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四月:お花見



 結論から言えば先輩とお花見は出来なかった。


 今年は妙に暖かい──暑いといってもいい──日が続いて、例年よりも早く桜が開花したのと、強風と雨が続いてあっという間に散ってしまったせいもある。近来まれに見る短さだったんじゃないだろうか。でもひょっとすると例年通りだったとしてもやっぱりダメだったかもしれない。件のドラマのせいで現在先輩の人気は急上昇。一気に忙しくなってしまったのだ。と、興野さんから聞いた。お礼のお菓子を送ったらわざわざ電話をかけてきてくれて、そして先輩の近況も教えてくれたのだ。


 先日やっと観終えたあのドラマ。先輩は主役ではなかった。オイシイ脇役というのか、ヒロインに片思いする影のあるワケあり犯罪者。多重人格でヒロインを愛する人格とヒロインを殺したいほど憎む人格を持つちょっと盛り過ぎなんじゃないの、な、その役を先輩は見事に演じきった。……ヒロインを守るヒーローであるはずの主役がすっかりかすむほどに。主役に演技素人の新人アイドル使ったらそうなるよね。完全に先輩に食われて可哀想なくらいだった。


 さすがだなあ、と思わざるを得ない圧倒的な演技力。さすが高校を中退して選んだ道だけのことはある。といっても最近知ったのだが、先輩はその後資格を取って大学に入りちゃんと卒業したのだそうだ。しかも某有名大学。素晴らしい。


 反して自分は、と考えてどんよりと落ち込む。普段ならこんなこと考えない。比べたって仕方のないものは比べても仕方ない。ただこのところ凡ミスが続いていて、昨日はとどめにやらかした。取引先との話し合いの日程変更のミス。向こうからの申し入れで前倒しになっていたのを担当者に伝え忘れた。いや、向こうからの変更を受けてそれを伝え忘れたのは後輩だ。しかもそのときわたしは外出していて不在だった。だから厳密に言えばわたしのミスではないのかもしれないけど、後輩のミスはそれを管理しているわたしのミスだ。初めて書いた。始末書なんて。今度の査定は最悪だろう。今から気が重い。


 それでも形だけの始末書だけで済んだのは、本日付けで支社から異動してきた課長のおかげだ。そう考えて重たいため息をつく。若くて、独身で、イケメンで、やり手。本社の女性陣はみな色めき立った。すごいなーとそれを暢気に見ていたところへかかってきた取引先からの怒りの電話。わたしの相槌から状況を察したのであろう後輩はがたんと立ち上がって真っ青になっていた。それでわたしもおおよそのことを察する。ここでわたしが聞いていなかったことなんて相手には関係ない。会社の問題なのだから。わたしにできることはただひたすら謝ることだけだった。


 その企画に関わっている人間は最悪なことにどちらも出張していて戻らない。どうする。どうしたらいい。概要だけならわたしも知っているけれどわたしが何をいったところで相手は納得しないだろう。途方に暮れかけたわたしの手から突如受話器が消えた。


 え? とその行き先を見れば、来たばかりのはずの課長がにこやかに対応していた。そうか。この人も例の企画に関わっているのだ。何度かこの人へ資料を送ったことがある。スマートに断りを入れ、追加の検討案を申し入れたうえ鮮やかに日程を来週に変更し、切れたそれをわたしに渡した。そしてちらりと後輩に視線を向ける。


「なにか言うことは」


「え、あの、」


 蛇に睨まれた蛙だ。いきなりすぎて頭が真っ白になっているんだろう。わたしは先に頭を下げた。


「久能課長。申し訳ありません。ありがとうございました。二度とこのようなことがないように……」


「それは当たり前だと思うけど、でも君がそうやって庇うと彼女はまた次も庇ってもらえると思うんじゃないかな」


 確かにそれはそうだ。でもこれはこれまで肝心なところで彼女に厳しく出来なかった自分にも責任がある。わたしが何か言うよりも先に後輩が口を開いた。


「すみません! わたし、だけど忘れたんじゃなくて……」


 この期に及んで何を言おうとしたんだろう。課長は冷ややかな眼差しで彼女を制した。


「言い訳はいいよ。どうして伝えなかったのかには興味がない。君は伝えなかった、それだけだ。それがどういう結果を招くかは考えもしなかったんだろう?」


 今日一番イケメン課長に舞い上がっていた後輩は、震えながら唇を噛んでいる。ここでわたしがこれ以上庇えば余計に火に油を注ぐだけだろう。どうするべきだった? 外出から戻った時何かなかったかどうかは聞いてる。その時点で思い出せなかったのならその後どう聞いても無駄だろう。電話を受けたら必ずメモを残して、も何度も言った。言い過ぎて「子どもじゃないんですからわかってます」って言われたこともある。ああ、フォローのしようもない。


 本人の資質の問題、で切り捨てるのは簡単だけど、それで終わらせていいわけないしね。


「辻堂さん」


「はい」


 自分の名前を何で知ってるんだろう──と思って、そういえばこの人とは何度か資料の件で電話でやり取りをしたことがあったことを思い出す。あれだけで声を覚えていたのか、と少し驚いた。


「変更後の資料出来てればすぐにもらえるかな。まだなら今日中に……」


「出来てます」


「よろしく」


 課長はもう項垂れたままの後輩には一瞥もくれずに席に着く。これ以上失態を重ねるわけにはいかない。わたしにできるのはすぐに課長に資料を渡すことだけだ。半泣きで後輩が席を外すのがわかったけどさすがに今彼女のフォローは優先できない。


