令嬢は王子を誘う
これは夢だと彼は直感した。忌々しい夢。見たところで不快にしか感じない泡。
『なぜおまえはもっと早く生まれなかったの?』
それは貴方が僕を早く生まなかったからだ。僕だって、あいつとこんな形で比べられたくなかった。
でも口には出さない。反論はしない。だって的を得ているから。
剣で指南役から一本取っても。
勉学で教師を唸らせても。
官僚共もの書類に目を通し、その不備を指摘しても。
『しかしあの方には及びません』
そう言い捨てられても僕は何も言わずただ受け入れたんだ。
分かっていたんだ。及ばないことは。敵わないことは。まだ。まだ敵わないのは。
教師共や貴族どもがそんな目を向けなくても。おかあさまが僕を叱らなくても。王が憐れみながら僕の頭を撫でなくても…。あいつが私に同情しなくても!
そんなのわかってるんだ。分かっているのだ。
『あの方に少しでも追いつけるように頑張りなさい』
だからさ。
そんな無駄なことしなくても分かっているから。知っているから。理解しているから。
努力するから。頑張るから。邁進するから。
みんな意味のないことをし続けないで。
するんじゃなくみんな、僕を。
……
窓から朝日が差し込み少年の目元にかかる。
ライは不快気に右手でそれを遮った。掌は額の汗で濡れていた。この極寒の地で汗をかこうとは。随分と自分はこの地に順応したらしい。
「最悪の眼覚めだ」
少年はベッドから這い出ると、室内に備えられている呼び鈴を軽く鳴らす。暫くすれば従者たちが少年の支度を整えにやってくるだろう。
忙しなかった王都時代なら兎も角、この地で急ぎ支度したところで、なんの意味があるのかは分からなかったが。
「それで……この前の大見得を切った発言から既に一か月が過ぎたわけだ」
テラスで紅茶に口をつけながら、ライは少女を睨みつけた。
あの少女の裏の顔を覗いて以降、定期的に二人はここで茶会に耽っていた。
少女が誘い、少年が受ける。なにをするわけではないが、二人はこれまで黙々と机で対面し、紅茶を片手に当たり障りのない言葉を交わしていた。
この奇妙な集まりは三日に一度開かれた。回数は今回で十回ほど。
少年は正直受ける理由がなかったが、従者共の視線の中主の誘いを断るのも気が引けたし、この極寒の地では何かできることもなかった。なので渋々と少年はこの無意味な会に顔を出していた。
だがとうとう痺れを切らし少年は口火を切る。
あの時。
肯定否定はともかくも少年の心は大きく揺さぶられた。何かが動くと身構え、それに自身はどう対応すべきかと静かに思考もしていた。その後未だに諦めきれていない自身の心に気付き、毒づいたが。
しかし、一週間が過ぎ、十日が過ぎ、いよいよその倍以上の一か月が経とうというのに、眼の前のルゥが何かをした様子はなかった。
ただの虚言で踊らされたのか。そう怒り少年は少女に言葉をぶつけたのだ。
「あら、こらえ性の無い方」
クスクスと声が上がり、少年の耳をくすぐる。それが更に癪に障った。声を荒げようと息を吸い込んだところで、少女はその出鼻を挫いた。
「ライ様がしたいことはこういうこと?」
はしたないけど失礼しますね?
