたという思いがあった。
娘は宇治市内から京都市内に転校し、私たち母子の生活が始まった。
離婚後の私は、山中社長と距離を置いて接していた。
離婚から一年が経った時、社長がジョーク交じりで”離婚一周年記念パーティー”を開催しようと言い、社員数名を入れた社内食事会を開いてくれた。
その食事会には娘も出席し、賑やかなパーティーになった。
社長は自分には子供が居ないせいなのか、人見知りの激しい私の娘に気を遣いながら、娘と楽しそうに話をしてくれた。
娘と社長は打ち解け、笑顔で長いあいだ親子のように喋っていた。
私は娘と社長を見ながら、社長が素敵な父親のように見えたのが不思議だった。
私は、そんな二人を見ながら父親の居ない家庭にした責任を感じるとともに、私の人生にも夫が居なくなったという喪失感を何となく感じ取った。
娘が笑えば笑うほど安心感が増す一方、私の中の孤独感は少しずつ大きくなるように感じた。
私は、離婚して一年経った現在、頼れる優しい男性の影を追い続けている自分を実感していた。




