#34 船上にて
航海が進むある夜、甲板の上にて。
「息子は、五次戦争で死んだのです」
マルタイユは細い月を眺めながら、グラスをあおった。
中身は水だ。少し離れた場所にいる宰相の警護をしている建前上、酒は飲めない。
「私は防御結界には自信があります。結界に関しては質の私、速度のあなたでしょう」
俺を指差す。確かに俺のウリは瞬発力だ。
「あらゆる意味で息子を、ずっと守ってやっているつもりだった……。だのに、肝心な時に守れなんだ……」
その瞳に潤いはない。だが、未だに傷を背負っている事が、微細な抑揚のブレに現れていた。
「銃弾1発、たったの1発防ぐだけで、息子は生き延びれたのです。私には造作もない事だ。ただ、隣に立ってやれなかったというだけで……」
俺とエンリルは静かにマルタイユの話を聞いていた。エンリルは水の代わりにオレンジジュースを啜っている。
「心中、お察しします」
マルタイユは礼を呟いた。
「あなたは今は独身でしょう?親族とも距離を置かれているそうですね。なら、今守るべきものは国ぐらいですか」
俺はゆっくりと頷いた。
そうだ。俺に守るべきものなんてない。守れるものは、全部守るんだ。
「人間、生きていれば守りたいものの1つや2つできましょう。しかしどんな英雄であれ、豪傑であれ、全てを守る事はできません。巨人になった上で、手の届く範囲の者しか救えないのです。時に大きすぎる指の隙間から、大切な何かを取り落とす事もありましょう」
俺は静かに呟く。
「ならば、どうすれば」
マルタイユは俺の方を見ていない。月を眺めている。殆ど欠けてしまった月を。
「愛する者の隣に立ち続ける事です。いつでも、抱きしめられる距離に」
2度と息子を掴めぬ腕を広げる。
「今や私にできるのは、息子が愛し、育ったこの国を守る事だけです。そのために杖がある」
壮年魔術師の頬には、歳に似合わない量の皺が刻まれていた。白髪も多い。
悲しみと疲労の跡である。
「強すぎるあなたに老兵が言える事など、これぐらいです」
◇
マルタイユの息子の話を聞いた夜よりも更に欠けてしまった月の下で、俺はベルシラックと相対していた。
航海が始まって幾日かした今日、突然ベルシラックが仮面を脱ぐと言い出したのだ。
「ご迷惑をおかけしましたから」
そう主張している。
月明かり照らす甲板の上で、ベルシラックはゆっくりと仮面を脱いだ。
顔をすっぽり覆っていた布が、流れる様に剥がれる。
『醜いでしょう?』
月のせいでハッキリと見える。
静かに微笑む顔は火傷や切り傷だらけで、縫い目の跡がいくつもあった。
マスクの中に収納されていた金髪は、真っすぐに下へ向けて垂れている。
そしてそれは、確実に女の顔だ。
「醜いだなんて、そんな」
『正直におっしゃるべきだ。疵まみれのこの顔には、子供らも寄り付きません』
俺は真っすぐ彼女の眼を見た。疵のない、綺麗な茶色だ。
「すまない」
『いいのです。仮面を外したのは私ですから』
ベルシラックは仮面を大事そうに撫でた。
『婚約者がいたのです。五次戦争の時、彼を追って私も戦場へ赴きました。結果、このザマです。婚約も破棄されてしまいましたよ』
心の傷を多少時間が埋めたらしく、彼女は僅かに寂しそうにするだけだった。
『身体を動かせるようになるならなんでも構わないと、軍で身体を改造して貰ったのです。今は身体の半分以上が魔導具に代替されました』
ベルシラックは自分の掌を見つめた。
『時々思うんです。半分以上自分じゃないのに、私は本当に私なのか、と。実は人間付き魔導具なのかもしれません』
自嘲の笑いが聞こえる。
『生きているのか死んでいるのか、分からないのです』
俺はその恐ろしさをよく知っている。
五次戦争が終わってより1年、鬱屈した、屍と変わらない日々を送っていたのが想起された。
『故に私に生者は眩しすぎる。どれも失われるには惜しい』
俺の目の前に、かつての恋人をしのぶ少女はいなかった。
『私は、ハッピーエンドが好きなんですよ』
代わりに立っていたのは、全てを守る覚悟を持った戦士だけである。
◇
新月の夜。
純黒の夜の中で、星々が映えている。
「待たせたな」
俺は甲板の端に立ったクリスタにそう話しかけた。
「ええ。すごーく、待ちました」
いたずらっぽく笑うクリスタ。
「なんだ。話さなくちゃいけない事って」
クリスタのすぐ隣に立つ。
真っ暗だったので、すぐそこまで近づいて、深夜だというのに化粧をしている事に気が付いた。
クリスタはしばらくもじもじして、何かよく分からない事を呟いていた。
しかしじきに意を決したらしく、俺の瞳を確かに見つめた。
「覚えてますか?2月18日……クルガル民族戦線が蜂起する前日、兄の家に言った日の事」
ああ。忘れようもない。君のお兄さん、とんでもない事言ったんだぞ。妹を娶ってくれって……
そんな内心はおくびにも出さず、黙って頷く。
「ああ、よかった……もしも忘れてたら、どうしようかと思ってました」
クリスタはつま先を立てて、口元を俺の耳に近づけ、小さく囁いた。
「わたし、あの日の兄とジョフルさんの会話、聞こえてたんです」
俺の全身に戦慄が走る。
「なんで」
「耳がいいんです。それに聴覚を強化魔術で強化して盗み聞きしました。すみません」
クリスタが勢いよく頭を下げる。
クリスタの専門は強化魔術だ。
ニコラスよ。お前は随分迂闊だったぞ。
「それで」
俺は声の震えを押し殺すようにしながら口を開いた。
「それで、他に用事はないのか」
クリスタは確かに俺の瞳を見つめた。少し見上げる様にしている確度に、整った顔立ちが強調される。
「ジョフルさん」
先ほどより、はっきりした輪郭の声だ。
「わたしは、ジョフルさんがいいです」
自分の眉間に皺が寄るのを感じた。
嗚呼、それだけは言って欲しくなかったのに。
そんな事を言われた後で俺は、何を言えばいいんだ。
「やめておけ」
極力落ち着き払って発声する。
「俺じゃ、君を幸せにできない」
心の底からそう思っていた。
俺は汚れてるんだ。
君は、俺の隣に立つには美しすぎる。
君は、俺には眩しすぎる。
「違います」
何が。
そう問おうとしたが、断定の口調に抑え込められる。
「わたしが、ジョフルさんを幸せにするんです」
思考が刺激で麻痺するのを感じた。
何を、言っているんだこの子は。
違う。お前は知っている筈だ。
お前だって、そうだった筈なんだ。
ああ、クリスタ。君は恐ろしいまでに……
「英雄になるんだろう」
そう訊いた。
違う。
彼女はもう既に───
「俺は、君の邪魔だ。君の自己実現に俺はいらないよ」
嘘を吐くなジョフル・ヴィエール。
「いつになれば、認めてくれますか」
クリスタの声は冷静なままだ。
「君が、本物の”英雄”になれば」
そう答えると同時に、俺は踵を返した。
これ以上この話を続けたところで、誰も幸せにならない。
「それじゃ答えになってないですよ」
クリスタの均一な声が背後から投げかけられる。
「ジョフルさんだって、分かってないじゃないですか」




