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第2章

 社長に送ってもらって、私は主人も娘も居ない自宅に帰り、久々に味わう開放感に浸っていた。

 不思議なもので、以前なら誰も居ない自宅は淋しく怖く思ったのに、この開放感が至福の時間に思えている私が居ることに気づいた。

 結婚して十五年も経つと自分だけの自由な時間が、こんなに貴重な時間に思えるのかと心の中で苦笑した。

 夜九時頃、主人から家に電話があった。

 東京本社での業務が片付かず、もう一日だけ出張を延長すると言う電話だった。

 私は更に一日、主人と娘が居ない自由な時間が味わえると心の中で喜んだ。

 そして、近所に住む女子高時代からの親友の由香利に、明日の夜に食事でも行かないかと誘うために携帯に電話を入れた。

 しかし、彼女の携帯は電源が入っていないのか応答をしなかった。


 そして私は、さっき食事を終えて別れた山中社長の事を考えていた。

 主人も彼のような、ダンディーで気の付く男性であれば私も幸せだったのにと思いながら、リビングの天井を見つめた。

 もしかしたら、社長は私に好意を持っているのではないかと思ってもみたりした。

 私は、社長の顔を思い浮かべながら、”不倫”という言葉が頭の中に渦巻いていた。

 夫人との関係が上手くいっていない彼と、主人の包容力の無さに失望している私が、惹きあう関係になっても不思議ではないと私は思ったが、私は頭の中で打ち消した。

 あまりにも飛躍した空想ドラマを見ている自分が、恥ずかしくなった。

 何かの拍子に、そういう関係になったらという不安と、秘かな期待が湧き上がってくるのを感じ、私の胸は脈打っていた。

 私は、そんなふしだらな関係を否定しながらも、期待をしている自分に不思議な違和感を感じていた。

 以前に、友人の由香利の不倫話を聞いて、心の何処かに眠っていた私の主人に対する不満と、女性として今尚ドキドキするような恋愛をしたいという本能が、頭の中で具現化してしまったのではないかと思った。

 しかし私には、不倫を肯定する自論も無いし、自ら不倫に踏み出す勇気もないと思った。

 由香利の不倫談義は私の心の中に、自分でも知らなかった邪悪な波紋を投げかけたように感じていた。

 

