今日の終わりに
まずい。
ルクスは馬車の御者台で油断なく両手にナイフを構えながら、周囲を警戒しそう思った。
ただの賊かと思っていたが、不用意に近づいて来るでなく、じっくりと間を詰めてくる。最初に牽制の意味で投擲したナイフも、どうやら防がれたらしい。
なかなかの錬度はありそうだ。
無論、冒険者を廃業してしばらく経つ身であるが、腐ってもA級の末席に身を置いていてた者として、切り合いにでもなれば私が勝つことは間違いないだろう。
だがしかし、自分以外の者を守りながら戦うということは、単独での戦いとは全く違う能力を必要とされる。まして、自分の力を頼りに、あるいは最悪の場合切り捨てることも厭わない存在としてのパートナーとしか組まない冒険者という生き方をしてきた彼女にとって、守るべきものを完全に守りきる戦いというのは得意ではない。いや、苦手と言っても過言ではない。それも、集団戦闘のやり方を知っているものが相手となれば、ご主人様に危険が迫る可能性は決して低くない。
ご主人様であるユハ様は、父様であった当主様の血をしっかりと継いでいると見えて、素質という意味では強くなれる。当主様がお隠れになってからは、それなりに稽古もつけてきた。おそらく並み一通りの相手であればそうそう遅れをとることはないだろう。しかし、実際に殺意を向ける相手との戦いは初陣のはずである。とてもいつも通りの力が出せるとは思えない。
焦り、としか形容できない感情が胸に煙を立て始めたとき、未だ安全であるはずの馬車内からありえない声が聞こえた。
「あぁ? ああ、そうだよ。おら、聞こえてんだろ、外の冒険者様よぉ。あんたのご主人様がこれ以上傷モノにされたくなけりゃこっちに降りてきな!!」
やられた。
とっさにそう思った。と、同時にこの手口には聞き覚えがあった。
曰く、多少裕福な町人か、駆け出しの冒険者しか使わないため比較的に警備の薄い乗り合い馬車専門の盗賊団。賊に似つかわしくない手順を踏み、利よりリスクを減らすことを重視する、異色の簒奪者。
その被害規模小ささと高い実力があまりに乖離しているため、討伐団も差し向けられず、誰もがため息とともに泣き寝入りをせざるを得ないという存在でありながら、実際に襲われた被害者からしてみれば決して無視しえないという厄介極まりない性質から、「蜂」の異名を取る賊集団に間違いないだろう。
ルクスは思案する。
もし、並みの程度の賊なら、幌越しであろうと人質を取られていようと、この距離からのルクスの投げナイフで狙いを過たず、確実に仕留めることができるだろう。
だがしかし、「蜂」の中で馬車に潜むのは、女王と呼ばれる「蜂」の中でも幹部級の実力を持った手練れである。「蜂」の異名はその女王を中心とする統制のとれた集団戦闘に対する畏怖からくる。それほどの実力者であれば、一撃で倒すのは困難であろうし、ご主人様に更なる危機が及ぶ可能性が高い。
ただ、もし噂に聞く通りの「蜂」ならおそらく命は助かる。ヤツらは無駄なことをしない。手持ちの装備や物品を全て奪った後は、ほぼ素寒貧でこの荒野に投げ出されるだけである。
幸いここからセーフハウスまでは、徒歩でも一両日中には辿りつけるだろう。
……やむを得ない、か。
精神を集中させ、万が一の事態を想定しながら、御者台と荷車をつなぐ渡し板に足をかけた瞬間、「なっ!!」というおそらくは女王の焦った声が聞こえた。その瞬間、ルクスは身の危険を顧みず幌内への突入を敢行した。
不思議な感覚だった。
自分で体を動かすことはできないものの、体の感じたことがフィルターを通してフィードバックされる感じ。人に取り憑くというのは、果たしてこんな感覚なのだろうかと俺は考えていた。
俺がこの世界に剣として転生して早二日、日本生まれの俺にとって、初めは物珍しかった景色も自ら動けなければなんということはない。幾分退屈し始めていた今朝、それは起こった。
いきなり目の前に高速で突き出される掌。
――おわっ、なんだいきなりっ。
つい、反射的に手を伸ばそうとして、今の俺に手が無かった事に気が付く。そして、手が無いはずなのに、俺はその手をしっかり握り返す感触を覚えていた。
それからの俺の環境は瞬く間に変わった。
いきなり光って場所を移動したと思ったら、馬車に乗り込んで街の外へ、かと思えば目の前には血の滴る短剣が突き付けられている。これを激動と言わずになんとしよう。
……ひょっとして、これって俺のせいなのだろか?
