【書籍化進行中】白い結婚で捨てられた私は、愛する騎士を戦場へ送りました
「ルーク団長。生きて、帰ってきてください」
領主の命令に、私自身の願いを隠すことは、もうしなかった。
白い結婚で捨てられた私が、今度は自分の手で愛する人を戦場へ送る。
だからこそ今度は、帰る道を失わせない。
*
報せは、北の砦から早馬で届いた。
「魔境から下りてくる魔物が、例年の三倍を超えています」
領主代行の執務室で、私は泥に汚れた書状を開いた。
冬を前に獲物を失った魔物が、人里へ下りてくること自体は珍しくない。黒い森との境に北の砦が築かれているのも、そのためだ。
けれど、今年はまだ秋だった。
守備隊は三日間、満足に交代することもできず、外壁を守り続けている。負傷者が増え、食料と薬も尽きかけていた。
「ルーク団長と、辺境騎士団の主力を。これ以上は持ちません」
使者が床へ膝をついた。
室内が静まり返る。
王家から領主代行を命じられて、まだひと月も経っていない。
それでも、この場で決断を下せる者は私しかいなかった。
ルーク様が一歩、前へ出た。
「領主代行として、ご命令を」
そこに、私を慰める響きはなかった。
代わりに決めようとする甘さもない。
一人の騎士団長として、領主の言葉を待っている。
行かないでほしい。
けれど、北の砦には援軍を待つ兵たちがいる。
私は顔を上げた。
「ルーク団長。辺境騎士団の主力を率いて、北の砦へ向かってください。出立は明朝、夜明け前に」
「拝命しました」
ルーク様が膝をついた。
命令は、それで終わった。
*
夜明けまでに、できる限りの準備をした。
出陣する騎士は夜警から外し、夫婦寝室を改めた仮眠室と、北翼の寝台へ入れた。
眠れなくても横になること。
温かいものを食べること。
武具の整備は、残る者が引き受けること。
廊下で眠るしかなかった頃とは違う。この領地には今、兵を休ませる場所があった。
救護院では、薬と包帯が荷箱へ詰められていく。
傷の処置に慣れた者を北翼へ集め、経験の浅い者には、湯を沸かすこと、寝具を替えること、負傷者を運ぶことを任せた。
ニナは薬瓶と包帯の数を確かめ、二つの荷箱へ行き先を書き込んでいた。
「北の砦へ送る分はこちらです。北翼には、帰還した負傷者を受け入れられるよう、同じ量を残してあります」
「足りますか」
「今ある分では三日ほどです。町の薬師から薬を、織物商からは包帯に使える布を集めます」
答えながらも、ニナの手は止まらない。
流民としてこの土地へ来た彼女は、今では救護院を支える一人だった。
「休める時には、あなたも休んでください」
「分かっています。迎える側が倒れたら、帰還した方々を受け入れられませんから」
*
ギルバートは、北三村の住民と家畜を帳面へ書き出し、避難に使う荷車を割り振っていた。
街道沿いの中継所には、食料、替え馬、薪、乾いた毛布を置く。
北へ向かう荷車には物資を載せ、戻る荷車には負傷者を乗せる。
「子供と高齢者から、今夜のうちに町へ移します。村を空けるには三日ほど必要です」
「今夜から始めてください」
「砦が持ちこたえれば、避難は無駄になるかもしれません」
「無駄で済むなら、それが一番です」
ギルバートは深くうなずいた。
「承知いたしました」
*
別の地図では、ルーク様が砦から南へ続く街道を指していた。
両側を急な斜面に挟まれ、道幅が狭くなる場所だ。
「砦を保てなくなった場合は、この狭道まで退きます。ここなら、少ない兵でも群れを受け止められる」
「退く条件を、先に決めてください」
私が告げると、ギルバートの筆が止まった。
「出陣の前から、退却をお考えになるのですか」
「砦からの連絡が途絶えた後では、命令が届きません」
ルーク様が地図へ指を置く。
「補給できる食料が三日分以下になる。中継所を二つ失う。外壁が破られ、砦の中で負傷者を守れなくなる。そのどれか一つを満たせば、俺の判断で退きます」
