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【書籍化進行中】白い結婚から始まる、辺境の眠れる場所

【書籍化進行中】白い結婚で捨てられた私は、愛する騎士を戦場へ送りました

作者: 中身無男
掲載日:2026/07/12

「ルーク団長。生きて、帰ってきてください」


 領主の命令に、私自身の願いを隠すことは、もうしなかった。


 白い結婚で捨てられた私が、今度は自分の手で愛する人を戦場へ送る。


 だからこそ今度は、帰る道を失わせない。



 報せは、北の砦から早馬で届いた。


「魔境から下りてくる魔物が、例年の三倍を超えています」


 領主代行の執務室で、私は泥に汚れた書状を開いた。


 冬を前に獲物を失った魔物が、人里へ下りてくること自体は珍しくない。黒い森との境に北の砦が築かれているのも、そのためだ。


 けれど、今年はまだ秋だった。


 守備隊は三日間、満足に交代することもできず、外壁を守り続けている。負傷者が増え、食料と薬も尽きかけていた。


「ルーク団長と、辺境騎士団の主力を。これ以上は持ちません」


 使者が床へ膝をついた。


 室内が静まり返る。


 王家から領主代行を命じられて、まだひと月も経っていない。


 それでも、この場で決断を下せる者は私しかいなかった。


 ルーク様が一歩、前へ出た。


「領主代行として、ご命令を」


 そこに、私を慰める響きはなかった。


 代わりに決めようとする甘さもない。


 一人の騎士団長として、領主の言葉を待っている。


 行かないでほしい。


 けれど、北の砦には援軍を待つ兵たちがいる。


 私は顔を上げた。


「ルーク団長。辺境騎士団の主力を率いて、北の砦へ向かってください。出立は明朝、夜明け前に」


「拝命しました」


 ルーク様が膝をついた。


 命令は、それで終わった。



 夜明けまでに、できる限りの準備をした。


 出陣する騎士は夜警から外し、夫婦寝室を改めた仮眠室と、北翼の寝台へ入れた。


 眠れなくても横になること。


 温かいものを食べること。


 武具の整備は、残る者が引き受けること。


 廊下で眠るしかなかった頃とは違う。この領地には今、兵を休ませる場所があった。


 救護院では、薬と包帯が荷箱へ詰められていく。


 傷の処置に慣れた者を北翼へ集め、経験の浅い者には、湯を沸かすこと、寝具を替えること、負傷者を運ぶことを任せた。


 ニナは薬瓶と包帯の数を確かめ、二つの荷箱へ行き先を書き込んでいた。


「北の砦へ送る分はこちらです。北翼には、帰還した負傷者を受け入れられるよう、同じ量を残してあります」


「足りますか」


「今ある分では三日ほどです。町の薬師から薬を、織物商からは包帯に使える布を集めます」


 答えながらも、ニナの手は止まらない。


 流民としてこの土地へ来た彼女は、今では救護院を支える一人だった。


「休める時には、あなたも休んでください」


「分かっています。迎える側が倒れたら、帰還した方々を受け入れられませんから」



 ギルバートは、北三村の住民と家畜を帳面へ書き出し、避難に使う荷車を割り振っていた。


 街道沿いの中継所には、食料、替え馬、薪、乾いた毛布を置く。


 北へ向かう荷車には物資を載せ、戻る荷車には負傷者を乗せる。


「子供と高齢者から、今夜のうちに町へ移します。村を空けるには三日ほど必要です」


「今夜から始めてください」


「砦が持ちこたえれば、避難は無駄になるかもしれません」


「無駄で済むなら、それが一番です」


 ギルバートは深くうなずいた。


「承知いたしました」



 別の地図では、ルーク様が砦から南へ続く街道を指していた。


 両側を急な斜面に挟まれ、道幅が狭くなる場所だ。


「砦を保てなくなった場合は、この狭道まで退きます。ここなら、少ない兵でも群れを受け止められる」


「退く条件を、先に決めてください」


 私が告げると、ギルバートの筆が止まった。


「出陣の前から、退却をお考えになるのですか」


「砦からの連絡が途絶えた後では、命令が届きません」


 ルーク様が地図へ指を置く。


