●プロローグ 失せ物
見た目はとても綺麗な、埃一つないものを掃除する。それは何かの儀式と似ているかもしれない。
手作りとは思えぬほど精確に編み込まれた竹ひご製のトレー。それを、食品用アルコールを染みこませたペーパーで丁寧に拭き取っていく。
トレーの真ん中に鎮座するのは、ふっくらと焼き上がったパン。
つぶつぶの芥子の実が散りばめられた艶やかなあんパン、
黄金のハチミツ海に高らかに浮かぶハニートースト、
今にもこぼれ落ちそうなプルプルでみずみずしい乳白色のチーズケーキ、
粉雪のようなシュガーパウダーを、惜しまずふんだんにまぶしたメロンパン、
芳醇なバターの香りが漂う、しっとりとしたバターロール、
シックでビターな装いの貴婦人、黒ガトーショコラ、
カチカチに焼けた長い長いフランスパン。
それらの並んだパンを木製トングで傷つけないよう、私はそっとつかみながら順に移し替えていく。パンには様々な顔があるけれど、こちらを見つめていながら、どれも一様に沈黙していた。私も黙々と作業を続ける。棚の半分を終えたところで、厨房から店長がやってきた。
「おはようございます、店長」
「おはよう、陽菜ちゃん。今日くらい休んだっていいんだよ。葬儀が明けたばかりだろう」
店長がふだん見せない神妙な顔になる。気遣わせてしまったようだ。
「いえ、それは家のことですし」
私は努めて軽く微笑む。
バイトでも何でもいい、今はなるべく忙しくしていたかった。何もしていないと、気分が感情の嵐に巻き込まれて、ふさぎ込んでしまいそうだったから。
「そう。無理はしなくていいからね。じゃ、これ頼むよ」
「はい」
トレーに載せられた蒸しパンが、ゆらめく白い湯気を上げている。愛想良く振りまかれた甘い匂いに、燦々と太陽の光を浴びたブドウの香りが混じって漂う。
「わぁ、いい匂い! どうして焼きたてのパンってこんなにおいしそうなんだろう」
立ち上る香りがそれだけでパッと人の心を幸せにしてくれる。本当に不思議だ。
「はは、そりゃ新鮮が一番だからね。食べ物は古くなれば味も栄養も落ちてしまう。人間の嗅覚や味覚はそういうのに敏感にできているんだよ。数千年前、メソポタミアの時代から人間ってヤツはパンをずーっと食って生きているんだから。雨の日も風の日も」
「ふふ、そうですね」
パンに並々ならぬこだわりを見せる店長のうんちくに、私は微笑んだ。
「うちは添加剤や化学調味料は一切、使ってないからね。それに」
「それに?」
「何と言っても、僕のあったかい、まごころがたっぷりと入ってるからさ」
「なるほどぉ、店長、言いますねえ」
「いやいや、本当の話だよ。作り手の思いやりと研鑽があってこそ、良い品物ができる。妥協しないから、おいしいんだ」
「ええ、そうでしょうね」
そこは本心で同意できた。うん、私も何かに打ち込んでみよう。いつまでも悲しんで落ち込んでいたって、何にもならないのだ。前に進もう。
ちょうど新しいお客さんが店内に入ってきたところだった。二人組で、おばあさんと孫だろうか。
ここは自宅近くのショッピングモール内にある小さなパン屋さん。近所でも「この街でパンを買うなら『ベーカーストリート221番地』、あそこで間違いない!」と評判。常連客も多い店だ。私のバイト先でもある。
「いらっしゃいませ。こちら、焼きたてとなっております」
私は蒸しパンを載せたトレーを二人に見せながら言う。
「ええ、いい香りだわ。ユウ君、どれが食べたい?」
上品に微笑んだ白髪のおばあさんが、少年に優しく問う。
「うーん」
迷っている彼に私はオススメを案内する。
「甘いのがいいなら、こっちのチョコロールが甘いよ? こっちはボリュームたっぷりのホットドッグ」
どちらも、子どもに大人気の定番商品。だが、男の子は首を横に振った。
「あんまり甘いのはいらない」
「そう。じゃ、こっちのアップルパイなんてどうかな? 甘さは抑えてあるわよ」
「ふうん」
男の子はあまり興味を示さない。リンゴが好きではないのかも。
「じゃ、どれでも好きなのを選んでね。ごゆっくりどうぞ」
すぐに決めなくたっていいのだ。選ぶのもまたパンの楽しみ方だもの。
私は別の棚に向かうと、商品の並びを整えにかかる。
「あら、パン屋に大福なんて珍しいわねぇ」
「それは店長のお気に入りなんですよ。甘いものに目が無くて」
パン屋なのに餅米から作り、パン生地をまったく使っていないこだわりぶりだ。
「いらっしゃいませ」
次にやってきた客は二十歳後半のスーツ姿の女性だった。近くのオフィス街から昼食用にと足を運んできたのだろう。
「ちょっとすみません。店員さん、このロール、中身はなんですか?」
「はい、そちらはイチゴとブラックベリーのジャムになっています。当店で手作りしたジャムで――」
と、私は説明していたが、気になる光景が目の片隅に入ってきた。
先ほどの男の子が、おばあさんの後ろからそっと近づき、手提げバッグから財布を気付かれないよう抜き取ると、パンが並ぶ棚の下に置いたのだ。
財布を盗んだ? いったいなぜ?