ギルバートは、狭道から屋敷までの距離を指でたどった。
「大勢が一度に戻れば、南の中継所だけでは受け入れきれません」
「街道沿いにも、食料と毛布を用意してください」
「かしこまりました」
帰還する者を迎える準備が始まった。
*
夜明け前。
騎士たちは温かい粥を食べ、乾いた手袋をはめ、整備された武具を受け取っていく。
門の前で、ルーク様は馬の手綱を握っていた。
領主として伝えるべきことは、すでに伝えてある。
それでも私は、彼のそばへ歩み寄った。
「ルーク団長。生きて、帰ってきてください」
ルーク様が、わずかに目を見開いた。
私は視線を逸らさなかった。
「領主代行としてではありません。私の願いです」
「分かりました」
手袋に包まれた指が、私の手へ触れた。
「戻ったら、最初にあなたへ会いに来ます」
「待っています」
「必ず、あなたのところへ戻ります」
角笛が鳴った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
騎士たちが北へ向かう。
私は、最後の旗が見えなくなるまで門の前に立っていた。
*
王家の軍務監ヴェルナーが到着したのは、翌日の昼だった。
辺境の指揮系統を立て直すため、以前から南の駐屯地に派遣されていたという。北の砦から急報が届き、馬を替えながら駆けつけたのだ。
長く北方防衛に携わってきた軍人だった。
ヴェルナーは中継所と北翼を確認した後、退却条件を記した書面を手に取った。
「砦へ着く前から、退却条件を定めたのですか」
「はい」
ヴェルナーは、地図上の北の砦を指した。
「ここが落ちれば、魔物は三つの村を抜け、そのまま南の街道へ流れ込みます」
「三村では、すでに避難を始めています」
ギルバートが帳面を開いた。
「明日までには、住民全員を町へ移せる見込みです」
「人だけ移せば済む話ではありません」
ヴェルナーの指が、砦の南に並ぶ村をなぞった。
「家も畑も家畜も、領民の暮らしです。砦を失えば、それを守れない」
「分かっています」
「ならば、残る兵も砦へ送るべきです」
「補給が続く間は、守らせます」
「途絶えた後も、砦を持たせるのが軍の役目です」
「食料も薬も届かない場所へ、さらに兵を送るのですか」
「砦を失えば、その後ろにいる領民が危険にさらされる」
「守備兵まで失えば、その領民を守る者がいなくなります」
ヴェルナーは地図から手を離さなかった。
「領主代行殿は、砦より兵を選ぶのですね」
「砦ではなく、領民と守備兵を選びます」
「その結果、村が焼かれても?」
すぐには答えられなかった。
避難できても、暮らしまで運び出せるわけではない。
それでも私は、帳面に並ぶ住民の数へ目を落とした。
「生きている人がいなければ、村を建て直すこともできません」
「退却条件の撤回を求めます」
「撤回しません」
短い沈黙が落ちた。
やがてヴェルナーは、退却条件の書面を手に取った。
「では私は、砦を持たせるために、できる限りの増援と補給を手配します」
「お願いします」
「条件に達した時は」
「私が退却を命じます」
ヴェルナーは書面を折り、軍服の内側へ収めた。
「砦を失った責任まで負う覚悟がおありなら」
「あります」
今度は、間を置かずに答えた。
*
最初の負傷者が北翼へ運び込まれたのは、騎士団が出陣して三日目の夕方だった。
荷馬車から下ろされた兵の外套には、黒い毛と、まだ乾ききらない血がこびりついていた。
救護員が外套を脱がせようとした時、湯を運んできたニナが足を止めた。
「待ってください」
ニナは、外套に残った黒い毛へ顔を近づけた。
「この臭いを覚えています」
「この魔物を知っているのですか」
「流民として移動していた頃、同じ群れに追われました」
ニナの顔から血の気が引いた。
