1-8 『中身』
紙の上部には『契約書』と書かれていて、その下に名前などを書くスペースがあった。ここで働くために必要な書類、ってことになるのかな。
僕は辺りを見回して、机がないことを確認すると、床にしゃがんで名前や年齢などを書きこんだ。
僕はその中にあった、『家族構成』という欄で、一瞬手を止めた。……まぁ、いいや。
僕は妹の名前を書かなかった。
……書けなかった。
僕みたいな、兄として最悪な奴に、妹の名前を呼ぶことも、書くことさえも許されてはいけないんだ。
妹はそんなことはないって言うと思うけど、それじゃあ僕の気が済まない。だって、僕は妹にひどいことばかりしてきたし、それを謝ることもできないまま、妹を遠くへ旅立たせてしまった。
守れなかった。
一番近くで、一番そばにいてくれた彼女を、僕は守れなかったんだ。
妹に隠してきた感情を打ち明かす間もなく、妹は殺されたんだ。
神を許せない。
でも、それ以上に、僕は僕自身を許せないんだ。
僕が妹の名前を呼ぶのも、紙に書くのも、神を殺してからだ。それまで、僕は嘘でも家族の中に妹がいるという事実を隠し通すんだ。
師匠には話したけど、これ以上は誰にも話さないでおこう。
妹のことなんて……僕はあまり思い出したくないのかもしれない。
もしそうだとしたら、とんだ道化師だな。
僕は自虐的に笑って、契約書を書き上げた。
契約書を書き終えるころ、ふいに思い出したかのように、そうだ、とエーレンティカさんが話を切り出した。
「俺以外にも、もう一人いるからな。今日は野暮用で来られねぇらしいが、明日には来るだろう。何かあればそいつに聞け」
自分が訊かれても面倒だから教えたくないだけなのだろうが、僕は別に気にしないようにした。
師匠以上に、この人は適当……いや、ただ面倒なだけだろうけど、とにかく、この人に何か教えてもらおうとしないほうがいいだろう。こうして話をしている態度だけでも、彼がどんな性格なのか、代替分かるしね。
僕ははいと頷くと、書き上げた契約書をエーレンティカさんに渡した。契約書を受け取るには受け取ったのだが、彼はそれを一瞥もくれることなく机に放った。それで大丈夫? 嘘とか書いてもばれないよね、それ。
「よし。じゃあ、お前も今日からここで使いふる……働くわけだが、今日はやることねぇし、面倒だからいいや。帰って良し」
今、使い古されるって言おうとしなかった?
いや……エーレンティカさんに使い古されることくらい、ある程度予想できたけど。まともに仕事をくれるわけないじゃないか!
今日この時点で僕の格付けが確定。なんてこった!
この人にあったことが僕の運の尽きかな……まあ、働いてみたら意外と自分に合っていたりするかもしれない。師匠もそう言っていたし。信用できなーい!
「今日は帰っていいって……そう言われても、まだここでどんな仕事するか聞いていないんですけど……」
「はぁ!? パズリィに聞かなかったのか!? おい、どうなってる? おい、パズリィ! おい! ――あいつどこ行った!?」
気が付いたときには彼女の姿は煙よりも薄くなって消えていた……比喩だからもちろん嘘だけど。ただ単に僕たちが気づかない間にここから退散しただけである。
影が薄いともいうけど。
気配を消していただけなんだろうけど。
どちらにせよ、僕は師匠の存在に気づけないからね。昨日みたいに、彼女の殺気をもろに受けない限りは。
僕は大したことを大した人たちに教えてもらえそうになく、このままこの古小屋で働くことになりそうだ。
大人として失格!
でも実力はある!
それほど面倒な人はいないと思うな! なんで僕の周りはそんな人ばかりなんだぁぁぁっ!?
それに関しては、明日にかけるしかない!
