第3章
私は主人に対して疑惑を感じた日から、表向きは何事も無かったように主人に接した。
しかし私は、主人の言動や行動に対して注意深く観察するようになった。
疑惑を前提に主人の振る舞いを見る私は、今迄以上に主人の微妙な表情を捉えていた。
私は、世間で言う仮面の夫婦のような生活を考えたら、精神的に堪えられないような気がした。
本当に主人は、浮気をしているのだろうか?
本当に主人は、私を裏切っているのだろうか?
もし、主人が私を裏切って不倫をしているとしたら、誰が相手なのだろう?
私の胸に渦巻く暗い不信感は、ただの思い過ごしであるようにも感じるし、テレビドラマのような危機が私の家族に降ってくるのは、何かの間違いのような気がした。
五月のゴールデンウィークの最終日に、主人の会社の家族パーティーが開催された。
主人の会社の福利厚生として毎年開催されるパーティーは、京都市内の有名ホテルで今年も行われた。
その目的は、社員と家族の親睦と家族サービスの為に行われる。
私は主人と娘と三人で、夕方から行われる宴会に、のお洒落をして出席した。
会場には、一年ぶりに見る主人の会社の役員や同僚と共に、多くの家族の姿があった。
主人は四月の人事で係長から課長に昇格し、担当部署を変わっていた為かテーブルで食事をするより、ビールを注ぎに各テーブルを回っていた。
主人の元の部署にいた社員が、挨拶とともに私に声を掛けて来た。
「奥さん、お久しぶりです。しかし、いつ見てもお綺麗で鮫島課長も鼻が高いですね」
私は、微笑みながら言った。
「田中さんも、お口が上手になられましたね。お宅の奥様こそ、お綺麗じゃないですか」
彼は、手で否定しながら続けた。
「しかし、ご主人も昇進されて良い部署の課長になられて良かったですよね」
「僕なんか、月に三、四回は出張で家を空ける事になるので、ご主人が羨ましいです」
私は、彼の話と以前に話した主人の話の食い違いを感じて尋ねてみた。
「ええ、そうなんですか?主人の部署は出張が無い部署なんですか?」
彼は、にこやかに笑って言った。
「まず無い部署ですね。良かったですね奥さん。うちの家内なんかブツブツいってますよ」
私は、愛想笑いをしながらも強張った顔で言った。
「そうなんですか。居ないほうが気が楽で良いんですがね」
彼は私の誤魔化した冗談に笑ったが、話題を変え急に心配そうな声で言った。
「ところで、ご主人の体調いかがですか?」
私は意味が解らず尋ねた。
「ええ、主人の体調ですか?」
彼は、私の問いかけに答えた。
「最近、体調不良で欠勤とか早退が多いみたいですが、心配していたんですよ」
私は愕然としながらも、悟られないように言った。
「ええ、まあ、ちょっと疲れていたみたいで、大丈夫みたいですよ」
彼は、お大事にと言い私の席を去り隣のテーブルにビールを注ぎに行った。
私は、各テーブルに笑みを浮かべてビールを注ぎに回っている主人を見ていた。
この一ヶ月、主人の体調が悪いという話も聞いていないし、欠勤や早退をした形跡は無かった。
主人は、私に何かを隠している事は明白だった。
それに、昇進と共に出張が多い部署に配置された事を、わざわざ私に告げたにも拘らず、実際には殆ど出張が入らない部署だと、会社の同僚から聞かされた。
私は、先月も出張だといって二日間家を空けた主人を、疑念の目で遠くから睨んでいた。
そして、先月会社を早退した主人は、何処に行っていたのかという疑問も湧き上がった。
私は食事も手に付かず、オロオロと考えているばかりだった。
主人は、テーブルを一回りして娘の隣の席に座り、普段のように振舞っていた。
私は、そんな主人の横顔を見つめながら、怒りにも似た屈辱感を感じていた。
その後の日常生活においても、私は主人に疑念を持ったままで、主人に問いただす事はしなかった。
疑念は有っても確信が無い限り、切り出せない重い内容だと私は思っていた。
翌週の水曜日は、私の会社の定休日だったので家事に精を出していた。
夕方五時頃に主人からの電話があり、接待が入ったので帰りは夜半になるだろうとの事だった。
私は、午後六時頃からクリーニング店に洗濯物を取りに行く事と、少し離れた大型スーパーに買い物に行く事に決めた。
私は私の軽自動車を運転し、洗濯物を取ってから大型スーパーの駐車場に車を入れた。
車を降りようとしたとき、友人の由香利がスーパーの建物の前に立っているのが見えた。
私は主人の行動の疑惑を由香利に、思い切って相談しようと閃いた。
不倫をしている由香利なら、男性の行動についても詳しいと思ったからだ。
自分の主人の疑惑を、由香利に露呈するのは情けない事だが、誰かに相談しないと自分自身の心が折れてしまいそうな気がしていた。
私は、人待ち顔で一人で立っている由香利を目指して、駐車場の中を早足で歩き出した。
彼女は、Tシャツにデニムのミニスカートを履き、メッシュのパンストとサンダルという若々しい服装だった。