「あの時、火を焚いても魔物は止まりませんでした。けれど、年長の方々が、葉の裏が白い草を濡らして火へ入れたんです」
「その煙で、どうなったのですか」
「煙に入った魔物は、目を開けていられなくなりました。臭いも追えなくなり、前の個体が止まると、後ろから来た個体がぶつかりました」
話を聞いていたギルバートが、目を細めた。
「白裏草でしょう。昔の猟師が、獣除けに使ったと聞いております」
「おそらく、それです」
「すぐに集めましょう」
私が言うと、ニナが首を横へ振った。
「よく似た草があります。間違えて燃やせば、人にも毒です」
「では、集めた草の選別をお願いします」
「任せてください」
*
集められた草の中から、ニナは白裏草だけを取り分けた。
「こちらは違います。葉を揉むと甘い臭いがします」
白裏草と藁を水へ浸し、屋敷から離れた空き地で燻した。
白い煙は高く昇らず、地面を這うように広がった。
煙を扱う者には濡れた布で口と鼻を覆わせ、馬は風上へ移した。
ヴェルナーは、その日のうちに斥候へ白裏草を持たせた。
砦から離れた場所にいた小さな群れで、反応を確かめるためだった。
翌朝、斥候が戻った。
「煙に入ると、魔物は進む向きを見失いました。ただし、煙が薄くなれば、すぐに動き始めます」
ヴェルナーが地図を広げた。
「南の狭道で使えば、群れの進行を妨げられる」
彼の指が、狭道の両側をなぞる。
「煙を避けて左右へ流れたところを、弓兵と罠で迎え撃ちます」
「煙は風に左右されます」
ニナが地図をのぞき込んだ。
「火床を移しながら、濡らした草と藁を足し続ける必要があります」
「その指揮を頼めますか」
ヴェルナーが尋ねた。
「そのつもりでお話ししました」
*
砦は持ちこたえていた。
ルーク様は守備兵を二組に分け、一組が壁を守る間、もう一組を眠らせた。
食料と薪は毎日北へ運び、戻る荷車には負傷者を乗せる。
北翼へ着いた者から傷を洗い、温かいものを食べさせ、寝台へ寝かせた。
ニナは北翼の入口で、救護員とともに負傷者を振り分けていた。
「歩ける方は右の部屋へ。傷口を押さえられない方は、そのまま奥へ運んでください」
声を荒らげなくても、周囲は迷わず動いた。
五日目。
砦から届いた軍務報告の最後に、短い一文が添えられていた。
――街道の灯が、砦からも見えています。
私は、その一行を指でなぞった。
ルーク様も、帰る道を見ている。
七日目。
北の見張り塔が崩れ、守備兵二人が亡くなった。
二つの名だけが、帰還欄を空白のまま残した。
八日目。
砦に最も近い中継所から、長雨で街道の斜面が崩れ始めたと報せが届いた。
荷馬車が一台横転し、馬を二頭失った。道幅も狭まり、これまでと同じ量の物資は運べない。
ヴェルナーが地図を机へ広げる。
「王国軍の増援まで、あと五日です」
彼は、砦へ続く街道を指した。
「町に残した騎士の半数を送り、路肩の補強と物資の運搬に当たらせます」
「半数を送れば、避難する村人と南の防衛線を守る者が足りません」
「砦が落ちなければ、南の防衛線は必要ありません」
「落ちた場合はどうなりますか」
「戦で、全ての場合に備えることはできない」
「明日の報せまで待ちます」
ヴェルナーの眉が動いた。
「待っている間にも、砦は削られます」
「現場の状況を聞かずに、残る兵を動かすことはできません」
「承知しました」
*
翌朝、書状ではなく、負傷した伝令が戻った。
左肩を布で固く縛り、馬から降りると同時に膝をつく。
「街道の北端が崩れました。道の半分が谷へ落ちています。荷馬車は、もう通れません」
「砦の食料は」
ヴェルナーが尋ねる。
「三日分です」
退却条件に達していた。
伝令が、ルーク様からの書状を差し出した。
外壁はまだ立っている。
しかし昨夜の攻撃で、北角を守っていた三人が亡くなった。
命令があれば、砦を守る。
退くなら、今夜が最後の機会になる。
私の決断を待つ。
「奥様」
ギルバートが帳面を閉じた。