「補給できる食料が三日分以下になる。中継所を二つ失う。外壁が破られ、砦の中で負傷者を守れなくなる。そのどれか一つを満たせば、俺の判断で退きます」


 ギルバートは、狭道から屋敷までの距離を指でたどった。


「大勢が一度に戻れば、南の中継所だけでは受け入れきれません」


「街道沿いにも、食料と毛布を用意してください」


「かしこまりました」


 帰還する者を迎える準備が始まった。



 夜明け前。


 騎士たちは温かい粥を食べ、乾いた手袋をはめ、整備された武具を受け取っていく。


 門の前で、ルーク様は馬の手綱を握っていた。


 領主として伝えるべきことは、すでに伝えてある。


 それでも私は、彼のそばへ歩み寄った。


「ルーク団長。生きて、帰ってきてください」


 ルーク様が、わずかに目を見開いた。


 私は視線を逸らさなかった。


「領主代行としてではありません。私の願いです」


「分かりました」


 手袋に包まれた指が、私の手へ触れた。


「戻ったら、最初にあなたへ会いに来ます」


「待っています」


「必ず、あなたのところへ戻ります」


 角笛が鳴った。


「行ってきます」


「行ってらっしゃいませ」


 騎士たちが北へ向かう。


 私は、最後の旗が見えなくなるまで門の前に立っていた。



 王家の軍務監ヴェルナーが到着したのは、翌日の昼だった。


 辺境の指揮系統を立て直すため、以前から南の駐屯地に派遣されていたという。北の砦から急報が届き、馬を替えながら駆けつけたのだ。


 長く北方防衛に携わってきた軍人だった。


 ヴェルナーは中継所と北翼を確認した後、退却条件を記した書面を手に取った。


「砦へ着く前から、退却条件を定めたのですか」


「はい」


 ヴェルナーは、地図上の北の砦を指した。


「ここが落ちれば、魔物は三つの村を抜け、そのまま南の街道へ流れ込みます」


「三村では、すでに避難を始めています」


 ギルバートが帳面を開いた。


「明日までには、住民全員を町へ移せる見込みです」


「人だけ移せば済む話ではありません」


 ヴェルナーの指が、砦の南に並ぶ村をなぞった。


「家も畑も家畜も、領民の暮らしです。砦を失えば、それを守れない」


「分かっています」


「ならば、残る兵も砦へ送るべきです」


「補給が続く間は、守らせます」


「途絶えた後も、砦を持たせるのが軍の役目です」


「食料も薬も届かない場所へ、さらに兵を送るのですか」


「砦を失えば、その後ろにいる領民が危険にさらされる」


「守備兵まで失えば、その領民を守る者がいなくなります」


 ヴェルナーは地図から手を離さなかった。


「領主代行殿は、砦より兵を選ぶのですね」


「砦ではなく、領民と守備兵を選びます」


「その結果、村が焼かれても?」


 すぐには答えられなかった。


 避難できても、暮らしまで運び出せるわけではない。


 それでも私は、帳面に並ぶ住民の数へ目を落とした。


「生きている人がいなければ、村を建て直すこともできません」


「退却条件の撤回を求めます」


「撤回しません」


 短い沈黙が落ちた。


 やがてヴェルナーは、退却条件の書面を手に取った。


「では私は、砦を持たせるために、できる限りの増援と補給を手配します」


「お願いします」


「条件に達した時は」


「私が退却を命じます」


 ヴェルナーは書面を折り、軍服の内側へ収めた。


「砦を失った責任まで負う覚悟がおありなら」


「あります」


 今度は、間を置かずに答えた。



 最初の負傷者が北翼へ運び込まれたのは、騎士団が出陣して三日目の夕方だった。


 荷馬車から下ろされた兵の外套には、黒い毛と、まだ乾ききらない血がこびりついていた。


 救護員が外套を脱がせようとした時、湯を運んできたニナが足を止めた。


「待ってください」


 ニナは、外套に残った黒い毛へ顔を近づけた。


「この臭いを覚えています」


「この魔物を知っているのですか」


「流民として移動していた頃、同じ群れに追われました」


 ニナの顔から血の気が引いた。


「あの時、火を焚いても魔物は止まりませんでした。けれど、年長の方々が、葉の裏が白い草を濡らして火へ入れたんです」


