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第11話 水から守る約束

 洪水からひと月あまり。


 村の空気は、少しずつ落ち着きを取り戻していた。


 だが、問題が片づいたわけではない。


 むしろ、レオンには以前よりはっきり見えるようになっていた。


 水門を閉めれば、川から水が逆流するのは防げる。


 しかし、雨が降れば村の中には水が溜まる。


 低い土地を水の逃げ場にすれば、その土地を使っている誰かが困る。


 そして、川の水位が下がるまで待ってから水を流すなら、その間に水をどうしておくかを考えなければならない。


「……面倒だな」


 レオンが呟くと、隣にいた父グスタフが笑った。


「今さら気づいたのか?」


「前から気づいてたよ」


「三歳のころから?」


「……それは覚えてない」


 実際には、覚えている。


 前世で五十年生きた高瀬恒一としての記憶も、今のレオンとしての記憶も。


 ただ、それを父に話すわけにはいかない。


 だから、いつものように誤魔化す。


「夢で見たんだ」


「また夢か」


 グスタフは呆れたように笑った。


 だが、その笑顔にはもう慣れがあった。


「夢を見るだけなら、私にもできるぞ」


「父上の夢は役に立たなそう」


「失礼な息子だな」


 二人で笑う。


 その日の午後。


 レオンは、隣村の代表たちと向き合っていた。


 議題は、先日の洪水で水が溜まった低地だった。


「この土地を、洪水のときだけ水の逃げ場にする」


 グスタフが説明する。


 隣村の男が腕を組んだ。


「だが、そこは我々の村の土地だ」


「分かっている」


「普段は畑として使っている。水を溜めるとなれば、作物が駄目になる」


「それも分かっている」


 そこでレオンが口を挟んだ。


「だから、毎回勝手に水を入れるのではなく、条件を決めたい」


「条件?」


「川がこの高さまで上がったら、水門を閉める。そのとき村の水が一定の高さまで溜まったら、低地へ水を逃がす」


「そして畑が水浸しになる、と?」


「そうなる」


 レオンは正直に答えた。


 隣村の男は眉をひそめた。


「それでは、我々だけが損をするではないか」


「だから、村同士で決める」


 レオンは粗末な地図を広げた。


「この土地に水を受けてもらえば、こちらの村の家や畑を守れる。でも、隣村の畑が被害を受ける。それなら、その被害をこちらの村も負担する」


「負担?」


「壊れた畦の修理とか、種や作物の補償とか」


 グスタフが続ける。


「金だけとは限らない。人手を出すこともできる」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて、隣村の老人が口を開いた。


「昔はな……」


 全員が老人を見る。


「川が増水すると、あの低地へ水を入れていた」


 レオンが顔を上げた。


「やっぱり」


「ただし、誰か一人が勝手に決めたわけじゃない。村の者が集まって、川の様子を見て決めていた」


「いつからやらなくなったんです?」


「水門が壊れてからだ」


 老人は少し寂しそうに言った。


「水を動かす仕組みがなくなって、いつの間にか忘れられた」


 レオンは地図を見つめた。


 昔の人たちは、もっと単純な道具しか持っていなかった。


 それでも、水と土地の関係を知っていた。


 問題は、知識そのものではない。


 それを受け継ぐ仕組みがなくなっていたことだ。


「……なら、もう一度作ればいい」


「何を?」


「仕組みを」


 その言葉に、グスタフが微笑んだ。


「そういうことか」


 話し合いは夕方まで続いた。


 最終的に決まったのは、まだ小さな取り決めだった。


 川の水位が一定以上になったときは、両村に知らせる。


 水門を閉める判断は、両村の代表が相談して行う。


 低地を洪水時の水の受け皿として使う場合は、事前に合意する。


 そして、被害が出た場合は、土地を提供した側だけに負担を押しつけない。


 紙に書かれたのは、それだけだった。


 だが、レオンには大きな一歩に思えた。


「約束、ですね」


 グスタフが頷く。


「そうだな」


 その頃。


 村の外れでは、エドガルとリュートが何やら木材を並べていた。


「……これ、本当に動くの?」


 レオンが尋ねる。


「動く予定じゃ」


「予定?」


「魔道具というのは、作ってみるまで分からんことも多い」


 エドガルは悪びれもせず答えた。


 目の前にあるのは、大きな木製の水車だった。


 ただし、普通の水車とは少し違う。


 軸の部分に小さな魔石が取り付けられている。


 リュートがその魔石に手をかざした。


「回転を少しだけ助けます」


 水車が、ぎこり、と動いた。


「おお」


 レオンの目が輝く。


 水車の回転が、木製の軸を通して小さな汲み上げ機へ伝わる。


 低い場所に溜まった水が、少しずつ上へ運ばれていく。


 だが――。


 ぽたり。


 ぽたり。


 水は上がったものの、流量は思ったほど多くない。


「……少ない」


「当然じゃ」


 エドガルが杖を肩に担ぐ。


「魔法で水そのものを大量に持ち上げるなら、相当な力が必要になる」


「だから、水車を使う」


「そうじゃ。そして人や家畜の力も使う」


 レオンは頷いた。


「魔道具は、その手助けだけ」


「その通り」


 エドガルは笑った。


「魔法でできることと、魔法でやるべきことは違う」


 レオンは水車を見つめた。


 これは村全体の水を一気に動かすような道具ではない。


 それでも、役に立つ。


 大きな水は水路と水門で動かす。


 小さな水は水車や汲み上げ機で動かす。


 そして、どう動かすかは人間が決める。


 レオンは、少し前まで「水をどう逃がすか」ばかり考えていた。


 今は違う。


 水を受け止める土地。


 水を流す水路。


 水門。


 そして、それを使う人々。


「……全部つながってるんだ」


 思わず声が漏れた。


「何がだ?」


 グスタフが聞く。


「水と、人」


 レオンは答えた。


「水を動かす道具だけあっても駄目なんだ。どこへ動かすのか、いつ動かすのか、誰が使うのか……それを決めないと」


 グスタフはしばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと頷いた。


「ならば、約束を残そう」


「約束を?」


「今日決めたことを、次の世代にも伝えられるようにする」


 レオンは頷いた。


 水は、村の境を知らない。


 だからこそ、人間の側が境を越えて話し合わなければならない。


 水から人を守るために。


 土地を守るために。


 そして、誰か一人に犠牲を押しつけないために。


 レオンは、簡素な取り決めが書かれた紙を見つめた。


 まだ小さな約束だった。


 けれど――。


 きっと、こういう小さな約束が積み重なっていく。


 水と共に生きるための、新しい仕組みになっていくのだ。


 そして水車は、その横で小さく回り続けていた。

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