◇11ー1 相対 ③
許可を受けて入室した神官に、立ち上がったシュイエルがやや困惑した様子で足早に近づく。
小声でいくつか言葉を交わすのを耳の端に捉えながら、ヴァルターは壁際にある柱時計へと目を向けた。
シュイエルが用意したであろう時間を考えれば、戻ってくるのが随分と早い。
強硬派の人間が連絡でも飛ばしたのだろうか。
そう考えかけて、だからといって戻ってくる理由にはなるまい、と思い直した。
グシオン・リウェイズにとって、ヴァルター・ヘルエスとは、排除するべき脅威などではない。
敬愛する師匠の弟子の立場を詐称した、単なる邪魔な虫程度の存在である。
知らぬ間に入り込んだ害虫を不愉快に思うことはあるかもしれないが、羽虫のために予定を繰り上げるような人間はいないから、単なる偶然だろう。
「ヘルエス殿。準備を整えて参りますので、少々お待ちいただけますか」
準備、というのは勿論、先にヴァルターが来訪していることへの釈明を含めて、という意味だろう。
詫びの言葉を置いて退室したシュイエルは、二十分後に戻ると、ヴァルターを上階の応接室へと案内した。
◇
ヴァルターにはこれまで、グシオンと直接顔を合わせる機会がなかった。
学園の式典には神官長が参列するのが慣わしだが、ヴァルターが魔術科教員として配属されて以降、グシオンは学園に一度も姿を見せることはなかったためだ。
これは、学園所属の教員への対応としては望ましいものではない。ヴァルターの就任が神殿を通さずオルキデアの一任で決められたものだったとしても、礼を失した振る舞いであった。ヴァルターに――ではなく、学園長であるオルキデアに対する礼儀だ。
ごく一般的な感性を持つ人間であれば、グシオンは人員配置に納得していないと意思表示をした、と捉えるだろう。
ヴァルターへの魔法科教員からの当たりが強いのは、神官長の対応を見てのものでもある。
特に、学科長であるドリエルチェなどは個人感情とは別に、神殿の方針として捉えて明確にヴァルターを排除するつもりでいる。
ともかく、学園で神官長と顔を合わせる機会が得られないのなら、残るは正式な礼拝か、双神祭くらいしかない。
生憎と礼拝に参加するような信仰心は皆無であるし、祭典の時期にはヴァルターはハジャ湖に呼び出されていた。
よって、この度の招待が、グシオン・リウェイズという男を目にした初めての機会である。
「ああ、ヘルエス殿。お会い出来る日を楽しみにしておりました」
四十半ばだそうだが、皺の少ない整った顔立ちは、二十代といっても通用しそうな若々しさがあった。年齢と容貌のそぐわなさすら、彼の持つ神秘性を高めている。
白銀の髪は色味だけを見ればルクシュタイン姉妹と似ているが、彼の場合は銀というよりは白髪に近かった。緋色の瞳と合わせて見るに、色素が薄い体質なのだろう。
容貌も勿論だが、体躯にも恵まれている。案内をしてくれたシュイエルよりは頭二つ分は高い。
その圧倒的な存在感は、彼こそが真の神子であると言われても信じてしまいそうな程だ。
才を持つ魔法使いの殆どは、己の力量を隠すのにも長けているものだが、ヴァルターの瞳は生来、魔素を見抜くのに優れた性質を持つ。
ヴァルターは表面上浮かべた余所行きの当たり障りない笑みを、内心、苦虫を噛むように歪めていた。
対面に腰掛けたこの男は、少なくとも、かつての日に対面したアフィスティアと同等の力を持っている――筈だ。
勘弁してくれよ、と吐き捨てたくなる想いを飲み込んで、代わりの挨拶を吐き出した。
「お招きいただき、感謝申し上げます。歴史ある神殿の大聖堂に私のような者が足を踏み入れるなど、我が身には過ぎる名誉ではありますが」
「ご謙遜を。ヘルエス殿は素晴らしい魔術師だと伺っております。若い才能とは素晴らしい。私のような、魔法研究の一線を退いた人間にはあまりに眩しいものです」
貫くような強い輝きを放つ緋色の瞳が、温和な笑みの形を取って、柔らかく細められている。
胸の内に抱く敵意を、好意のベールで丁寧に覆い隠したような視線だ。
グシオンは真実、眩しいものでも見るようにしてヴァルターを見つめていた。羨望の眼差しだと言われれば信じてしまいそうなほどの、慈愛に満ちた笑みだ。
それが、若さによる無謀を見透かされてのものであるのは間違いがない。