 翌日、私にとって連続で自由な夜がやってくるのを、心の奥底で楽しみにしながら会社の仕事を終えた。

 私は、友人の由香利を食事かカラオケにでも誘おうと思い、彼女の携帯に電話を入れた。

 彼女は、今日の夜までは実家に帰っているので、自宅に帰るのが遅くなると言う事を私に伝えて私の誘いを断った。

 私は、久々に自由な時間が有るにも拘らず、その自由な時間の使い方が解らない自分に初めて気づいた。

 いつも会社と自宅の往復で家事に追われていた自分が、いざ遊ぶと言う事になると遊ぶ方法を知らないという事に愕然とした。

 私は会社のデスクに座って、自分の自由な時間の使い方を考えながら、誰も居ないオフィスの壁をじっと見つめていた。


 突然、後から肩を叩かれて私は我に返った。

 そこには、山中社長が笑みを浮かべて立っていた。

「ボーとして、どないしたん?もう五時半やで、早く帰らないと旦那に叱られるよ」

 私は、複雑な笑いをして社長に言った。

「そうなんですが、今日も主人と娘が居ないから独身なんですよ」

 社長は私の顔を暫く見てから言った。

「そうか・・・そりゃ良いような悪いような、鮫島君にとっては複雑な心境やね」

 私は、社長の顔を見て言った。

「急に自由が出来ても、一緒に遊ぶ友人も居ないですから、考えると微妙ですね」 

 社長は腕を組み直し、少し頭を傾げていった。

「じゃあ、2日連続で鮫島君とデートするか?」

 社長の冗談めいた誘いに、私は答えた。

「社長さえ良かったら、お供しますよ。って言うか、私って厚かましいですよね」

 社長は可笑しそうに笑ってから言った。

「いいよ。じゃあ、まずはメシ食いに行こう」

 私は社長と二日連続で食事に行く事になった。

 社長は”まずはメシ食いに行こう”と言ったが、食事の後にイベントがあるのだろうかと私は思った。

 もしかしたら不倫の切っ掛けというのは、こんな軽い食事から始まってしまうのだろうかとも思った。

 私は、自分が変に緊張しているのを感じ苦笑した。


 社長と私が、彼の行きつけの寿司屋で豪華な食事を済ませると午後八時前だった。

 彼は時計を見ながら、私の了解を取ってカラオケの出来るラウンジに連れて行った。

 時間も早かったので、ラウンジは彼と私の貸切状態で、私は何年かぶりに数曲カラオケを歌った。

 社長は、私の歌を褒めながらバーボンを飲み上機嫌だった。

 店のソファーに社長と並んで座っていると、何だか恋人のような気分になっている自分がいた。

 そして、違和感や緊張感を感じさせない彼の振る舞いや、言葉の優しさが私の心にジワジワ染み込み、その居心地のよさに私は少し酔いを覚えた。

 知らない間に、私は彼の肩に頭を乗せている事に気づき驚いて姿勢を正した。

 彼は姿勢を正した私の目を見て、可笑しそうに微笑んだ。

 午後十一時になって、彼は店のスタッフにタクシーを二台回すように言い、店の勘定をするように言った。

 彼は断る私に一万円を渡し、タクシー代にするようにと言って別のタクシーに乗った。

 私はタクシーで自宅まで帰り、誰も居ないリビングの明かりを点けて座り、社長との今日のアフターファイブを思い巡らせた。

 私は、社長である彼の優しさや温もりや、男らしさに惹かれている事を実感していた。

 彼がアルコールに少し酔った私を誘惑していたなら、私は彼の腕の中に身を任せていたかも知れないと思った。

 彼の優しい瞳と、豊かな表情から伺える信頼感は、そんな関係に対する罪悪感や拒絶感を払拭してしまう何かが有ると私は感じていた。

 私の中に今迄有った貞操感を凌駕して、私の中にある悪魔的な感情と彼に対する期待感が頭を持ち上げて居るように思えた。

 私は彼の夫人の事は一切知らないが、私が彼と不倫関係に陥る事になったら、どんな世界が広がっていくのだろうと想像した。

 私は主人と娘に秘密を作り、由香利のように怪しげな影を持った女として、仮面を被った主婦になってしまうのだろうか。

 私は自分の女としての可能性と、悪女としての妻と母親を演じる事ができるのだろうかと思った。

 私は、いけない方向に誘う悪魔と、それを宥める天使との間に立っている自分を想像していた。


 次の日の夕方、娘は私の実家から帰宅し、主人は東京の出張から帰ってきた。

 これで私の自由な生活は、元の普通の生活に戻る事を私自身が認知せざるを得なかった。

 主人と娘が居ない間に、勤務先の社長と食事やカラオケに行った事に、大きな秘密を持ったような気がした。

 久々に帰ってきたように思える娘は上機嫌で祖父母の話をし、東京出張に行っていた主人も思いのほか上機嫌で、出張に出る前に喧嘩じみた言葉を交わした風には感じさせなかった。

 私は、家族で久々に楽しい食事をしたように思えた。

 主人は会社の話を上機嫌で話し、今月から二週間に一度のペースで東京本社への出張が入る事も話した。

 主人は四月の人事移動で、本社と支店を定期的に動かなければならない部署の課長に昇進したと報告した。


 しかし、主人の昇進は彼の実力で勝ち取ったものではなかった。

 主人の話によると、以前の課長が社内の女性と不倫関係になり、それが暴露されて社内問題に発展して降格したからだと主人は言った。

 そして主人は、その課長が社内で不倫関係になる軽率さを批判し、会社は仕事をする場所だと言い切った。

 主人は、不倫などと言う不届きな行為をする人間を馬鹿だと罵った。

 私は、不倫行為に一瞥を示す主人が、何となく頼もしく思えた。

 取りあえず、私は主人の昇格と昇給を歓迎し、久しぶりに主人とビールで乾杯した。

 そして私は、今後の主人の出張による二週間に一度の自由な日が来る事を、少なからず歓迎している自分がいる事を知った。

 しかし、明るく食事をする主人の顔を見て、自分も軽率な行動を律しなければと思った。

 私も、社長との甘い夢は捨て去らなければ、主人を裏切る事になると自覚した。

 私は、主人と娘のという貴重な家族を崩壊させてはいけないと思った。

 そして、そこには不倫に対して臆病な自分が居る事で、自分自身に安心感を持った。

 

 私は風呂に入った主人のスーツをハンガーに掛け、スーツのシワを叩いた。

 スーツのポケットに硬い物が入っているのに気づき、ポケットから取り出した。

 私は使い捨ての白いライターだと解り、リビングのテーブルの上にある小物入れに入れて置いた。

 主人は、風呂から上っていつものようにテレビを眺め、私と娘は交代で風呂に入った。

 私は、先にベッドに入った主人の後からベッドに入り、主人の胸元に頭を摺り寄せながら、甘い声で言った。

「ねえ・・・」

 主人は寝返りを打って背中を向け、眠そうな声で言った。

「今日は、疲れてるから」

 私は身体をすぐに離し、暗い天井を見ながら思った。

”また、振られちゃった”