三十四歳の主婦には見えない派手な服装でスーパーに買い物なんて、彼女らしいと言えば納得できる服装だった。
私が、もう少しで彼女に声を掛けられる距離まで歩いて行った時、彼女は駐車場に入ってくる車を見つけて大きく手を振った。
私は、彼女が誰かと待ち合わせをしていた事に気づき、声を掛けるのを止めた。
私は、彼女の前に止まった車を見て愕然とした。
彼女は、その車のドライバーに話しかけながら笑顔で乗り込んだ。
その車は、間違いなく私の主人の通勤に使っている乗用車だった。
私は、駐車場の車の陰からナンバーを確認し、ドライバーが主人である事を確認した。
私の身体はブルブル震え、金縛りにあったように、その場から動かなかった。
主人の車は彼女を乗せて動き出し、スーパーの駐車場から出て行こうとしていた。
私は、無意識に駐車場を走り出し大通りに出ていた。
そして、運よく前を通ったタクシーを止め、主人の車を指差して追跡してくれるように、タクシードライバーに指示した。
私は、主人と由香利が何らかの関係が有る事を知った。
何らかの関係は、不倫関係に違いなかった。
私は、由香利の言った不倫男性は、私の主人だったのかと確信したとき絶望感と共に由香利の裏切りと主人の裏切りを確信した。
私は、タクシーの中でも手足の震えは止まらず、唇まで震えているのが自分で解っていた。
私は、主人と由香利に騙されている哀れな女だと知って、悲しみなのか怒りなのか解らない感情を持て余して、膝の上で手の指を力いっぱい握っていた。
主人の車は15分ほど国道一号線を走り、名神高速道路の京都南インターチェンジ界隈のホテルに入って行った。
私は、そのホテルの名前を見たとき、由香利の口から出たホテルの名前と、主人のポケットに有ったライターの名前が完全な形で一致した。
私は、タクシーをスーパーに戻すようにドライバーに指示し、今度は脱力感に似た感覚のまま、遠い目をして後部座席に座っていた。
私は、この現実を把握して誰に相談したらいいのか、どんな行動をしたらいいのかまで頭が回らなかった。
ただ、どん底に落とされた絶望感だけが私を支配し、私の胸の中には正常に事態を処理する能力は無かった。
今日も主人は、私に接待で遅くなると嘘の電話をして、会社帰りに由香利と不倫を楽しんでいたのだ。
あれほど、自分から不倫を否定するような発言をした主人に、憤慨と言うより絶望を感じている自分が悲しかった。
私は、自宅に戻ると多少の衣装や必要な物を纏め、自分の車に積み込んだ。
娘には、実家の祖父が具合が悪いので、数日間は看病の為帰ることを伝言し家事などをするように指示し家を出た。
私は今日の事実を踏まえて、普通どおり主人の顔を見ることは出来ないと感じた。
恐らく、私は修羅場になりそうな場所から逃げてしまいたい気持だけを優先させた。
兎に角、今は主人から離れる事が自分にはベターな選択だと考えた。
私は、実家の父母に数日泊めてもらう事を連絡し、夢遊病者のように車を走らせた。
私の頭の中には、これからどうするのかとか言う考えは一切浮かばなかった。
一つだけ浮かんだ事は、明日から数日間は体調を理由に、私の会社に欠勤の連絡をしなければいけないという事だけだった。
私は、1時間ほどで実家に到着した。
私は玄関で、父母の顔を見ると自然に感情が溢れ出し、涙と共に声を出して泣き始めた。
父母は互いの顔を見合わせ、嫁いだ娘が突然帰ってきた様子に困惑していた。
私は夜中まで泣き続け、その合間に父母に対して主人の不倫の内容をぶちまけた。
父母は思いがけない娘の帰宅と、思いがけない帰宅の理由に戸惑いを隠せなかった。
その後の私は、ただ精神が破壊されたように呆然としているだけだった。
食事もせず布団に入る事もしない娘に、父母は心配をして傍に付き添っていた。
私は、そんな父母を逆に心配して布団に入り、泣き続けて居るしかなかった。
翌日、主人からの電話が携帯にあったが出なかった。
母は実家に掛けて来た主人の電話に、父の調子が悪いので付き添っていると嘘を言って誤魔化し、時間稼ぎをしたようだった。
私は布団の中で一日中、何も食べることなく魂が抜けたようになっていた。
”離婚”という二文字の言葉が、私の頭の中に回り始めた。
今更どんな綺麗事を言っても、元通りの生活に戻れない事を自分で解っていた。
私は、まだしも由香利と言う親友が不倫相手でなかったら、もう少しは救われていたように思ったが、主人と親友に裏切られたショックは大きかった。
しかし、どういう経緯で主人と由香利が不倫関係に陥ったかは、結びつける事が出来ないままだった。
主人は私の親友との不倫関係を、どう思っているのだろう?
由香利は、私の主人との不倫関係をどう思っているのだろう?
主人と由香利を結びつけた原因は何だったんだろう?
そして、私は多感な年代の娘の事を含めて、これからどうすればいいのだろう?
私の身体からは、大きな溜息と涙しか出てこなかった。