入室時からここまで、ヴァルターの背にはずっと、嫌な汗が伝っていた。腕に抱えた魔兎たちも、怯えたように身を寄せ合っている。
三賢者の一番弟子――という立場こそ同じだが、現時点では埋めようのない差があることは明らかだった。
『君には無理だと思うよ』というアフィスティアの言葉が、知らず脳裏に蘇る。
軽やかに突き放す文言の重みを、対面したことによって実感した。してしまった。
ただ、此処で気圧されるままに身を引くのなら、そもそも呼び出しになど応じなかったし、余計な根回しなど考えもしなかった。
レネア・ルクシュタインの人生における障壁がこの男だと言うなら、どんな手を使っても取り除いてやらねばなるまい。彼女の輝かしい未来のために。
「オルキデア様にとっても、貴方のように若く目映い才能は懐かしく愛おしいものなのでしょうね」
心の底から慈しむような声音で告げられた言葉に表情を強張らせたのは、ヴァルターではなく、傍らに立つシュイエルの方だった。
敬愛する長が穏やかな物言いの奥に押し込めている、澱のような感情を感じ取ったのかもしれない。
ヴァルターは予測する。シュイエルは、グシオンが師であるオルキデア・ノーツ・パスクアルに関する事柄について、並々ならぬ執着を抱いていると理解している。
そこに、純粋な敬慕の念以外のものがあることも、汲み取っているに違いない。だからこそ、ヴァルターと個人的な接触を図ろうとしたのだ。
調べた過去を情報として知ってはいても、二人の間にどんな感情のやり取りがあったのかまでは、ヴァルターには計り知れない。だが、そこまでずれた推測ではないだろう。
「それ故に、残念でなりません。貴方ほどの才能を持つ存在が、自らの魔導研究に当てるべき時間を無為に過ごすなど、許しがたい」
先程よりも遥かに落ち着きなく組み合わされたシュイエルの指先を横目にしていたヴァルターは、続けて紡がれた言葉に、分かりやすく片眉を上げた。
「無為——ですか?」
「時間とは有限です。ヘルエス殿は俗世には関心の薄い方とお見受けしますが、貴方ほどの才を持つ方が、成果の見込めぬ慈善事業に時間を費やすなど、もはや国家規模の損失と言っても良いでしょう。
魔術師である以上、限られた場でしか活躍を許されない事情は理解しています。しかし、我々にお任せいただければ、必ずやヘルエス殿が真に評価される場を得られることをお約束しましょう」
にこやかに語られる文言は、要するに、『見込みのない生徒など見捨ててさっさと学園など辞してしまえ』という話であった。
なるほど。
そういう方向で排除しに来たのか、とヴァルターは納得する。
グシオンにとっては、ヴァルターは敬愛する賢者オルキデアにまとわりつく羽虫でしかない。
これ以上不愉快な噂が立つ前に、さっさと学園から去って神殿に下れ、と言いたいのだろう。見込みのない生徒――つまりは神子であるレネアにも見切りをつけろ、とまで足して。
実際、魔術師にも魔法使いにも、未熟な生徒に物を教えるなど無駄な行いだと切り捨てて、自らの研鑽にのみ時間を使う者は多い。
なんだったら、ヴァルターの師匠であるアフィスティアがその筆頭である。ヴァルターとて、自身もまたその列に並ぶ者だという自覚はあった。
けれども。少なくとも、今は違う。
ヴァルターはあくまでもにこやかに、敬意すら含むように見える笑みで答えた。
「神官長様ほどの方にそのような評価をいただけるのは光栄ですが、生憎と自分は怠惰な性分でして。自由を得たところで自ら研鑽を積む勤勉さも持ち合わせておりませんし、オルキデア様に教師という役割を与えていただいたことに感謝するばかりです」
オルキデアの名を強調した物言いで言葉を返せば、穏やかな笑みを浮かべるグシオンの後ろに控えるシュイエルが、何かを堪えるように静かに目を閉じた。
刺激しないでほしい、と思っているのがありありと分かる顔である。
神子であるレネアが魔術科目を履修する説得をしなければならないのだから、機嫌を損ねるような真似をしてほしくはないのだろう。その思いは理解している。
だが、ヴァルターは生来、あまり気の長い方ではないのだ。
『出来損ないの神子はさっさと見捨てろ』と言われたも同然の物言いをされて、我慢が出来るほど大人でもない。
そもそも彼女は――レネア・ルクシュタインは断じて、見込みのない生徒などではないのだ。