そう言って紅茶のお菓子として用意されていた焼き菓子を少女は乱雑につかんだ。小さな手で無造作に机の上に積んでいく。一段、二段とどんどん高く積みあがっていくが、何も考えずできた菓子の塔は、ある程度積みあがったところで崩れてしまった。
「ライ様がもっと北の地に行かれたいのならそう致しますが?」
この地ティエリウスより北端の地など、それこそ大罪人達を収容する王国の監獄しか存在しない。
黙り込む少年を無視し今度は丁寧に、ゆっくりと考えながらルゥは積み上げる。先程と同じ高さになったが、重心を考慮してできた塔は崩れる気配はなかった。
「ね?」
少女は微笑んだが少年は納得しない。
「言葉遊びで煙に巻こうとするな」
「んー。困った方ですね」
焚きつけすぎたかしら。
「私は焦らしているのよ。じれじれじれじれ。狐さんが巣穴から顔をひょっこり出してくれるのを。十年前から出てきていないんだもの。粘り強いのはしょうがないわ。それでも顔を出さない選択肢はあり得ないわ。だって飢え死にしちゃうんだから」
「謎かけか」
「謎かけじゃない事実よ」
そういって少女はドレスの胸元の花飾りを外す。少年は一瞬訝しんだが直ぐにぎょっとする。
そこには痛々しい傷跡があった。化粧で隠そうとはしているが、隠しきれないほどの大傷だ。
「お前それは…」
「ここに来て少しした後でね。小姓が暖炉の火の始末をしくじったの。それでこの様……そんな見つめられると恥ずかしいわ」
「……すまん」
「いえいえ」
直ぐに花飾りをつける。少女にとっても、この傷を見せびらかすのは流石に憚られた。まあこの傷が無ければ今の少女はあり得ないわけだが。
「それでその傷が今回の件となんの関係がある」
「大ありよ……そもそもの質問だけど。腐っても大貴族の主の部屋で、火の不始末なんてあると思う?」
「……」
貴族の従者。彼らは特権階級ではないにしても、技能を備えた専門家たちだ。無論全ての従者がそのようなプロフェッショナルな者達ではない。
しかし本宅にあげ、しかも生命にかかわる火を預かる仕事。適当な者に任されるはずがない。
それに例え一人がミスをしたところで、見回りの者がいるはずであり、二重のミスが重なることなど通常考えられなかった。
「つまりその原因が狐で、その狐狩りがこの状況の打破につながると」
「恐らく狐さんは鍵を持っているでしょうから」
「鍵?」
「そう。ここの鍵」
少女は笑みを深める。先程までの無邪気な物ではなく、彼女の深層から出てきた、粘りつく悪意がこびりついた歪なものだ。
「ここは鳥籠だけど……逆に言えば外界の猫から私たち小鳥を守ってくれているの。不便なことと言えば自由に外に出られないということ。飼い主様の御機嫌を伺わないといけないから」
でも、今度は年相応の少女がいたずらを仄めかそうとするように気軽に言いのける。
「もし鳥籠の鍵が手に入って、飼い主を無視して自由に出られるとしたら? そしたらここは監獄ではなくて、外界から私たちを守る城壁にならない?」
「……そしてここを出たとして、何をする気だ」
「それはこれが上手くいってから話しましょう。それで、乗っては頂けますか……?王子様」
「…………」
「あら、ありがとうございます」
無言を肯定として受け取り、テーブルの上に置かれた呼び鈴に手をのばす。手に取るとライによろしくて? と伺う。
何をする気かは理解できなかったが、事態が動くのならばと彼は鷹揚に頷いた。
鈴の音が鳴り響く。
基本的にこのテラスは二人の密談に使われているので、従者はテラスの外で待機をしている。それを呼び出すにはこの呼び鈴を使うのだ。
音を聞きつけて今日少女の供回りを務める一人の侍女がテラスに顔を出す。
入ってきた人物を見ると少年は怪訝に思った。知っている顔だったという話ではなく、その人物の態度が気になったのだ。
震えていた。寒さから来るものではなく、怯えていた。外ではなく内部の要因で侍女は震えていた。
それを本人としては必死に隠しているのだろう。事実普通の人間が見れば冷静に映るだろう。
しかし王都で肥え太った彼の観察眼では彼女の虚勢など意味を成さなかった。
それはこの少女においても同様であろう。
こいつが狐か?