「その煙で、どうなったのですか」


「煙に入った魔物は、目を開けていられなくなりました。臭いも追えなくなり、前の個体が止まると、後ろから来た個体がぶつかりました」


 話を聞いていたギルバートが、目を細めた。


「白裏草でしょう。昔の猟師が、獣除けに使ったと聞いております」


「おそらく、それです」


「すぐに集めましょう」


 私が言うと、ニナが首を横へ振った。


「よく似た草があります。間違えて燃やせば、人にも毒です」


「では、集めた草の選別をお願いします」


「任せてください」



 集められた草の中から、ニナは白裏草だけを取り分けた。


「こちらは違います。葉を揉むと甘い臭いがします」


 白裏草と藁を水へ浸し、屋敷から離れた空き地で燻した。


 白い煙は高く昇らず、地面を這うように広がった。


 煙を扱う者には濡れた布で口と鼻を覆わせ、馬は風上へ移した。


 ヴェルナーは、その日のうちに斥候へ白裏草を持たせた。


 砦から離れた場所にいた小さな群れで、反応を確かめるためだった。


 翌朝、斥候が戻った。


「煙に入ると、魔物は進む向きを見失いました。ただし、煙が薄くなれば、すぐに動き始めます」


 ヴェルナーが地図を広げた。


「南の狭道で使えば、群れの進行を妨げられる」


 彼の指が、狭道の両側をなぞる。


「煙を避けて左右へ流れたところを、弓兵と罠で迎え撃ちます」


「煙は風に左右されます」


 ニナが地図をのぞき込んだ。


「火床を移しながら、濡らした草と藁を足し続ける必要があります」


「その指揮を頼めますか」


 ヴェルナーが尋ねた。


「そのつもりでお話ししました」



 砦は持ちこたえていた。


 ルーク様は守備兵を二組に分け、一組が壁を守る間、もう一組を眠らせた。


 食料と薪は毎日北へ運び、戻る荷車には負傷者を乗せる。


 北翼へ着いた者から傷を洗い、温かいものを食べさせ、寝台へ寝かせた。


 ニナは北翼の入口で、救護員とともに負傷者を振り分けていた。


「歩ける方は右の部屋へ。傷口を押さえられない方は、そのまま奥へ運んでください」


 声を荒らげなくても、周囲は迷わず動いた。


 五日目。


 砦から届いた軍務報告の最後に、短い一文が添えられていた。


 ――街道の灯が、砦からも見えています。


 私は、その一行を指でなぞった。


 ルーク様も、帰る道を見ている。


 七日目。


 北の見張り塔が崩れ、守備兵二人が亡くなった。


 二つの名だけが、帰還欄を空白のまま残した。


 八日目。


 砦に最も近い中継所から、長雨で街道の斜面が崩れ始めたと報せが届いた。


 荷馬車が一台横転し、馬を二頭失った。道幅も狭まり、これまでと同じ量の物資は運べない。


 ヴェルナーが地図を机へ広げる。


「王国軍の増援まで、あと五日です」


 彼は、砦へ続く街道を指した。


「町に残した騎士の半数を送り、路肩の補強と物資の運搬に当たらせます」


「半数を送れば、避難する村人と南の防衛線を守る者が足りません」


「砦が落ちなければ、南の防衛線は必要ありません」


「落ちた場合はどうなりますか」


「戦で、全ての場合に備えることはできない」


「明日の報せまで待ちます」


 ヴェルナーの眉が動いた。


「待っている間にも、砦は削られます」


「現場の状況を聞かずに、残る兵を動かすことはできません」


「承知しました」



 翌朝、書状ではなく、負傷した伝令が戻った。


 左肩を布で固く縛り、馬から降りると同時に膝をつく。


「街道の北端が崩れました。道の半分が谷へ落ちています。荷馬車は、もう通れません」


「砦の食料は」


 ヴェルナーが尋ねる。


「三日分です」


 退却条件に達していた。


 伝令が、ルーク様からの書状を差し出した。


 外壁はまだ立っている。


 しかし昨夜の攻撃で、北角を守っていた三人が亡くなった。


 命令があれば、砦を守る。


 退くなら、今夜が最後の機会になる。


 私の決断を待つ。


「奥様」


 ギルバートが帳面を閉じた。


「北三村の住民は、全員南へ移りました。家畜と穀物は七割ほど運び出しています」


