幼馴染を優先する婚約者
中庭というのは、どうしてこうも面白い出来事が転がっているのだろう。
四方を石造りの回廊に囲まれ、中央には季節の花々が咲き誇る。いかにも「貴族の学園」といった風情のこの場所は、本来ならば優雅な憩いの場であるはずなのに、なぜか私にとっては格好の観察スポットになっている。
視線の先、中庭のベンチでは――ダミー・ペースト子爵子息とアイビー・コピー男爵令嬢が、実に仲睦まじく寄り添っていた。
いや、寄り添うなどという生易しいものではない。肩は触れ合い、距離は近く、視線は絡み合い、空気は甘ったるい。周囲に漂うその雰囲気だけで、砂糖菓子が三割増しで甘く感じられそうなほどだ。
コツ、コツ、と手入れの行き届いた靴音が石畳を叩き、凛とした空気が中庭を支配する。登場したのは、ダミーの婚約者、ミラベル・ループ子爵令嬢だ。
その瞳には確かな冷静さと、積み重なった忍耐の重みが宿っている。彼女は二人の前で立ち止まると、静かに口を開いた。
「……お二人とも。少しよろしいかしら」
空気が、ピンと張り詰める。
ミラベルの登場に、アイビーは「ひっ」と短く悲鳴を上げてダミーの背後に隠れる。計算され尽くした、守られ仕草だ。それを見たダミーは、露骨に不機嫌そうな顔をした。
「ミラベル……」
「ここは公共の場です。あまりにも親密な様子は、周囲の誤解を招きかねませんわ」
ミラベルの声は冷たく、そして正しい。貴族としての矜持があれば、当然の指摘だろう。
途端にアイビーがはっとしたように身を引き、すぐに申し訳なさそうな顔を作る。
「……ご、ごめんなさい」
彼女はうるんだ瞳でミラベルを見つめ、か細い声で言う。
「ごめんなさい、ミラベル様! いつも彼を独占してしまって……私、幼いころから病弱で、勉強も遅れているし、学園でも居場所がなくて。ダミー様だけが優しくしてくださるんです……だから、私には彼しか頼れる方がいなくて……っ」
アイビーの瞳からは、大粒の涙がぽろりとこぼれる。それを見たダミーが、すかさずミラベルを睨みつけ、あろうことか指を突きつけた。
「ミラベル! 彼女が困っているから助けているだけだ。それを執拗に責めるなんて、君はなんて冷たい女なんだ!」
私は思わず苦笑してしまった。
冷たい? 彼女は「常識的」なだけじゃないかしら。自分の婚約者が、他の令嬢と人前でベタベタしていれば、注意するのは義務ですらある。
ミラベルは、すっと表情を消した。それは怒りではなく、深い諦念のように見えた。
「……もう限界ですわ、ダミー様。貴方はいつだって幼馴染のアイビー様を優先する。そのことを指摘すれば『嫉妬深い』『理解がない』『冷たい』と切り捨てる。そこまで彼女が大切なら、私との婚約は解消しましょう」
ダミーは一瞬、何を言われたのかわからないという顔をした。
「な、何を馬鹿なことを……君がそんなことを言うはずがない」
「私たちは政略結婚。お互いに利益があってこそ成り立つもの。ですが現状、私はあなたに軽んじられている。ならば、この関係を続ける意味はないでしょう」
ダミーは苛立ちを隠せない様子で言った。
「馬鹿なことを言うな! アイビーとは幼馴染で、疚しいことなど何もないと言っているだろう! そんなくだらないことで嫉妬するなんて、見苦しいぞ!」
それを聞いて、ミラベルは――ほんの少しだけ、笑った。
「嫉妬?」
その声には、驚くほどの温度がなかった。
「勘違いしないでくださいませ。先程も言いましたけど、これは政略結婚です。貴方のことなど、最初からこれっぽっちも好きではありませんもの。愛していない男に誰が寄り添おうと、嫉妬する価値もありませんわ」
「……え?」
間の抜けた声。
ダミーは呆然と立ち尽くし、ミラベルの言葉を咀嚼しようと必死に瞬きを繰り返した。だが、拒絶の言葉を理解するよりも先に、彼の口からは焦燥に駆られた否定が飛び出す。
「そんなはずはない! 君は僕を愛しているはずだ! いつも茶会で必ず僕の好きな銘柄の紅茶を淹れて笑顔で待っていてくれたし、僕の誕生日に自ら刺繍したハンカチを贈ってくれたじゃないか! 僕の健康を気遣って手製のハーブティーを届けてくれたのも、全部愛ゆえだろう!?」
「それは『義務』ですわ。契約不履行にならないためのね。私はただ、役割を果たしていただけ。あなたもそうでしょう?」
ミラベルは淡々と続ける。
「それとも……違いましたの?」
ダミーの顔が、みるみる青褪めていく。
「違う、誤解だ!ミラベル、君は勘違いをしている……!」
ようやく事態の深刻さに気づいたのか、ダミーは狼狽えながら彼女の手を掴もうと追い縋る。