かなり自意識過剰なきらいもあるが、そう考えると俺が今取り憑いてる? この女の子がちょっとかわいそうな気がしてくる。どういう人生背景があるのか知らないが、いきなりこんな鉄火場に巻き込まれるのが普通とは、現代感覚を持つ俺には信じられない。それに、こういう異世界転生モノでは殺人現場が探偵に引き寄せられるように、困難が転生者に引き寄せられるものかもしれない。
まぁ、とはいえ俺には何にもできない。一応転生条件的には最強の存在、(剣だったわけだが)であるが、いかなる理由か今の俺はこの娘の感覚を共有するだけの存在になってしまっている。そして何故か感覚の中でも痛みは感じない。そのため、今のこの危機も映像として見ているみたいで現実感はなく、こんな余裕を感じていられるのである。
それにしても、前世にいた時には短剣を殺意を持って眼前に突き付けられるなんて経験は無かった。これは確かにど迫力だ。体が硬直して動かなくなってしまうという気持ちもよくわかる。そうして、少し距離をおいたところから事態を静観していると、どうやら、ユハと名乗った宿主が気を失ったらしい。
――途端、感覚が急激に鋭敏になった。
視覚以外はどこか薄ぼんやりしていた五感が種々の情報を拾い、風の気配、血の匂い、鼓動の音、そしてカラカラに乾いた口内の様子を脳に伝えてくる。
そしてその情報量に思わず体に力をいれた瞬間、びくりという体のわななきを感じた。
……これは、動かせる、のか?
ゆっくりと、右手に力を込める。もちろん、後ろから羽交い絞めにされているし、顔のすぐ横には短剣があるというこの状況で派手な動きはできない。
ただ、手を握りしめ、開くという単純な動作。しかし、自分の意志でそれができたという純粋な喜びに、知らず頬が緩む。
……おおぉ、すげぇ、この体の持ち主の意識がない時なら動かせんのか。これは俺にとって嬉しい発見。
そのまま左手の動きを試そうとすると――「なっ!!」という焦った女の声。軽く引かれた後、躊躇わず首筋に振り落とされる短剣――まずい、手じゃ間に合わない。使える場所は――とっさに膝の力を抜き目線を下げる。――せまる刃から目を離さずに、それが横向きであった事に感謝しつつ口を開け――貫通する前に思いきりそれを噛み締めた。
――ガキン!!
