犬がすっかり兄弟になりまして・42
「シゲさん、連れて来ました。えっ……」
ペットキャリーを掲げて勢いよくドアを開けた刑事はそのまま固まってしまった。狭い取調室の中には、いつのまにやら猫が1匹犬が2頭、人間5人というぎゅうぎゅうの状態になっている。つまり航の目にはヒトの形のものが8人いるというわけで、他の人たちが感じる圧迫感よりはるかに航の方が息苦しくは感じていた。
松重刑事は舌打ちすると声を上げた。
「おい!用の済んだ奴から外に……」
「お父さん!大変だお父さん!お母さんが家出しちゃう!!」
だが突然松重刑事の声を遮るように、ペットキャリーの中から航には青年の叫び声が聞こえた。
「おお。どうしたどうした、茶々丸。びっくりしちゃったか。ごめんごめん」
松重刑事は慌ててペットキャリーの中を覗く。重松刑事にもなにかしら聞こえたということはペットキャリーの中の誰かが吠えたということであろうと航は判断し、松重刑事に言った。
「なんか、奥さんが家出するみたいなこと言ってますよ」
「なにぃー!?」
松重刑事は顔を上げ、ものすごい形相で航を見た。
開けようとしているのか、がしゃがしゃと掘るような音を立てながら、茶々丸と呼ばれたものはペットキャリーの中で叫びながら暴れていた。
「もうお母さん耐えられないって!仕事が忙しいのはわかってる!でも、たまに帰ってきても寝るだけ、家のことは手伝わない、子育ては自分ひとり、親戚づきあいも親の介護も自分任せで、なのに話も聞いてくれない。もう、こんな生活イヤだって!ずいぶん前からママ言ってた!」
がっしゃがっしゃと暴れながら茶々丸は言いつのる。たぶん松重刑事にはワンワン聞こえている。
「お母さん、泣きながら毎日暮らしてた。話し合おうと思ってるのに、いっつもお父さんは先に寝ちゃう。休みの日にも寝っぱなし。たまに昼起きてきたと思ったら、テレビ見て呑んでるか、行かなくてもいい仕事に行ってるって。もう話し合いの余地ないって。そんなに話もしたくないなら出て行くって。子供が大きくなったらひとりで出て行くって。ずっと、ずっと準備してた!何年も前から!」
いやこれ話長くなりそうだなと思った航は、ペットキャリーを机の上に下ろしてもらい、同時通訳を試みる。
「でもぼくも連れて行くって言ってくれてた!ぼくもちゃんと連れて行くからねって!今日がその日だったんだよ!」
茶々丸の悲鳴には涙が混ざっている。航も一応感情を乗せてみるが、しょせん素人、大根だ。上手く重松刑事の心に刺さったかわからない。
「なんでそんな日に限って迎えにくるんだよ!お父さんなんて散歩のひとつもしてくれたことないくせに!いったいぼくになんの用なんだよ!お母さんだってびっくりしてたよ!ぼくのことなんて気にしたこともないお父さんが、突然仕事場にぼくを呼びつけたもんだから!バレたんじゃないかって!人質なんじゃないかって!」
うわこれ緊急を要するようだったからうっかり同時通訳始めちゃったけど、もしかして人前ではやってはいけない話だったのではと今さらながら航は冷や汗をかきだす。重松刑事以外の人々は息を呑みながら重松刑事を横目で注目している。でももう止められない。
「ぼくをキャリーに入れるとき、お母さん、ぎゅって抱きしめて『ごめん……』って言ったんだ!ごめんだよ!?ごめん!お母さん、もう行く気なんだよ!ぼくを置いて行く気なんだよ!」
茶々丸の声はもう悲鳴だ。犬で言うなら「キャンキャンキャン」ではなかろうかと航は想像した。
「早く帰して!早くぼくを家に帰して!今ならきっとまだお母さん、待っててくれるはず……!」
「木下ー!!」
「はいー!」
松重刑事は吠えると、全速力で廊下を走り去っていった。呼ばれた木下刑事も茶々丸の入ったペットキャリーを抱えて走り出す。
「間に合うかな」
ライが言うと、聞こえてないはずの露口も言った。
「間に合うといいですね」
なんだかんだで結局気が合っている親子である。
「帰っていいですかね?」
航がチカちゃん刑事に確認すると、彼女は少し気が抜けたように「そうですね」と言った。
「あの」
部屋を出ようとする航にチカちゃん刑事は遠慮がちに声を掛けた。振り返った航に言いにくそうに訊く。
「ダイモンはうちに来て幸せだって言ってますか?」
航はちょっとだけ目を見開いた。
ダイモンはチカちゃん刑事の顔をじっと見ていたが、やがてぐりぐりと額をチカちゃん刑事の頬に摺り寄せて、甘く言った。
「チカちゃん、だーい好き!」
「だそうです」
航は笑うだけで訳さなかったが、充分チカちゃん刑事には伝わったようだった。
それをじっと見ていたライは、後ろから突然露口にのしかかった。
「ママ、好きー!大好きー!」
「きゃー!?」
小さな露口はあっという間に引き倒され、潰された。
「ちょっとライくん!重い!どうしたの!?」
「好きー」
「ちょっとライくん!やめて!ちょっと!」
ライは倒れた露口の背中に乗ったまま、後ろを向く露口の頬にちゅっちゅとキッスの嵐を送っている。人間同士ならなかなか扇情的な光景なはずなのに、航の目から見ても大型犬が飼い主に甘えている光景にしか見えず、犬がちゃんと犬に見える元の世界に戻ったような気がするが、しょせん気のせいである。どう見ても若い男性が若い女性を襲っているが、そう見えるのは航の視界だけなので問題はない。むしろ問題だったのは愛情表現が下手なライと、ライの愛情を上手くくみ取れなかった露口にあったと思うので、ここはひとつ、ふたりのこれからの関係を航は後押しすることにした。
「いいぞライ。その調子」