「当初はあまりにも重責ある役目に尻込みしてしまいましたが、直々に誘いをかけていただいたことで覚悟も決まりました。まだ未熟な私をこれ程までに評価していただいているのですから、是非ともその期待に応えねば、と。
それに、まさかオルキデア様ほどの方に頭を下げさせてしまったというのに役目も果たさず己の探究心にばかり従うというのも……非常に心苦しいものがあります」
ヴァルターを学園に誘ったのはアフィスティアであるが、学園長室でオルキデアに頭を下げられたのも事実である。
前半に関しては意図して名前を伏せただけなので、嘘は言っていない。結果として、あのオルキデアが頭を下げてまで頼み込んだ、と捉えられる文言になったとしても。
眉を下げ、出来る限りの遠慮深い態度で告げてみせたヴァルターに、グシオンは穏やかな微笑みを返したまま、振り返ることもなくシュイエルに呼びかけた。
「シュイエル。少し席を外してくれるか」
「は。で、ですが……」
「何、すぐに済む」
それは一体、どういう意味の『済む』だろうか——という顔を隠しきれないまま、シュイエルは恐る恐る、といった調子で退室した。
まさか彼も、先刻冷静に語り合っていたヴァルターが、こんなにも分かりやすく挑発的な態度を取るとは思っていなかったのだろう。顔に浮かんだ困惑は隠しきれていなかった。
ヴァルターとしては、「俺だって、ここまで真正面から神経を逆撫でされるとは思ってませんでしたよ」と返してやりたい思いでいっぱいである。
グシオン・リウェイズという男の評判には神がかり的なカリスマ性が伴っている。神子として直接関わりのあるリディアによれば、まさにグシオンこそが聖霊の寵愛を受けし存在だと信じる信徒も多いという。
周囲の者を意のままに操る、才覚に溢れた人間。そんな男が、いくら狂信的に敬愛する師匠の弟子を騙られたとして、十六の若造を相手にこうも心を乱れさせるなど有り得ない。
賢者オルキデアの死が、彼の精神に取り返しのつかない瑕を負わせたのだ。
アフィスティアも言っていた。最愛の師を失って、おかしくならない方がおかしいのだと。
そもそもの〝死〟を与えたのが当のグシオンであることすら含めて、彼は既に、著しく正気を欠いているのだ。
才能を無為にしたのは貴方の方では? という乾いた笑いを、ヴァルターは心中のみで浮かべるに留めた。
無論、もしも全てをぶち壊して構わないのならば、間違いなく口にしていたが。
「ヘルエス殿。無礼を承知で申し上げますが、私は貴方が王立魔法学園魔術科教員として十分な資質を兼ね備えているとは考えておりません」
二人きりになった室内で、緋色の瞳がヴァルターを真っ直ぐに見つめる。
「それは、私の師であるオルキデア様の御意思も同じくです。貴方を採用したのは我が師ではなく、別の人間の意思が介在している」
「推薦人ということであれば、否定はしません。私は、採用のご判断は学園長自身のものだと認識していますが」
ヴァルターの採用に強欲の賢者アフィスティアが関わっているのは、既に悟られていることだろう。
グシオンはオルキデアの一番弟子である。アフィスティアとオルキデアの間に続く交流を知らぬ筈はない。そもそも、その交流を絶った存在こそがグシオンなのだから。
だからこそ、推薦——などと呼ぶに相応しい振る舞いではないが——したアフィスティアの存在は誤魔化すことなく答えたヴァルターに、しかし、グシオンは異なる一点へと反応を見せた。
「判断」
嘲笑うかのような、冷えた響きを持つ呟きには、ヴァルターよりも先に、使い魔たちの方が反応した。
本能的に部屋の隅にまで下がろうという素振りを見せかけた三匹は、それでも主人を守るべく、震えるその身を、より強くヴァルターへと寄せた。
「判断——と申しましたか。あの方が、判断を下したと。正しく、〝調和の賢者〟としての意思をもって、貴方という才能を学園で使うことを良しとした——と?」
項に薄く掻いた汗を拭うかのように、茶兎がその身をひしと寄せている。
ソファに浅く腰掛けたヴァルターの背は、変わらず伸びたままだ。礼節を重んじる招待客としての姿勢を保ったまま微動だにしていない。
ただ、それが余裕から来るものではないことは、ヴァルター自身が何より理解していた。
押しつぶされそうな魔素の圧を前に、全身で警戒体勢に入っている。