「残りは」


「今からでは、間に合いません」


 私はルーク様からの書状を机へ置いた。


「退却命令を出します」


 ヴェルナーが地図から顔を上げる。


「私は、残る騎士を道の補修と荷運びへ出し、砦を持たせるべきだと考えます」


「意見は承知しています。それでも、退却させます」


 短い沈黙の後、ヴェルナーが地図上の狭道を指した。


「ならば、退却路の確保と第二防衛線の指揮は、私が引き受けます」


「よろしいのですか」


「砦を守るよう進言したのは私です」


 ヴェルナーは視線を逸らさなかった。


「どちらを選んでも、軍務の責任は私にもあります」


「お願いいたします」


 私はギルバートへ向き直った。


「中継所に残る食料と薬を、第二防衛線へ移してください。北三村に取り残された者がいないか、もう一度確認を」


「承知いたしました」


 ルーク様への命令書を引き寄せる。


「負傷者から先に砦を出してください。歩ける者が護衛し、守備兵を続かせる。ルーク団長は後衛へ」


 私は署名し、領主代行の印を押した。


「今夜中に、全員を南へ」



 私は、南の狭道に設けた第二防衛線へ向かった。


「奥様が前へ出られなくても、ヴェルナー殿が指揮できます」


 ギルバートは反対した。


「退却を決めたのは私です。門を閉じる判断を、他人に預けたくありません」


「万一があれば、領地は再び主を失います」


「それでも、ここにいます」


 ギルバートは長く息を吐いた。


「では、私も参ります。帰還者の名簿は、私が持ちましょう」



 ニナは、木柵の内側に設けた火床と救護所を行き来していた。


 村人が集めた草を選別し、濡れた藁と一緒に袋へ詰めていく。


「風が変わったら、煙を焚く場所も変えます」


 ニナが作業員たちへ説明する。


「煙の中へ入る方は、必ず濡らした布で口元を覆ってください。馬は風上へ移します」


 日が沈みかけた頃、北の空が赤く染まった。


 砦が落ちたのだ。


 ほどなく、街道の先に松明が見えた。


「帰還隊です!」


 木柵の門が開かれる。


 最初に入ってきたのは、負傷者を載せた荷車だった。


 続いて、歩けない仲間へ肩を貸す兵たち。


 ギルバートが、一人ずつ名簿へ印をつけていく。


「第一隊、確認しました」


 次の一団が門を越えた。


「第二隊。負傷者二名は、先の荷車に乗っています」


 空が暗くなる。


 帰還者の列が途切れた。


 遠くから、地面を震わせる音が近づいてくる。


 魔物の群れだった。


「後衛は」


 私が尋ねると、ギルバートが名簿を確かめた。


「十五名、まだ戻っておりません。ルーク団長も、その中です」


 ヴェルナーが、柵の上から街道を見据える。


「群れの先頭が、間もなく狭道へ入ります」


 木柵の内側には、負傷兵と避難民がいる。


「門を閉じる準備を」


 ヴェルナーが兵へ命じた。


「まだです」


「後衛を待てば、魔物まで門へ到達します」


「街道を見てください」


 暗闇の向こうで、小さな光が揺れていた。


 一つ。


 二つ。


 その後ろに、騎士団の旗が見える。


「後衛です」


 ギルバートの声が震えた。


 十五人の背後を、黒い群れが埋めている。


「白裏草へ火を」


 ヴェルナーが命じた。


 濡れた草と藁から、白い煙が地面を這うように広がった。


 煙に入った魔物が、進む向きを見失う。


 先頭が止まり、後ろから来た個体がぶつかって、群れが左右へ乱れた。


 けれど、風向きが変わった。


 煙が持ち上がり、道の中央が開いていく。


「火床を二つ、門側へ移してください」


 ニナが作業員へ指示を飛ばした。


「草だけでは駄目です。藁ごと水へ浸して、煙を低く保ってください」


 作業員たちが濡れた袋を運び、門の左右に設けた火床へ押し込む。


 濃い煙が、再び道へ広がった。


「群れが斜面側へ動いています」


 ニナの声を受け、ヴェルナーが剣を抜いた。


「弓兵は左右へ! 罠の前まで引きつけろ!」


 後衛も門へ近づいていた。


「残り九名」


 ギルバートが告げる。