「北三村の住民は、全員南へ移りました。家畜と穀物は七割ほど運び出しています」
「残りは」
「今からでは、間に合いません」
私はルーク様からの書状を机へ置いた。
「退却命令を出します」
ヴェルナーが地図から顔を上げる。
「私は、残る騎士を道の補修と荷運びへ出し、砦を持たせるべきだと考えます」
「意見は承知しています。それでも、退却させます」
短い沈黙の後、ヴェルナーが地図上の狭道を指した。
「ならば、退却路の確保と第二防衛線の指揮は、私が引き受けます」
「よろしいのですか」
「砦を守るよう進言したのは私です」
ヴェルナーは視線を逸らさなかった。
「どちらを選んでも、軍務の責任は私にもあります」
「お願いいたします」
私はギルバートへ向き直った。
「中継所に残る食料と薬を、第二防衛線へ移してください。北三村に取り残された者がいないか、もう一度確認を」
「承知いたしました」
ルーク様への命令書を引き寄せる。
「負傷者から先に砦を出してください。歩ける者が護衛し、守備兵を続かせる。ルーク団長は後衛へ」
私は署名し、領主代行の印を押した。
「今夜中に、全員を南へ」
*
私は、南の狭道に設けた第二防衛線へ向かった。
「奥様が前へ出られなくても、ヴェルナー殿が指揮できます」
ギルバートは反対した。
「退却を決めたのは私です。門を閉じる判断を、他人に預けたくありません」
「万一があれば、領地は再び主を失います」
「それでも、ここにいます」
ギルバートは長く息を吐いた。
「では、私も参ります。帰還者の名簿は、私が持ちましょう」
*
ニナは、木柵の内側に設けた火床と救護所を行き来していた。
村人が集めた草を選別し、濡れた藁と一緒に袋へ詰めていく。
「風が変わったら、煙を焚く場所も変えます」
ニナが作業員たちへ説明する。
「煙の中へ入る方は、必ず濡らした布で口元を覆ってください。馬は風上へ移します」
日が沈みかけた頃、北の空が赤く染まった。
砦が落ちたのだ。
ほどなく、街道の先に松明が見えた。
「帰還隊です!」
木柵の門が開かれる。
最初に入ってきたのは、負傷者を載せた荷車だった。
続いて、歩けない仲間へ肩を貸す兵たち。
ギルバートが、一人ずつ名簿へ印をつけていく。
「第一隊、確認しました」
次の一団が門を越えた。
「第二隊。負傷者二名は、先の荷車に乗っています」
空が暗くなる。
帰還者の列が途切れた。
遠くから、地面を震わせる音が近づいてくる。
魔物の群れだった。
「後衛は」
私が尋ねると、ギルバートが名簿を確かめた。
「十五名、まだ戻っておりません。ルーク団長も、その中です」
ヴェルナーが、柵の上から街道を見据える。
「群れの先頭が、間もなく狭道へ入ります」
木柵の内側には、負傷兵と避難民がいる。
「門を閉じる準備を」
ヴェルナーが兵へ命じた。
「まだです」
「後衛を待てば、魔物まで門へ到達します」
「街道を見てください」
暗闇の向こうで、小さな光が揺れていた。
一つ。
二つ。
その後ろに、騎士団の旗が見える。
「後衛です」
ギルバートの声が震えた。
十五人の背後を、黒い群れが埋めている。
「白裏草へ火を」
ヴェルナーが命じた。
濡れた草と藁から、白い煙が地面を這うように広がった。
煙に入った魔物が、進む向きを見失う。
先頭が止まり、後ろから来た個体がぶつかって、群れが左右へ乱れた。
けれど、風向きが変わった。
煙が持ち上がり、道の中央が開いていく。
「火床を二つ、門側へ移してください」
ニナが作業員へ指示を飛ばした。
「草だけでは駄目です。藁ごと水へ浸して、煙を低く保ってください」
作業員たちが濡れた袋を運び、門の左右に設けた火床へ押し込む。
濃い煙が、再び道へ広がった。
「群れが斜面側へ動いています」
ニナの声を受け、ヴェルナーが剣を抜いた。
「弓兵は左右へ! 罠の前まで引きつけろ!」