そう目線で彼はルゥに問い詰めるも。しかし彼女はただ微笑み返した。
「突然呼び出して御免なさいマーサ。ちょっと家令を、レウラを呼んで頂戴」
そう言うとマーサは数瞬硬直した後、恭しく承知しましたと一礼をした。ルゥは面白そうにそれを眺めて目を細めた。
ああ、彼女も憐れだ。今の少女ではなかったかつての『少女』にあれだけ虐められてもなお彼女には助けの手は差し伸べられなかった。
物語はスポットを当てた人物たちは救い上げたが。
少しでも外れればかくも無残な様になるとは。一体マーサと『あの女』にどれ程の差があったのか。
ルゥは嘆息すると紅茶で喉を潤した。
「そろそろ冬も明けるわ。狩りでも如何ですか? 王子様」
ティエリウスの使用人たちは年齢層が若い。
あの事件以降、少しでも自立できる能力がある家臣団は他家の保護を求めて出ていってしまった。
現在邸宅にいるのは事件以降雇われた新人中堅層がほぼ全ての割合を占める。
事件以降残った従者たちはティエリウスという家に忠誠を尽くす人物か、老いて出ていくこともできない弱った者か。
それとも彼女のように事情が有る者だけだ。
二十後半に差し掛かり、通常であればとっくに嫁いでいるであろう年齢になっても、未だにマーサという侍女はこの屋敷で奉公をしていた。
ハアハア、と廊下を早歩きで進んでいく。本来であれば彼女を咎める者もいただろうが、すれ違った者たちは全て彼女よりも新参の者達だ。
軽く頭を下げ彼女に道を譲っていく。
長く勤めているとこういった役得もあった。仕事を辞せないことに思うことが無いと言えば嘘になるが、こういった場面では勤めていて良かったと実感する瞬間である。
そして別に辞められない理由も後ろ暗いことがあるわけではない。至極まっとうな理由があった。
それに秘密にしているわけでもない。古参の従者は全員知っていることだ。今から彼女が会おうとしている人物も当然知っている。
マーサは邸宅の中で比較的大きな一室の前にたどり着く。息を整わせ、震える手を押さえつけてノックをする。
「家令。マーサでございます」
『ああ、ご苦労様です。入ってください』
扉を開ける。室内は主人たちの部屋程豪勢ではないが、一使用人が使うにしては破格の部屋だった。簡素ながらも調度品が置かれており、邸宅内でこの人物が相応の地位にいることがうかがい知れた。
部屋の中の人物は机の向こうで、彼女を出迎えるように椅子から立ち上がっていた。
「お疲れ様です。マーサ、どうされましたか」
初老に差し掛かろうという男だった。髪には白髪が混ざり始め、頬には皺が見える。
それでも老いを実感させない出で立ちでもあった。背筋はピンと張り、優雅に立っている。
服装も隙一つなく執事服を着こなしている。そこらの木っ端の貴族よりも余程気品があろう。
少なくともマーサはそう常々感じていた。
「レウラ様。御嬢様、ルゥ様がお呼びです」
「ほう…?」
微笑するかのように彼は目を細める。この男は常に冷静であった。数十年変わらずティエリウスという家に仕え続けてきた。それはあの醜態でルーベという家の屋台骨が軋んだ時でさえ変化は無かった。
黙々と、彼はいつでもティエリウスという家に奉仕をし続けた。
マーサにとって彼は、正直言えば苦手な人間だった。
彼女が若かりし頃、レウラは自身に何の手も差し伸べてはくれなかった。逆に敵対もしていなかったが。
「御嬢様がそのようなことを仰るとは珍しい。いつもはそのような我儘は望まないのですが‥‥」
右手を顎に当て彼は思考する。
家令という立場は暇ではない。なにせ今のティエリウスの領主は幼い少女。彼女の代わりに内政を回しているのだ。気軽に呼び出されるほど軽い立場ではなかった。
それを押しても彼が呼ばれたのだ。なにかあると考えるのは当然であった。
「あの……レウラ様…」
「ああ、マーサ。私は別に貴方を責めているわけではありませんよ。そして当然御嬢様にもね。むしろ私は嬉しいのですよ。あの御嬢様が良く我儘を言ってくださったと」
にっこりと笑って男は彼女を落ち着かせた。そして手元の資料を素早く纏める。
「直ぐに向かいます。御嬢様にはそうお伝えなさい」
「分かりました。それでは……」
「ところで」
ピクリと彼女は動きを止めた。
「ご家族はお元気ですか……?」
「ええ…お陰様で」
突然の話題転換に彼女は意図が読めなかった。しかし続く言葉で彼女は凍り付く。
「それは良かった。しかし大丈夫ですかな? ご家族のかかった病。決して軽くはなかったはず。私もできる限りの色を付けて給金を渡していますが……それでも到底足りないはずですが……」
「…………あの方のご援助を少しずつ切り崩して……なんとかしております…」
「そうですか。なにか困ったことがあればすぐに言ってください。助けになりましょう」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
そう言って彼女は足早に部屋を離れた。
それをレウラはふむ、と考え込んだ後。自身の主のもとに訪れようと準備に入った。