明日会うだろう、まとも(希望)な人に全部教えてもらおう。この仕事のことはもちろん、この街のことも聞いてみよう。
出会った人みんながこう面倒くさがりだと、不安になるけれど、僕には道が残されていなかった。
誇張しすぎだと思うけど。
誇張しても、その通りなんだけどね。
結局、僕はエーレンティカさんと顔合わせをして契約書を書いただけで、古小屋を追い出された。
明日からここで働くとなると、憂鬱に押しつぶされてしまいそうだ。うぅ、働きたくないよぉ。
「はぁ……まあ、愚痴を言っても仕方ないか」
全ては神を殺すため……僕の目的を完遂するためなんだ。贅沢は言えない。
全ての不満の埋め合わせは、師匠から教わる剣術っていうことになるんだろう。
彼女はきっと、強い。
強い人に剣を教えてもらえるなら、それは不満を埋めてもお釣りがくる。
絶対に強くなるんだ。
師匠を超える。
そして、いつか神を……。
ぽつりと。
頬に冷たいものが当たって、僕は天を仰いだ。
いつの間にやら雲が厚くなって、溢れだした滴がポツリポツリと落ちてきた。
雨が降ってきた。
「うわっ! 早く帰らないと!」
土砂ぶりになる前に、テントの元まで戻ろうと走り出した……けど、間に合わなかった。
静かに降っていた雨は、今や大音響を奏でて、地面を一気に濡らした。この様子だと、当分止みそうにない。
夕立ちならすぐにやむけれど、曇り空は視界の続くかぎり広がっていて、雲の動きも遅かった。
これは夕立ちじゃないだろう。
雨の中帰る気にはなれないけれど、雨宿りできるようなところもなかった。
僕は次々占められていく店のシャッターを恨みつつ、石畳の道を走っていた。街行く人は傘を持っていたり、鞄を頭の上に掲げていたりしていたが、僕にはそんな傘を買うようなお金はないし、鞄だって持っていない。ああ、僕はなんでこんなに貧乏なんだ。
バイトで最初に受け取ったお金で、まずは傘でも買おう。じゃないと、この先も何かしら大変そうだ。もちろん、食料の方を優先させるけどね。
雨の中、走りながら予定を組んでいた時、僕はふと路地裏の先に合ったものに目が留まり、立ち止まった。
建物と建物の狭く暗い路地裏の、人目につかない奥のほうに、一つの段ボールがあった。少し大きめの段ボールだけど、なんの変哲もないただの段ボール。
おお、そうだ。
あれを広げれば傘の代わりにできる!
道行く人は不審そうに見てくるだろうけど、今はそんなこと気にしていられない! これ以上濡れるのはゴメンだからね!
貧乏人を許して!
僕は急いで、そのダンボールに近づいた。穴も開いていないし、そこまで汚れているわけでもない。よし、これなら使える……と思っていた僕だけど、拾おうと伸ばした手を、段ボールに触れる寸前で止めた。
「……え?」
段ボールの中で、女の子が眠っていた。
きらきら輝く金色の髪を肩まで伸ばした、華奢な体の少女。雨でぬれた丈の長い緑のスカートとフリルのついた白いシャツが、その小軀にぴたりと張り付いて、彼女の身体を芯から凍えさせていた。
大きな瞳は閉じられていて、心配になったけれど呼吸はしていた。
だけど、浅い。
小刻みに震える身体が、まるで生まれたての小鹿のようで……それが妹を連想させて放っておけなかった。
僕はどうしたものかと考え、とりあえず自分の着ていた上着を脱いで少女にかぶせてあげた。僕の服も濡れてしまっているので、早くなんとかしてあげないと。
「テントにいったほうがいいか……今から師匠のところへ行くよりも近いだろうし」
僕は街から突き出すように生えたマンションを見上げ、そうつぶやいた。この街で一番高い建物なので、どこから見てもその姿を確認することができた。
僕は少女を抱えて、テントまで走りだした。
通行人の人たち、そんな不審そうな視線を向けなくてもいいのでは?
誘拐じゃないから!