お金が欲しいなら、孫と祖母のようだから、普通に頼めばここの商品なら何だって買ってくれそうなのに。しかも裕福そうな身なりのおばあさんだ。
だいたい、財布を隠してしまっては、どれも買えないではないか。
これは何か理由がある。
私はすぐに声をかけたりせず、気付いていないフリをしてレジに戻った。しばらくしておばあさんが男の子を連れてレジにパンのトレーを持ってくる。
「じゃ、これをお願いしますね」
「はい」
レジを打ちながら、気付かれないよう男の子を観察する。
彼は面白くなさそうな顔で、自分でも悪いことをしていると思っている様子だ。ソワソワと落ち着きがない。
「全部で千七百円になります」
「はい。あら?」
手提げバッグに手を入れたおばあさんが、財布がないのに気付いた。
男の子はそっぽを向いて、知らぬ存ぜぬを貫くつもりのようだ。
私は仕方なく、おばあさんに助け船を出すことにした。
「あ、そちらのお財布、落とされてしまったのでは?」
「ああ、こんな所に。良かったわ、一時はどうなるかと、心配しちゃった」
「ええ。良かったですね、見つかって」
「どうもありがとう。じゃ、ユウ君、帰りましょうか」
「僕、トイレに行きたい」
「そう。じゃあ、おばあちゃんはあそこのベンチで待ってるわね」
「うん」
チャンスだ。
「店長、ちょっと休憩してきますので、レジお願いしまーす」
「うん? おう、わかった」
エプロンを外し、男の子のあとを追い、トイレから出てくるのを待つ。
すぐには出てこなかったが、ため息を付いて出てくる彼を捕まえることができた。
「ねえ、君」
「あっ。さっきの……」
「ちょっとお姉さんは聞きたいことがあるの。さっき、どうしておばあさんの財布を隠したの?」
はっとした様子の男の子は、みるみる落ち着きを無くしてしまった。
「そ、それは……」
「大丈夫だよ、別に警察に言ったりはしないから。盗まれたってわけでもないし。でも、お金は大切なものなの。いたずらにしてはちょっとタチが悪いわね。あなただって自分の大切なものを無くしたら、焦っちゃうでしょう?」
私はそう言いながら、自分の首にしている銀のネックレスの感触を服の上から触って確かめた。
『これはね、うちに代々伝わるお守りなの。だから、あなたが結婚するときにあげるわね、陽奈』
母はそう言っていたけれど、私はまだ未婚である。
何の効果もないお守りだった。――それでも、母が大切にしていたものなのだ。
「だから、何か理由があるんだよね?」
私は優しく聞いた。
もし、ここで最初から叱る態度で接すれば、彼は信頼関係もない私には心を閉ざし、本当の理由を教えてはくれないだろう。
子供はまだ人生経験が浅いため、適切な手段を理解していないことが多い。犯罪心理学では目的を達せられない状態を『アノミー』と呼び、緊張状態に追い詰められて犯罪に走ることがあると説明している。先週、大学の心理学で習ったばかりだ。
「ごめんなさい……。でも、ちゃんとあとで言うつもりだったし、時間稼ぎしたかっただけなんだ」
「時間稼ぎ? なぜ?」
「おばあちゃん、明日から施設に行くんだって」
施設、老人ホームか。
「ああ……そっか、おばあちゃんと別れたくなかったんだね」
「うん」
「でも、おばあちゃんはいなくなっちゃうわけじゃないから、学校がお休みの日に施設に面会に行けば、いつでも会えるよ」
「ホント?」
「もちろん。ああでも、予約がいるかもしれないわね。その辺はおばあちゃんによく聞いてみて」
「うん、そうする。ありがとう、お姉ちゃん」
「いえいえ、どういたしまして」
そう、彼はいつだって会いに行けるのだ。私とは違う。
無事解決して良かったという思いと、どこか沈んでしまった気持ちを引きずりながら私は店に戻り、目の前の作業に集中した。パンを並べてお客さんに売る。レジを打つ。パンを並べて、レジを打つ。
「陽奈ちゃん、時間が来たから、もう先に上がって良いよ」
「ああ、もうこんな時間。じゃ、お先に失礼します」
「はい、お疲れさん」
バイトを終え、店を出る。
さて、今日の午後は何をしようか――そう思ったけれど、スケジュール帳に予定は何も無い。
私はため息を付いて空を見上げた。
街並みは春を迎えてすっかり陽気な色に変わっているけれど、空に飛ぶ鳥はたった一羽だけ。草色の羽毛からしてメジロだろうか。あのメジロもきっと私のように仲間はずれになってしまったのだろう。
じっと鳥を眺めていると、唐突にクラシックの曲が流れ出した。
チャイコフスキーの『くるみ割り人形』。私のスマホの着信音だ。友人には「ウケ狙いなの?」と言われたこともあるが、私はただ純粋にクラシックが好きなだけである。明るく元気の出る景気の良い曲だ。
だけど、今は、あまり電話に出たくない。
しばらく鳴ったままにしていたけれど、液晶画面に表示されていた大河原花梨は諦めない様子。
「もしもし」
「ああ! ようやくつながった! 見つけたよ! 陽奈。ハチ公前で待ってるから、今すぐ来なさい。今すぐだよ!」
やや大袈裟な抑揚をつけてまくし立てる彼女はいつもこんな感じだ。人生が楽しくて仕方がないようで、そんな様子の彼女に私は惹きつけられてしまったのだろう。去年、大学で知り合った彼女とは、映画やショッピングのお誘いに何度か付き合い、いつの間にか友人という間柄になっていた。
「見つけたって、何を? 私、今日は出かける気分じゃないんだけど……」
2026/06/07 ちょい修正。




