堕ちた人魚
◇
翌朝。皇子一行と女王率いる人魚軍は沈没船に向かった。君主自ら出陣するのかと驚いたが、亜人は力ある者が王となるそうだ。血統は二の次らしい。
人魚たちは鮫や海豚に騎乗し、人間はまた巨大な甚平鮫に乗る。物理結界を、今日はノアに任せてみた。属性を多く持つノアは器用だ。教えたらすぐにできるようになった。皇子は鮫を1頭借りた。慣れると実に速くて快適だった。
『鮫に乗った人族は初めて見たのう』
女王と並走しながら海中を駆けた。あまりに楽しくて頬が緩む。昨日は姫にああ言ったが、海で暮らすのも悪くないと思った。
沈没船へは宮殿から1時間以上かかった。大型の帆船が海底に横たわっている。遠く離れた場所からも瘴気を感じた。まずは皇子が浄化する。
「浄化」
沈没船の周囲500メートルの瘴気を祓う。次の瞬間、沈没船が轟音を立てて崩れ落ちた。中から何かが出てきた。
「姫!?」
『マリエル!』
皇子と女王は驚愕した。緑の髪は青黒く変色し、愛らしい水色の瞳はただの黒い穴となっている。美しかった尾びれと鱗も黒く光る。全身を禍々しく呪われながら、姫はゆっくりと近づいて来た。片手には剣を携えている。
堕ちた姫がぐるりと周囲を見た。その目が甚平鮫に乗ったミナミたちで止る。皇子はとっさにその前に光の盾を出した。姫の持つ剣から瘴気が跳び出したのと同時だった。
「ノア!海上に逃げろ!」
瘴気を弾き、甚平鮫を下から押し上げる。急上昇を強いられ、ミナミたちは悲鳴を上げた。
『正気に戻りゃ!』
女王が魔法を放った。光の鎖が姫をがんじがらめに捕らえる。初めて見る技だ。皇子は記憶に留めた。他の人魚たちは手が出せずに、遠巻きに見ているしかなかった。
姫が光の鎖を引き千切った。凄まじい魔力量だ。恐らくあの剣が底上げをしている。何とか捨てさせねば。皇子は手を切り落とすと決めた。
乗る鮫の頭を撫ぜる。縦長の瞳孔が彼を見上げ、鮫は姫へと恐れずに向かった。皇子はその勇気に感じ入った。
(すまん!)
すれ違いざまに、剣を持つ手を斬り飛ばす。切り口から赤黒い血が水中に流れ出た。剣は手首と共に沈没船の瓦礫の中に落ちた。
『アアアアアアアッ!』
姫は斬られた腕を抱え、のたうち回った。流れ出る血がするすると沈没船の方へ行く。剣が血を求めている。血と瘴気が凝り固まり、動く骸骨となった。
『死霊じゃ!引け!』
女王は人魚族に下がるよう指示した。死霊と呼ばれた骸骨が瓦礫の中から無数に出てくる。その動きは早く、魚のようだ。
皇子は一帯に“浄化”をかけようかと迷った。姫がどれほど瘴気を抱えているか分からない。一緒に消え失せる可能性がある。その時、頭上からミナミの声が聞こえた。
「水だけ消えろ!」
沈没船を中心とした半径100メートルほどの水が消える。海中にぽっかりと円柱の空間が生まれた。姫は海底に落ちた。死霊どもは空気の中を緩慢に歩く。
「教官殿!」「宮様!」
魔法騎士とリコリスが降りてきた。ヒナとノアの風魔法だろう。見上げると円柱の外側に甚平鮫がいた。ミナミがスキルで水を消し続けている。皇子は鮫を降りて走りながら叫んだ。
「死霊を一カ所に集めろ!」
「はっ!」
騎士たちが剣を抜いた。骸骨は斬っても死なず、乱戦となる。そこへ海豚や鮫を乗り捨てた人魚たちが助けに入った。人族と人魚族は力を合わせ死霊を囲み、集めた。すかさず皇子は浄化をかけた。
骸骨は消え去った。皇子は沈没船から剣を回収し、浄化をかけた。その後影に仕舞った。
◇
ミナミが水を少しずつ元に戻し、空気の円柱は消えた。人族はまた甚平鮫の背に戻る。人魚族は深い悲しみを湛え、娘を抱く女王に跪いていた。姫は右手を失い、気を失っている。呪いは消えていない。
『マリエル…』
皇子は姫を救う方法を考えた。弟王子とは様子が違う。瘴気が全身の肉と癒着している。やはり呪いを消すと姫も消えてしまいそうだ。浄化しながら再生すれば、あるいは。
「ヨッシー!」
ミナミが呼ぶ。皇子は鮫を寄せた。
「何だ」
「あたしが呪いを“消去”させる。やったことないけど、できる気がする。多分、絶対。できる」
驚いた。あんなに姫を毛嫌いしていたのに。皇子は微笑んで手を差し出した。ミナミを空気の膜で包む。彼女はおっかなびっくり鮫に乗り込んだ。
「女王。俺とミナミで呪いを祓う。だが瘴気が浸透し過ぎている。上手くいくか分からん」
母親に判断を委ねる。泡と消えるか、奇跡的に助かるか。賭けだ。
『お願いする』
女王は即答した。ミナミが姫の左手を取る。
「呪いだけ消えろ!」
同時に皇子が“再生”をかけた。呪いと一緒に消えた肉を瞬時に再生させる。みるみる姫の髪や肌、鱗が元の色を取り戻した。失った右手も生えた。皇子は目を瞑り、更に集中した。
「あれ?」
ミナミが妙な声を出す。もしや失敗したかと、皇子は目を開けた。女王の腕には5歳ほどの幼女の姿があった。
「姫、縮んじゃった…」
幼女に変じた姫の瞼が上がった。水色の瞳が見える。おかしい。皇子は改変はしなかった。訝しんでいると、姫の目と目が合った。
『背の君!』
甲高い声が呼ばわった。中身は元のままのようだった。人魚の姫は泡とはならず、幼女となった。