「僕はただ、君に嫉妬してほしかっただけなんだ! アイビーと一緒にいれば、君は少しだけ寂しそうな顔をするだろう? それを見て、僕は君に愛されていると実感して、安心していたんだ……。君を怒らせたかったわけじゃない!」
ダミーの声が中庭に虚しく響き渡る。その形相は、先ほどまでの余裕に満ちた様子とは程遠い。
「君が僕を愛しているなら、少しくらいアイビーを優先しても許してくれる。むしろもっと僕を追いかけてくるはずだと思って……!」
あらまぁ。どうやら彼は、彼なりに本気でミラベルを愛していたようね。そして、彼女も自分を愛していると勘違いしていた。それゆえに、自分がどれほど不実に振る舞おうとも、幼馴染を優先して彼女の心を試そうとも「最後には笑って許される」と信じて疑わなかったというわけだ。
それにしても、今の彼には隣にいるアイビーが肩を震わせて深く俯いていることなど、これっぽっちも視界に入っていないのかしら。自分が「愛を確かめるための道具」として利用されていたと突きつけられたのだ。懸命に悲劇のヒロインを演じていた彼女が、あまりの事態に困惑して黙り込んでしまうのも当然だろう。
ミラベルには「試し行為」という精神的苦痛を与え、アイビーには「偽りの優しさ」を餌に執着させた。
独りよがりの愛を免罪符に、二人の令嬢を同時に踏みにじる。どちらの令嬢に対しても、これ以上なく不誠実じゃないかしら。
ダミーがさらに見苦しい弁明を重ねようとした、その時。庭園の華やかな空気を切り裂くような、鋭い声が響いた。
「そこまでだ。見苦しいぞ、ダミー・ペースト」
バラのアーチの向こうから一人の青年が姿を現した。ミラベルの幼馴染、ジュリアン・リバイバル伯爵子息だ。
「ジュリアン様……」
「すまない、ミラベル。割って入るつもりはなかったが、これ以上は聞き捨てならない。……君がこの婚約のために、どれほど誠実に役割を果たそうと努めてきたか。僕は知っているから」
ジュリアンはミラベルに向けた柔らかな表情を消すと、射抜くような冷徹な眼差しをダミーへと向けた。
「ダミー。ミラベルが僕を優先し、君を蔑ろにするようなことがあれば、君はどう思う? ――今の君がやっているのは、そういうことだ。君は嫉妬されて安心したと言ったが、それはあまりに傲慢だ」
彼はミラベルを守るように肩を抱き寄せると、毅然とした声で続けた。
「愛というのは、相手を不安にさせて繋ぎ止めることじゃない。相手が安心して、心から笑える場所を守り続けることではないのか?本当に大切に想う相手なら、その瞳に曇りひとつ作らせたくないと願うものだ。君がアイビー嬢と睦まじく過ごす陰で、彼女がどれほど『婚約者』としての矜持を守り、孤独に耐えてきたか。君は一度でも想像したことがあったのか?」
その声は静かだが、中庭の空気を震わせるほどの重みがあった。
「君がアイビー嬢と過ごし、彼女を不安にさせた時間の分だけ、ミラベルの心は離れていった……すべては君が選んだことだろう?愛想を尽かされたからといって、彼女を責める資格など君にはない」
ダミーは顔を真っ青にし、言葉を探すように口を震わせる。だが、ぐうの音も出ないとはまさにこのことだろう。突きつけられたのは、自分の身勝手さが招いた「必然の結末」なのだから。
彼は力なく項垂れた。
「……僕は……そんなつもりじゃ……」
後悔を滲ませるその声も、今のミラベルには届かない。
結局、彼はアイビーに支えられながら、魂が抜けたような足取りで退場していった。
一見すれば、道具扱いされた挙句、自分を愛してもいない男を支えなければならない哀れなアイビー。けれど、私は見てしまった。去り際に彼女がミラベルに向けて放った、あの冷ややかな「勝ち誇った笑み」を。
彼女にとっては、ダミーが自分をどう思っていようが関係なかったのかしら。彼さえ、自分のものになれば。
たとえそれが、すべてを失いボロボロに崩れ去った男の残骸であっても、完全に独占できるのであれば形なんてどうでもよかったのかもしれない。
婚約も、名誉も、自信さえも失って、抜け殻のようになったダミー。自分しか縋る相手がいなくなった彼を見て、彼女の瞳には「ようやく手に入れた」という歓喜の火が灯っているように見えた。
「大丈夫ですよ、ダミー様。私だけは、貴方の側にずっといますからね……」
そんな囁きが風に乗って聞こえてきたけれど、きっと私の気のせいよね……そう思っておきましょう。
「ありがとう、ジュリアン様……お見苦しいところをお見せしてしまいましたわ」
「いいんだ、ミラベル。君の誠実さが報われないなんて、あってはならないことだからね」
