雨の日の甘い記憶
その夜、夢を見た。
まだ小さかった頃の、雨の日の記憶。手を引かれて着いた先は彼の家。
全身びしょ濡れで、玄関の前で立ち尽くしていた私に、バスタオルが投げられる。⋯⋯拭いて良いのか悩む。
「……そこまでドボドボだと、家入れてあげられない」
その一言を受けて、慌てて髪を拭き始める。濡れた服もある程度水を絞ってから、靴を脱いで足の水滴を拭う。
「⋯⋯そんなもんでいいよ。上がっていいよ」
優しさの欠片も感じない言葉遣い、昔の彼は今以上に口下手だった。
「お風呂沸かしといたから、早く入って。僕も入りたいから」
だけど、手際の良さと優しさだけは、今と何も変わらない。
(⋯⋯あったかい)
家に上げてもらって、用意してくれていたお風呂に入る。私が家に来た時にはもうお湯が張られていて、今から思うと、私を道端で見つけた時には、こうなる事を見越して準備していたのだろう。
「⋯⋯あ、あがりました、ありがとう」
「ん」
まぁそんな考えは、子供の頃には全く思いつかなかったけれど。
「服は洗濯機に入れといて。悪いけどまとめて洗うから」
「は、はい!」
不機嫌にも見える彼に、少しだけ怯えていた。余計な事をしないように言われた通りにする。
「あとごめん。母さん仕事だから、夕方までいない」
「あ⋯⋯やっぱりそうなんだ」
大人がいない状況に、少しだけ不安を覚えた。⋯⋯でもそれは、目の前の彼も一緒じゃないだろうか?
「もしかして、ゆうくんも不安なの?」
幼い頃の私はそう問いかけた。彼はいつにも増してぶっきらぼうに見えたけど⋯⋯
「⋯⋯緊張はしてる。母さんみたいには出来ないし」
その理由が、私と少し似通っているような気がして、少し安心したんだ。
夕方までは時間があった。このまま雨が振り続けるようだったら、彼のお母さんが帰ってくるまで待つことになるだろう。それまでは彼と二人きりだ。
「どうしたの?」
洗濯機を前にして首を傾げている彼に声をかける。
「洗濯機の回し方分かんない。分かる?」
「それくらいなら分かるよ」
家の手伝いで、洗濯をしたことはある。少しだけ得意げに、洗剤を入れてボタンを押す。
ただそれだけなのに。
「おお……すげぇ」
大袈裟に驚くその顔が、なんだか嬉しくて。胸の奥が、くすぐったくなったのを覚えている。
彼がお風呂に入っている間に、ドライヤーで髪を乾かす。服は彼の体操服を借りた。細かい所は自分の服が乾くまで考えないようにするけれど、体操服そのものも少し大きくて、落ち着かない。
「⋯⋯⋯!」
そんな変わった空気感も、轟く雷鳴に掻き消される。近くにあったクッションを縋る想いで強く抱きしめる。
「雷が怖いの?」
恐怖で目を瞑っていたら、いつの間にかお風呂から出た彼に声をかけられる。⋯⋯いつから見られていたのか分からない。
「⋯⋯うん、苦手」
怯える事に疲れ切っていた私は、彼の問いに素直に答えるしかなかった。
「そっか、うーん⋯⋯」
彼の考え方は今と変わらない。子供ながらに、何かしようと考えてくれているのが伝わってくる。
「待ってて」
そう一言だけ告げて、キッチンの方に向かっていく。数分も待たずに、ふわりと、甘い香りが漂ってきた。
「なにこれ……」
「まぁ、服乾くまで暇だから」
そう言いながらテキパキと準備をしている。テーブルの上には、クッキーと紅茶。見た目も、匂いも、なんだかお洒落で。漫画の中のお嬢様みたいな体験に、心が浮つく。
「食べても、良いの?」
「⋯⋯どうぞ」
何故か目を合わせてくれないけれど、許可はもらったので、クッキーを手に取る。
「……おいしい!」
一口食べて、目を丸くする。味は凄くシンプルなバタークッキーなんだけど、今まで食べた中で一番美味しかった。
用意してくれた紅茶を飲んでみると、口の中の甘さを全てリセットしてくれる。こんなの、いくらだって食べられる。
「これ、どこのお菓子?」
でもこんなに美味しいのだから、きっと高いんだろう。そう思うと二枚目に手が出せなかった。
「……作った」
だけど、そんな私の予想とは違う答えが返ってきた。
「え?……ゆうくんが?」
思わず聞き返すと、彼はまた視線を逸らした。
「……やっぱ美味しくないよね」
「ううん、美味しいよ!」
慌てて否定する。
「無理しなくていいよ。あんまり食べてないし」
そう言いながら、私の手元を見る。確かに二枚目すら食べてないけど⋯⋯
「無理なんてしてない!凄く美味しいから、高いのかなって遠慮しちゃっただけだよ!」
本当に、美味しかったから遠慮してしまっただけなんだ。それを急いで証明したくて二枚目のクッキーを頬張る。
(⋯⋯やっぱり美味しい)
勢いよく食べても、適度な甘さとバターの香りに笑みがこぼれる。
「凄いよゆうくん!お店出せるよ!」
「それは大袈裟、こんなの誰だって作れるよ⋯⋯」
私の言葉は彼に届いていたのかは分からないけれど、褒められた事に満更でもなさそうだった。
これが、私が初めて彼の手料理を食べた日だ。
「家族以外で、人に出したの初めてだから⋯⋯」
「え、そうなんだ。こんなに美味しいのに」
雷の強さを、それ以上に幸せな気持ちで上書きしてくれた。暗い気持ちの中から、救い出してくれた甘い記憶。
『簡単な物を作って売り出すのは?クッキーとか』
今だから話せるけど、文化祭の時に彼に出した提案は、もう一度あのクッキーを食べたいという、打算的な気持ちもあったりした。
――あの時の甘さを、もう一度味わいたかったから。