 負傷者を抱えた兵たちが、門を越えた。


「残り三名」


 二人の兵が、倒れ込むように木柵の内側へ入った。


 最後尾に、ルーク様がいた。


 肩の鎧が裂け、片腕をかばっている。


 その背後で、一頭の魔物が煙を突き抜けた。


「これ以上は待てません」


 ヴェルナーの声が飛ぶ。


 ルーク様が顔を上げた。


 目が合った。


 彼は最後の力で走った。


 門の内側から伸びた腕が、ルーク様の身体を引き入れる。


「後衛、全員門内です!」


「閉門!」


 門扉が閉じ、太い閂が落とされる。


 直後、魔物の巨体が門へ激突した。


 板が撓み、閂が軋む。


「槍列、前へ!」


 ヴェルナーが命じた。


 門の隙間から突き出された黒い爪へ、騎士たちの槍が一斉に突き込まれる。


 魔物が身を引いた。


 低く流れた白裏草の煙が、その顔を包む。


 進む向きを失った魔物が、斜面側へよろめいた。


「今です!」


 ヴェルナーの合図で矢が放たれた。


 魔物は斜面の罠へ落ちた。


 門の向こうで、爪が木を引っかく音が遠ざかっていった。



 ルーク様は、門の内側で片膝をついていた。


 肩から流れた血が、鎧を濡らしている。


「ルーク様」


 私は駆け寄った。


 ルーク様が顔を上げる。


 苦しそうに息をしながら、それでも私を見て、かすかに笑った。


「約束を、守りました」


 その一言で、胸の奥に張りつめていたものが切れた。


「……遅いです」


「申し訳ありません」


「本当に、遅いです」


 声が崩れた。


 泣かないつもりだった。


 領民の前でも、騎士たちの前でも、領主代行として立っているつもりだった。


 けれど、ルーク様の姿を前にしたら、もう無理だった。


 私は、その手を握った。


「お帰りなさい」


 ルーク様の指が、私の手を握り返す。


「ただいま」


 たった二言で、彼が生きて戻ったことが、ようやく本当になった。


 ルーク様の身体が傾く。


 私は、その腕を支えた。


「救護所へ運んでください」


 救護員が駆け寄ってくる。


 ルーク様の手を離そうとすると、指先に力が入った。


「行かないでください」


「行きません。そばにいます」



 第二防衛線は、三日三晩持ちこたえた。


 白裏草の煙が魔物の進行を妨げ、群れの足並みを乱す。


 煙を避けて斜面側へ流れた魔物を、ヴェルナーが配置した弓兵と罠が迎え撃った。


 一組が戦う間、別の組は食べ、眠る。


 負傷者は救護所へ下げ、代わりの兵を前へ出した。


 ニナは風向きを見ながら火床を移し、ギルバートは食料と薬を運ばせ続けた。


 夜ごと門は軋み、壊れた柵は、そのたびに騎士と避難民の手で補われた。


 四日目の夜明け。


 南の街道に、王国軍の旗が現れた。


 退却によって主力を残し、第二防衛線を守り抜いたからこそ、増援は到着したその日から反撃へ移ることができた。


 ルーク様とヴェルナーは北三村へ入り込んだ魔物を押し戻し、街道沿いの中継所を一つずつ奪い返した。


 二日後には、北の砦を望む丘まで進んだ。


 砦を正面から攻めれば、犠牲が増える。


 ヴェルナーが南門の前で魔物を引きつけ、その間にルーク様が少数の騎士を率いて、崩れた北角から砦へ入った。


 さらに三日後。


 内側から南門が開かれた。


 王国軍と辺境騎士団が砦へ入り、日が沈む前に、北の塔へ旗を戻した。


 主力を残したから、増援とともに反撃できた。


 退いたからこそ、砦を取り戻すことができた。



 砦を奪還した後、ヴェルナーが、帰還した騎士たちの前で口を開いた。


「私なら、あの時、門を閉じていました」


 彼は、後衛として戻った十五人へ目を向けた。


「閉じていれば、この者たちは戻らなかったでしょう」


 続いて、第二防衛線の門と、その前に残る火床を見る。


「退却し、後衛を待つ。それだけなら、無謀な賭けです。ですが、領主代行殿は、退路と第二防衛線を先に整えていた。だから門を開けて待つことができた」


「それを守り切ったのは、あなたと騎士たちです」


 私が言うと、ヴェルナーは首を横へ振った。