 私は言いようの無い、悲しさと孤独感で寝付けなかった。

 私の目に訳の解らない涙が潤んでくるのが解った。


 翌日は四月一日のエイプリルフールだった。

 私の会社の創立記念日と言う事で、私の出勤は無かった。

 娘と主人を送り出し、家事を終えてから親友の由香利に電話をした。

 由香利も今日はコンビニのシフト外なので、休日なので午後から遊びに来ると言った。

 私は彼女に山中社長の事を、それとなく相談をしてみようと思った。

 しかし、不倫をしないという大前提に立っての相談だった。

 由香利は午後一時過ぎにケーキを持ってやってきた。

 私は紅茶を入れて、またもや主婦同士の井戸端会議が始まった。


 由香利は紅茶に砂糖を入れて言った。

「昨日はゴメンね。実家に行っていたから帰るの遅くなって」

 私はレモンを入れて、かき混ぜながら言った。

「一昨日も電話したのに電話の電源入ってなかったし、留守電にもならなかったやん」

 彼女は、少しだけ砂糖をかき回す手を止めて言った。

「あれ、そうなん?電池切れだったのかなあ。その日も実家に居たから」

 私は、笑って言った。

「二日も実家なんて、何かあったん?」

 彼女は笑いもせずに、つっけんどうに言った。

「まあ、色々あるしね」

 私は、悪い事でも聞いたような気がして話題を変えた。

「最近、不倫の彼氏は元気なん?」

 彼女は、一瞬ビクッとしたが、強張った微笑を私に返して言った。

「ん?まあ、最近逢ってないから、どうしてはるんやろね」

 私は他人事のように言う彼女に、社長との食事の事を切り出した。

 彼女は、その話を聴いた瞬間に目を輝かせて、私と社長の食事の時の会話や態度を根掘り葉掘り聞き出した。

 彼女は、口元に常に薄笑いを浮かべながら、私と社長の関係を発展さすようなアドバイスを送った。

 私は彼女が不倫をしていて、親友の堅物な私を同じ境遇に引き込もうとしているように感じた。

 彼女は、私と社長の関係を進展させるべく、可笑しいくらいに熱弁を奮い続けた。

 私は、彼女の異常な私への説得に似た不倫の勧めに、圧倒されて話を聞いていた。

 

 調子に乗って話す彼女は、彼女自身の不倫体験を話し始めた。

 今付き合っている不倫男性や、彼と情事に使っているファッションホテルの設備が云々と言う話まで熱心に話した。

 笑いながら聞く私に、彼女はいつも利用しているファッションホテルの名前を私に言って、設備や内装やサービスが素晴らしいとわざわざ教えてくれた。

 私は、彼女の熱心で不謹慎な話が可笑しくて、お腹を抱えて大笑いをしていた。


 午後五時頃、彼女は夕飯の買い物に行くと言って帰って行った。

 私は彼女の開けっ広げな性格を、女子高時代と変わってないと実感した。

 そして彼女が、不倫を私に熱心に勧める態度に何処か違和感を感じていた。

 私が不倫をしたからと言って、彼女の利益に成らないのにと私は思って微笑んだ。

 私はリビングのソファーに座って、暫く部屋の空間を見ていた。

 ふと目の先に止まった物に印刷してある英語のスペルと、言った頭の中で聞き覚えのある英語のスペルが、何となく重なるのを覚えた。

 私は一瞬、頭が真っ白になって混乱していた。

 「まさか・・・」

 私は声に出して呟き、さっき由香利の言った英語のスペルを、小物入れの中の白いライターに印刷されているスペルに重ね合わせた。


 主人のスーツのポケットに入っていた、白い使い捨てライターのスペルと、由香利が愛用しているお勧めファッションホテルのスペルが一致した。

 私は、ハッキリとした胸騒ぎを感じていたが、この偶然の一致をどのように結び付けて良いのかと惑っていた。

 そして、一つの疑問が浮かび上がってきた。

 由香利と私の主人が、不倫している事は有り得ないので、たまたま由香利が不倫で使うホテルと、主人が使ったかも知れないホテルが一緒だった可能性はある。

 私は、冷静に考えてみた。

 しかし、主人が浮気をしているという仮説には、無理があると心の中で思った。

 あんなに不倫を悪行だと言明した主人の顔が浮かんだ。

 確かに由香利は、そのホテルで不倫相手と情事を楽しんでいる事は間違いない事実だが、主人のポケットにあったライターは、何を意味するのだろうかと思った。

 主人が、そのホテルのライターを持っていた原因を突き止める必要があった。

 もしかしたら、会社の同僚のイタズラでポケットに入れられたかも知れないし、ライターが無くなって誰かから貰ったものかも知れないと考えた。

 一概に主人が、ホテルに誰かと行ったという憶測は成立しないと思った。

 私は、ゆっくりと確実に主人に対する不信感を、自分の手で解明しなければならないと思った。

 私は身体の震えが止まらないのを頭のどこかで気づきながら、リビングのソファーで主人のポケットから出てきた白いライターを見つめていた。

 白いライターは、嫌悪感だけを白く放って何も語りはしなかった。

 

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