不用意に動くような愚かな真似こそしないが、何かあればすぐにでも三匹を連れて此処を離れるつもりだ。
息を詰めるヴァルターは、頭の片隅で、以前に聞いた覚えのある王都の逸話を思い出していた。
神殿の本拠地である大聖堂は現在、王城に次いで大きな建物である。
元は聖堂の方が建造物として規模が上だったのだが、グシオンが神官長に就任するとなった際に、王城を増築したそうだ。
国内の勢力図を示そうとするような改築だった、と聞いている。
アシェット国の王族には、人魔大戦の際に最も多く魔族を打ち倒した魔法使いの血が入っている。
王族、神殿共に魔法第一主義であることに変わりはないが、聖霊の寵愛と加護に重きを置く水の国とは異なり、ここ二百年の王家は、魔法が持つ力そのものの価値を重視している節があった。
つまり、グシオン・リウェイズという稀代の天才が、宮廷魔導士団でも王国騎士団でもなく神殿についたことは、宮廷からは王族の権威に関わる問題だと見做されたのだ。
次代の賢者として名高いグシオンの存在は、国外への威信を示す好材料ではあるが、国内では王家の威光を奪われかねない脅威でもある。
更に言えば、王宮すらも今代の神子の扱いに関わろうとしないのは、彼女の不調を神殿の影響力を抑える枷にしたいがためでもある。
何処をとっても、この男——グシオン・リウェイズは、レネアが掴むべき未来のためには邪魔となる存在だった。なんと厄介な。
緋色の瞳が、真っ直ぐに此方を見つめている。
内側の激情とは裏腹に、何の温度も感じさせない無機質な煌めきだ。
グシオンが何に憤りを抱いたのか、ヴァルターは正しく認識していた。
賢者オルキデアは現在、禁忌を犯し動く死骸と化している。明言こそしないものの、それはこの場の共通認識である。
敬愛する師の紛い物に過ぎない存在が下した判断を、オルキデア自身のものだとは思うな――という怒りだ。
ヴァルターは静かに笑みを浮かべたまま、対面の男が更に言葉を重ねるより早く、口を開いた。
「二年前でしたか。学園長直々に、レネア・ルクシュタインさんの転科の話が出たと聞いています」
グシオンは答えなかった。
ただ、ほんの僅かに首を傾けただけだ。
ヴァルターは続ける。
「学園長のご判断によって、ルクシュタインさんには魔術師としての教育が必要であると見なされたそうですね。ただ、人員が揃っていなかったとのことで、当時は見送りになったとも聞いています。
その人員補強のために呼ばれたのが私であるならば、学園長の御意思の下選ばれた教員の一人であるのは確かな筈です」
グシオンがどう憤りを覚えようと、彼女がその紛い物になるに至った切っ掛けそのものこそが、オルキデアがグシオンに示した確固たる意思である。
レネア・ルクシュタインの転科は、生前のオルキデアによって提案されたものだ。
そのために魔術教員の確保が必要だったとも聞いている。
ならばヴァルターが魔術科教員として学園にいることは、紛れもなく賢者オルキデアの判断であると言い切れる。
グシオンが認めず、洗脳にまでかけて捻じ曲げようとした、オルキデア自身の意思だ。どれほどグシオンが不愉快に思おうと、揺らぎようのない事実である。
ただ、それを突きつけてやるために選んだ話題、という訳ではなかった。今のヴァルターに必要なのは、時間だ。
レネア・ルクシュタインが聖霊シルフにとって『不調を抱えた肉体を捨てるべき』などと見放されている現状を、少しでも変える時間が必要なのだ。
もしもレネアが魔術によって才能を開花し、自身の魔素と向き合えるようになったなら、シルフは決して彼女の死を許しはしないだろう。それはそのまま、レネアの死を望むグシオンの策を潰す手立てになる。
ヴァルターは努めて理性を総動員し、困惑した表情を浮かべると、一転して声色をやや弱いものへと変えた。
「しかし、そうした経緯と年齢による物珍しさ故でしょうか。少々不本意な噂が回ってしまいまして……」
「と、言いますと?」
「私が賢者オルキデアの弟子ではないか、という憶測が真実として語られ始めているのです。神官長様であればご存じかと思いますが、私の師は到底弟子を取るような種別の人間とは思われていませんから、候補にはとても挙がらず」