見つめ合う二人。
ああ、なんて素晴らしいのかしら。理解ある幼馴染が、不実な婚約者を追い払い、傷心の令嬢を救い出す。これぞハッピーエンドの王道――。
……と、拍手喝采を送りたい気分だったけれど。どうやら、中庭の神様はまだ私を帰してくれるつもりはないらしい。
不意に、背筋に冷たいものが走るような感覚。幸せな二人の背後、バラのアーチとは反対側の回廊から、静かにこちらへ歩み寄る一人の令嬢の姿が見えた。
「――ジュリアン様」
その声が響いた瞬間、ジュリアンの肩がわずかに跳ねたのを私は見逃さなかった。
現れたのは、彼の婚約者、イザベラ・コンスタンス伯爵令嬢だ。その表情は――穏やか。穏やかすぎて、逆に怖い。春の陽だまりのような微笑みを湛えているのに、彼女の周囲だけ空気が凍りついているように見えるのはなぜかしら。
イザベラは、ジュリアンがミラベルの肩を抱いているその手を、静かに、じっと見つめた。
感情の読めないその瞳が、スッと二人の顔へと向けられる。
「ジュリアン様、ミラベル様。あまりにも距離が近くありませんこと? 婚約者のいる身として、少々、思慮に欠ける振る舞いではないでしょうか」
「ご、ごめんなさい、イザベラ様」
ジュリアンに肩を抱かれたまま、ミラベルが潤んだ瞳で言った。
「いつも彼を独占してしまって……でも、私には彼しか頼れる方がいなくて。婚約者のことで悩んで、身も心もボロボロの私に、ジュリアン様だけが手を差し伸べてくださったのです……!」
……えっ?
私は耳を疑った。今、なんて言った? その台詞、ついさっきあっちの男爵令嬢が言っていたのと同じじゃないかしら?
絶句する私をよそに、ジュリアンがイザベラを鋭く睨みつけた。
「イザベラ! 彼女は今、傷ついているんだ。幼馴染として助けるのは当然だろう。それを責めるなんて、君はなんて冷たい女なんだ。少しは彼女の痛みを想像したらどうだ?」
いやいやいや。待って。
何ということかしら……デジャヴだわ。
既視感が凄まじすぎて、頭がクラクラする。
ちょっと前の、あの堂々とした説教は何だったの? どの口が、自分の婚約者に向かって「冷たい女」なんて罵声を浴びせているのかしら。
さっきまで「彼女が僕を優先したらどう思う?」って断罪していたのに……数分前の自分と戦っているのかしら。
鏡だ。これは、精巧に作られた鏡合わせの地獄絵図だわ。
(……なんだか、すっごく損した気分)
あんなに鮮やかだった「王道の逆転劇」を、ここまで完璧に台無しにできるなんて。さっきの、清々しいまでに感動した私の気持ちを今すぐ返して欲しい。
ジュリアンはフンと鼻を鳴らすと、ミラベルの腰に手を回し、勝ち誇ったようにその場を去っていく。
「ジュリアン様、大丈夫なんですか? イザベラ様、怒ってらしたんじゃなくて?」
去り際、ミラベルの声が風に乗って聞こえてきた。その声には、隠しきれない愉悦とイザベラへの嘲笑が混じっている。
ジュリアンは余裕たっぷりに、鼻で笑った。
「構わないさ。彼女は僕を少し愛しすぎているからね。放っておけば、また機嫌を取りに来るだろう」
……絶句。自分たちがさっき「悪」として切り捨てたダミーと、寸分違わぬ思考回路じゃない。
私は、ただ一人その場に残されたイザベラを見つめた。彼女は、婚約者が他の女を連れて去っていった方向を、微動だにせず見つめている。
そして、背筋を真っ直ぐに伸ばし、一点の乱れもない所作で、扇をパチンと閉じた。
その瞳はまるで、光を一切反射しない、凍りついた湖のよう。自分の婚約者が放った「冷たい女」という言葉すら、まるで遠くの国の天気予報でも聞くかのような、無機質な表情で受け止めていた。
イザベラはゆっくりと踵を返す。その足取りは重くもなければ、急ぐ風でもない。どこまでも優雅に、淡々と、自身の領分へと戻っていく。
一点の揺らぎもないその背中が、回廊の角に消えるまで、私は目を離すことができなかった。それと同時に、先ほどまでの感動が嘘のように冷めていくのを感じ、口元からは思わず長い溜息が漏れる。
「物語で見えているものなんて、ほんの一面でしかないのね……」
誰が悪役で、誰が被害者で、誰が救われるのか。
それは、語られる角度次第。
私はもう一度、遠ざかっていくイザベラの背中を見る。あの静けさの奥に、一体どれほどの「毒」が溜まっているのか。
「いつか……彼女の逆転劇を見ることができるのかしら」
唇が、自然と笑みを描く。
もしその時が来たら……「僕は愛されているから許される」なんて宣っていた男はどんな悲鳴を上げるのかしら。
「……とっても楽しみだわ」