後衛も門へ近づいていた。
「残り九名」
ギルバートが告げる。
負傷者を抱えた兵たちが、門を越えた。
「残り三名」
二人の兵が、倒れ込むように木柵の内側へ入った。
最後尾に、ルーク様がいた。
肩の鎧が裂け、片腕をかばっている。
その背後で、一頭の魔物が煙を突き抜けた。
「これ以上は待てません」
ヴェルナーの声が飛ぶ。
ルーク様が顔を上げた。
目が合った。
彼は最後の力で走った。
門の内側から伸びた腕が、ルーク様の身体を引き入れる。
「後衛、全員門内です!」
「閉門!」
門扉が閉じ、太い閂が落とされる。
直後、魔物の巨体が門へ激突した。
板が撓み、閂が軋む。
「槍列、前へ!」
ヴェルナーが命じた。
門の隙間から突き出された黒い爪へ、騎士たちの槍が一斉に突き込まれる。
魔物が身を引いた。
低く流れた白裏草の煙が、その顔を包む。
進む向きを失った魔物が、斜面側へよろめいた。
「今です!」
ヴェルナーの合図で矢が放たれた。
魔物は斜面の罠へ落ちた。
門の向こうで、爪が木を引っかく音が遠ざかっていった。
*
ルーク様は、門の内側で片膝をついていた。
肩から流れた血が、鎧を濡らしている。
「ルーク様」
私は駆け寄った。
ルーク様が顔を上げる。
苦しそうに息をしながら、それでも私を見て、かすかに笑った。
「約束を、守りました」
その一言で、胸の奥に張りつめていたものが切れた。
「……遅いです」
「申し訳ありません」
「本当に、遅いです」
声が崩れた。
泣かないつもりだった。
領民の前でも、騎士たちの前でも、領主代行として立っているつもりだった。
けれど、ルーク様の姿を前にしたら、もう無理だった。
私は、その手を握った。
「お帰りなさい」
ルーク様の指が、私の手を握り返す。
「ただいま」
たった二言で、彼が生きて戻ったことが、ようやく本当になった。
ルーク様の身体が傾く。
私は、その腕を支えた。
「救護所へ運んでください」
救護員が駆け寄ってくる。
ルーク様の手を離そうとすると、指先に力が入った。
「行かないでください」
「行きません。そばにいます」
*
第二防衛線は、三日三晩持ちこたえた。
白裏草の煙が魔物の進行を妨げ、群れの足並みを乱す。
煙を避けて斜面側へ流れた魔物を、ヴェルナーが配置した弓兵と罠が迎え撃った。
一組が戦う間、別の組は食べ、眠る。
負傷者は救護所へ下げ、代わりの兵を前へ出した。
ニナは風向きを見ながら火床を移し、ギルバートは食料と薬を運ばせ続けた。
夜ごと門は軋み、壊れた柵は、そのたびに騎士と避難民の手で補われた。
四日目の夜明け。
南の街道に、王国軍の旗が現れた。
退却によって主力を残し、第二防衛線を守り抜いたからこそ、増援は到着したその日から反撃へ移ることができた。
ルーク様とヴェルナーは北三村へ入り込んだ魔物を押し戻し、街道沿いの中継所を一つずつ奪い返した。
二日後には、北の砦を望む丘まで進んだ。
砦を正面から攻めれば、犠牲が増える。
ヴェルナーが南門の前で魔物を引きつけ、その間にルーク様が少数の騎士を率いて、崩れた北角から砦へ入った。
さらに三日後。
内側から南門が開かれた。
王国軍と辺境騎士団が砦へ入り、日が沈む前に、北の塔へ旗を戻した。
主力を残したから、増援とともに反撃できた。
退いたからこそ、砦を取り戻すことができた。
*
砦を奪還した後、ヴェルナーが、帰還した騎士たちの前で口を開いた。
「私なら、あの時、門を閉じていました」
彼は、後衛として戻った十五人へ目を向けた。
「閉じていれば、この者たちは戻らなかったでしょう」
続いて、第二防衛線の門と、その前に残る火床を見る。
「退却し、後衛を待つ。それだけなら、無謀な賭けです。ですが、領主代行殿は、退路と第二防衛線を先に整えていた。だから門を開けて待つことができた」
「それを守り切ったのは、あなたと騎士たちです」