ヴァルターとしても、何も本当にオルキデアの弟子として扱われることを望んでいる訳ではない。どんな手を打とうとどうせ無駄だと分かっている中で、一番グシオンの神経を逆撫でできるものを選んだだけだ。
どうやら想定よりも効き過ぎてしまったが、レネアに公的に魔術を教える手段を得るのが目的である。
「ただ、学園長としては、魔術科教員の私が神子様と関わるのには都合のよい状況だともお考えのようで、静観なさっているのです。私としては、一度神殿の意向を伺いたいとは思っていたのですが、何分、魔術師の身では難しく」
こちらとしても困っている、という意図を込めて、少しの苦笑を混ぜて言葉を紡ぐ。
学園を去るよう持ちかけられこそしたものの、結局のところ、価値基準がとうに崩れているグシオンにとっては、『オルキデアの弟子ではない』と明言できればそれでよいのだ。
そして、ヴァルターにとしては、レネアに魔術を学ばせる機会を得られればそれでいい。
逆に言えば、その機会を得られないのだとすれば、どんな手を使ってでもグシオンにとって我慢のならない状況を継続してやる、というヴァルターの意思も、彼には伝わったことだろう。
ヴァルター・ヘルエスという人間が『挑発すれば簡単に乗ってくる気の短いガキ』であることは、この度の会話だけでも明らかだからだ。
ヴァルターが浮かべる苦笑には、もちろん、自嘲も存分に含まれていた。
一拍置いたのち、グシオンはゆったりとした仕草で頷いてみせた。
「そうですね……私自身、当時の学園にはレネア様のような特殊な体質の神子様をお任せすることは到底出来ないと考えておりました。ですが、今の学園にはヘルエス殿がおられます。独学で上り詰めた希代の天才による導きがあれば、神殿としても希望を抱くこともあるでしょう。
私としては、神子であるレネア様に現実の厳しさをお伝えするのは非常に心苦しいところではありますが。これもまた、天命ということやもしれませんね」
殊更に柔らかい声音で響いたそれが、侮蔑であることは明らかだった。
ヴァルターが立ち上がりかけた、その時。
不格好な――言ってしまえば、震える手で叩かれたのだろうと明確に分かるノックの音が響いた。
「申し訳ありません、神官長様。大陸協会へ提出する書類について、確認したい事項があるそうで……」
入室の許可を得るより早く、シュイエルは扉を開けた。礼儀を無視した行いではあるが、この短時間でグシオンの魔素がどれほど揺らいだか感じ取っていたのだろう彼にとって、これ以上の静観は不可能だったに違いない。
口にした用件が急を要するものではないことからも、彼の意図は明らかだった。
もはや血の気の失せた白い顔で佇むシュイエルに、グシオンは浮かべ慣れた柔和な笑みへと変えた。
「ああ、少し話過ぎてしまったようですね。ヘルエス殿、正面玄関までお送りしましょう」
「いえ、お構いなく」
見送りも何も、許されるのであればすぐさま此処を去りたい気分だった。
そっけなさを隠しきれずに返してしまったヴァルターに、グシオンは唇の端を持ち上げるだけの笑みを見せた。
「ご足労いただいた上に余計な手間までかけさせてしまい申し訳ない。シュイエルは気のつく優秀な部下ですが、色々と気を回しすぎるきらいがあるのです」
去り際、グシオンは心からの労いを込めるように口にした。
ヴァルターがそれに笑みを返せたのは、単なる意地である。何を仕出かすか分からない短慮な子供、と思わせて牽制するのはよくとも、本気でそうと思われるのは我慢がならない。実際のところはそうであったとしても、だ。
***
『非力な人の子である我々には、この流れを防ぎようもないんじゃないかな』
顔を合わせた夏の日、アフィスティアはそう言った。
神子の死そのものが聖霊にとっては望ましいものであり、グシオンの企みを止める術などないのではないか、と。
それは確かだろう。少なくとも穏便に止める方法などないことは、顔を合わせただけでも十分に理解できた。
あんな目をした男を止めたいのならば、それこそ命を絶つ他ない。
そして。
グシオン・リウェイズは現在、三賢者を除いて世界で最も優れた魔法使いである。
「……やってられねえよな、全く」
それでもまだ、やるだけやろう、というつもりはある。
そびえ立つ大聖堂を一度だけ振り返り、ヴァルターは心からのぼやきを吐き捨てた。
(あとで直すかもしれない)