「私は、あなたが整えた第二防衛線で指揮を執りました。退却を選び、最後の後衛まで門を開けておくと決めたのは、領主代行殿です」


 ヴェルナーは深く頭を下げた。


「砦を守るべきだという私の進言と、退却を選んだ領主代行殿の判断。その両方を、王都へ報告します」


「お願いします」


 ヴェルナーは続いて、ニナへ軍人として一礼した。


「白裏草の使い方を教えてくださったことにも、感謝します」


「私が考えたものではありません」


 ニナが答える。


「以前、一緒に旅をしていた方々から教わりました」


「では、その方々が伝えた知恵を、あなたがここへ届けた」


 この土地へ逃れてきた人々は、守られるだけの存在ではなかった。


 生き延びる中で受け継いだ知恵が、今度はこの土地を守った。



 王家から正式な沙汰が届いたのは、一月後だった。


 沙汰には、これまで私が行ってきたことが、一つずつ記されていた。


 救護院の運営。


 北翼の再開。


 街道と物流の立て直し。


 流民の受け入れ。


 そして、北方防衛における指揮と判断。


 今回の戦だけで認められたのではない。


 これまで積み上げてきたもの全てが、一つの答えになったのだ。


 王家は私へ辺境伯位と、この土地の正式な統治権を授けた。


 領主代行ではない。


 この日から、私がこの辺境の領主となる。


 叙任状を読み終えた後、私は帰還者の名簿を開いた。


 出陣した騎士。


 砦の守備兵。


 補給路を守った者。


 戻った名前には、ギルバートが一つずつ印をつけていた。


 帰還欄が空白のまま残された名は、五つ。


 見張り塔で亡くなった二人。


 外壁の北角を守った三人。


 私は、その名を一人ずつ声に出して読んだ。


 全員を帰すことはできなかった。


 だから、数だけにはしない。


 残された家族への補償と、北三村の再建を、最初の領主命令として署名した。


「就任の祝宴は、本当になさらないのですか」


 ギルバートが尋ねる。


「村の家が建ち、畑へ種をまけるようになるまでは」


「領民は、新しい領主を祝いたがるでしょう」


「その時は、村の再建を祝う宴にしてください」


 ギルバートは深く頭を下げた。


「かしこまりました。辺境伯閣下」


 初めて呼ばれた肩書きは、思っていたより重かった。



 その夜、私は、夫婦寝室だった仮眠室にいた。


 出陣を控えた騎士が眠り、帰還した騎士が傷を休めた部屋。


 今夜、寝台は空いている。


 戦を終えた者たちは、それぞれの帰りを待つ人のもとへ戻っていた。


 扉が開いた。


 ルーク様が入ってくる。


 傷はまだ塞がりきっていない。


 けれど鎧ではなく、清潔な上着を身につけていた。


「お身体は、もうよろしいのですか」


「長く立っていなければ」


「でしたら、座ってください」


「その前に、伝えたいことがあります」


 ルーク様は、私の前まで歩いてきた。


「以前、俺の隣を、あなたの場所に決めてほしいと言いました」


「覚えています」


「あなたは、心から承知したと言ってくれた」


「はい」


「その先を、願ってもよいでしょうか」


 ルーク様が膝をつく。


 騎士が領主へ従うための膝ではなかった。


「ノエル」


「はい」


「俺を、あなたの夫にしてください」


 白い結婚を命じられた時、私に選ぶ権利はなかった。


 妻という名だけを与えられ、夫となった人から、必要ないと言われた。


 今は違う。


 この土地も。


 この人も。


 私が選べる。


「はい」


 私は、ルーク様の手を取った。


「今度は私が、あなたを夫に選びます」


 ルーク様が立ち上がる。


 私は自分から、その胸へ身を寄せた。


 傷に触れないよう、彼の腕が静かに私を抱く。


「お帰りなさい、ルーク」


「ただいま、ノエル」


 帰らない夫を待つだけだった部屋で、私は、自分で選んだ人を迎えた。


 明日から、この部屋はもう、帰らない人を待つ場所ではない。

最後までお読みいただき、ありがとうございました

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