私が言うと、ヴェルナーは首を横へ振った。
「私は、あなたが整えた第二防衛線で指揮を執りました。退却を選び、最後の後衛まで門を開けておくと決めたのは、領主代行殿です」
ヴェルナーは深く頭を下げた。
「砦を守るべきだという私の進言と、退却を選んだ領主代行殿の判断。その両方を、王都へ報告します」
「お願いします」
ヴェルナーは続いて、ニナへ軍人として一礼した。
「白裏草の使い方を教えてくださったことにも、感謝します」
「私が考えたものではありません」
ニナが答える。
「以前、一緒に旅をしていた方々から教わりました」
「では、その方々が伝えた知恵を、あなたがここへ届けた」
この土地へ逃れてきた人々は、守られるだけの存在ではなかった。
生き延びる中で受け継いだ知恵が、今度はこの土地を守った。
*
王家から正式な沙汰が届いたのは、一月後だった。
沙汰には、これまで私が行ってきたことが、一つずつ記されていた。
救護院の運営。
北翼の再開。
街道と物流の立て直し。
流民の受け入れ。
そして、北方防衛における指揮と判断。
今回の戦だけで認められたのではない。
これまで積み上げてきたもの全てが、一つの答えになったのだ。
王家は私へ辺境伯位と、この土地の正式な統治権を授けた。
領主代行ではない。
この日から、私がこの辺境の領主となる。
叙任状を読み終えた後、私は帰還者の名簿を開いた。
出陣した騎士。
砦の守備兵。
補給路を守った者。
戻った名前には、ギルバートが一つずつ印をつけていた。
帰還欄が空白のまま残された名は、五つ。
見張り塔で亡くなった二人。
外壁の北角を守った三人。
私は、その名を一人ずつ声に出して読んだ。
全員を帰すことはできなかった。
だから、数だけにはしない。
残された家族への補償と、北三村の再建を、最初の領主命令として署名した。
「就任の祝宴は、本当になさらないのですか」
ギルバートが尋ねる。
「村の家が建ち、畑へ種をまけるようになるまでは」
「領民は、新しい領主を祝いたがるでしょう」
「その時は、村の再建を祝う宴にしてください」
ギルバートは深く頭を下げた。
「かしこまりました。辺境伯閣下」
初めて呼ばれた肩書きは、思っていたより重かった。
*
その夜、私は、夫婦寝室だった仮眠室にいた。
出陣を控えた騎士が眠り、帰還した騎士が傷を休めた部屋。
今夜、寝台は空いている。
戦を終えた者たちは、それぞれの帰りを待つ人のもとへ戻っていた。
扉が開いた。
ルーク様が入ってくる。
傷はまだ塞がりきっていない。
けれど鎧ではなく、清潔な上着を身につけていた。
「お身体は、もうよろしいのですか」
「長く立っていなければ」
「でしたら、座ってください」
「その前に、伝えたいことがあります」
ルーク様は、私の前まで歩いてきた。
「以前、俺の隣を、あなたの場所に決めてほしいと言いました」
「覚えています」
「あなたは、心から承知したと言ってくれた」
「はい」
「その先を、願ってもよいでしょうか」
ルーク様が膝をつく。
騎士が領主へ従うための膝ではなかった。
「ノエル」
「はい」
「俺を、あなたの夫にしてください」
白い結婚を命じられた時、私に選ぶ権利はなかった。
妻という名だけを与えられ、夫となった人から、必要ないと言われた。
今は違う。
この土地も。
この人も。
私が選べる。
「はい」
私は、ルーク様の手を取った。
「今度は私が、あなたを夫に選びます」
ルーク様が立ち上がる。
私は自分から、その胸へ身を寄せた。
傷に触れないよう、彼の腕が静かに私を抱く。
「お帰りなさい、ルーク」
「ただいま、ノエル」
帰らない夫を待つだけだった部屋で、私は、自分で選んだ人を迎えた。
明日から、この部屋はもう、帰らない人を待つ場所ではない。
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