とても歯と金属がぶつかったとは思えない音が口蓋に響く。
口での真剣白刃取り。
本当に止められるなんて思って無かった。そんなのは正気じゃない。普通の人間がそんなことをすれば歯が砕け、少しの抵抗の後、喉を刃が貫通するだけだろう。
しかし、現実はそんな空想よりもはるかに驚きに満ちている。
何故なら間違いなく必殺を期した短剣の刺突は、歯によって阻まれるのみならず、そのままその刃を噛み砕かれたからだ。
「ちっ!! ふざけやがって、こっちが本命かよ!!」
後ろの女は、そう言うや否や拘束を解き、信じられないような速度で馬車の中から外に飛び退った。
間を置かず、御者台の方から追撃する投げナイフ――確かルクスと言われていた女の人が投げたものだ――
「くっそ!! やってらんねぇ!!」
そういって驚くべき速度で連続でバク転を繰り返し、迫る投げナイフを回避しながら、馬車から距離を空ける短剣の女。
「去れば見逃してやる。失せろ」
ルクスさんのその言葉に対する返事は無く、すでに女は砂煙の中に消えていた。
……ふう、九死に一生、か。
――安心すると同時に感覚が遠のく。
宿主が起きたのか。まぁいい、ひどい疲れだ。そうしてまるで彼女と入れ替わるように俺は意識を手放した。
追撃がないことを知りながら、女は先ほどの馬車から距離を離すことをやめられなかった。
さっきの貴族の女。思い出すたびに総身に震えが走る。
途方もない存在規模の塊。そうとしか形容できない揺らぎを感じた。
反射で振り抜いた短剣も、噛み砕くなんてふざけた方法で防がれた。間違っても普通の人間ではない。あんな迫 力は世界を気ままに回遊する神々レベルでしか感じ得ないものだ。
――蜂王に伝えなければ。
彼女は巣に急ぐ。アレは王の探し求めていた存在に違いない。疲れで足の動きが不確かになることにも厭わず、彼女は走り続けた。
「うっ……あっ。ルクス、ごめんね。迷惑かけちゃったみたい」
「いえ、ご主人様。問題はありません。それよりお体は大丈夫ですか?」
「左の太ももを刺された、かな」
「手当を。見せてください」
荷車の左の壁にもたれ掛るユハの左ももに手を当て、被害状況を確認したルクスは顔には出さなかったが、大きく驚いていた。
傷が、無かったのだ。しかし、ローブの当該位置は裂け、やや乾き始めた血のこびり付きを見れば、刺されていたのは間違いない。
……治癒されている。それも治療魔法を使わずに、自然治癒で。
「……どう、ルクス? ひどい?」
「問題ありませんご主人様。少しお休みください。次に起きた時には、セーフティハウスにお連れしています」
「そう……、あとは頼むねルクス。」
「はい。お任せくださいご主人様」
ユハが意識を手放すのを見届けてから、ルクスはそっとため息をつく。
……王剣の力、か。
短剣を噛み砕いた時のご主人様の体には、明らかにユハ以外の意識があった。
膨大な魔力と気力、そして渦を巻くような生命力。名状しがたき威圧感を放っていたアレは今完全に影を潜めている。
しかしながら、慣れ親しんだ筈のユハの顔をした何者かの、あのときのおぞましい薄笑いは、ルクスの脳裏に鮮明に焼き付いて離れない。
まぶたを閉じる前に見たご主人様の目。深いとび色だったはずの瞳の片方が、漆黒に変わっていたこともルクスを不安にさせる。
……王剣とはいったいなんなのだろう。
ともすれば、思考の海に埋没しそうな意識を無理矢理に切り替えて、ルクスは立ち上がり、御者も含めた他の乗客に精一杯の笑顔を振りまき、そして
「申し訳ありませんが皆々様、我が主が急病でして、この馬車を頂きたく存じます。つきましては、皆様こちらでお降りいただけませんか?」
と言い放った。
御者は後に語る。
「あの時は生きた心地がしなかったね。え? 盗賊がそんなに恐ろしかったのかって? ははっ、それもあるけどあのメイドさんの笑顔が、ね。こう有無を言わせぬ感じっていうかさ。初めて女って怖いなって思わされたんだもんなぁ。
あぁ、でもね、全員損はしなかったよ。なんていったってあのメイドさん、俺たち一人ひとりに、迷惑料だってあの馬車が5台は買えそうなくらいの宝石や武具類をくれたからね。降ってわいた一財産にむしろ喜んだくらいさ。失礼ながら、ラサネン家なんて聞いたことがなかったけど貴族様ってのはやっぱり、とんでもない金持ちなんだねぇ」