 今日は一日その対応に追われることになった。なんとか一段落ついたときには思わず遠い目になっていた。


「直し、終わりました」


 追加の資料を仕上げて渡すと、課長はさすがにどこかホッとした様子で微笑んだ。


「助かったよ。ありがとう」


「いえ、こちらこそ」


 助かったのはこっちの方だ。後日改めて激しく叱責されるのは仕方がないけど、最悪取り返しがつかないことになっていただろうことを考えれば軽傷だ。本当によかった。


「噂通りだったね」


「え? 噂?」


「辻堂さんは優秀なサポートをしてくれるって。いつも送られてくる資料も完璧だったし」


「……恐縮です」


 どこからの噂か知らないけどハードルが上がるからやめてほしい。いや、今日のことで下方修正されただろうか。そんなことを考えつつ課長からその言葉を受けている時に後輩がわたしを睨んでいるのがわかった。どうしてわたしを睨む──、と内心ため息をつく。誰のせいだと思ってる! そんなこと言わないけど、ここはちょっとは理解してくれてもいいんじゃないの。感謝しろとまでは思わないけど。


「多分辻堂さんには今後僕の補佐をお願いすることになると思うけどよろしく」


「……こちらこそ、よろしくお願いします」


 初耳だ。さらに後輩からの負の圧が強くなる。これからますますやりにくくなるかもしれない、とわたしは再び深いため息を飲み込んだのだった。


   *+*


 休みたいな。どこかに行きたい。──これがただの逃避だとはわかっているけど。だって仕事のミスは仕事でしか取り返せない。そんなことはこれまでの経験でもわかってる。世間の人はどうやってここまで凹んだとき持ち直してるんだろう。本? 美味しいもの? 好きな音楽? 趣味? 恋人? 却って疲れそうだと思うのはわたしに恋人がいたことがないからか。


 昨日が金曜日なのは幸いだった。土日で何とか切り替えるしかない。わたしはともかく、週明け後輩はちゃんと来るだろうか。来て、そしてわたしの指導をちゃんと聞いてくれるだろうか。聞く──はずだ。普通の社会人なら。でも彼女は……。


「あー、もう最悪」


 こういう時は無心に何かをするに限る。いつもは本だけどさっきから一ページも進まずにぐるぐると考えても仕方のないことを考えている。ダメだ。何か作ろう。


 冷蔵庫には同じ理由で昨日から仕込んだ角煮がある。あれで角煮丼にするつもりだったけど、餃子も追加しよう。皮はある。やけ食いだ。


 白菜とキャベツとニラとネギをひたすらみじん切りにして塩をして絞る。生姜とニンニクもみじん切りにしてひき肉と刻んだ牛脂と混ぜる。


「ええと、塩こしょう、砂糖、醤油、酒、ガラスープの素、ごま油……」


 それらの調味料と一緒にひたすら捏ねて小さめバットに入れて冷蔵庫で寝かせる。大量に作って冷凍するつもりだ。中華スープとサラダも作ろうかな。なんだか作ってるうちにお腹いっぱいになりそうだけど。


 中華サラダを作り終えた時に携帯が鳴っているのに気づく。画面を見れば会社だった。え、会社? 誰か休日出勤してるの?


「はい、辻堂です」


「休みの日にすみません。久能です」


「え、久能課長? 休日出勤されてるんですか」


「ああ、確認したいことがいくつかあってね。それで、悪いんだけど前の課長の引き継ぎ用ファイルが開かないんだ。辻堂さんパスワード知ってるかな」


「え? あー……パスワード変えたって言ってましたね、一応わたし控えを預かって……」


 机の鍵のかかる引き出しに入れて、鍵はロッカーの中にあって、ロッカーの鍵はここにある。──仕方がない。


「少々お待たせしてしまいますが、よかったらこれからそちらに向かいます」


「いや、でもそれじゃあ」


「いえ、引き継ぎ資料の確認が今日になったのは昨日のせいですよね。申し訳ありません。なので気になさらないでください。すぐ行きます」


「……ありがとう」


 これで昨日の失態が少しでも緩和されるなら安いものだ。サラダを手早く冷蔵庫に入れて支度をする。行って帰って来るだけだけど一応緩めのオフィスカジュアルを選ぶ。バッグを持って部屋を後にした。


   *+*


 会社に着いてカードを通して入る。休日出勤なんて殆どしたことがなかったから新鮮だ。人気のない通路を歩いてそのままロッカールームに行き、机の鍵を掴んですぐに向かった。


「遅くなってすみません」


「いや、全然待ってないよ。どうもありがとう。コーヒーがちょうどできたところだけど、どう?」


 うわ、イケメンだ。スマートだ。にこやかに淹れたてのコーヒーを飲んでいるさまはまるでCMみたいだ。こういう人種は遠くで見ているに限る。ため息を笑顔に変えて会釈を返した。


「ありがとうございます。頂きます」


 さすがに上司の手を煩わせるわけにはいかない。給湯室に入って自分のマグカップにコーヒーを注いだ。美味しい。おっと、堪能している場合ではなかった。机の引き出しを開けて、挟んであった付箋を剥がす。念のため渡しとくねーという言葉とともに預かったそれは一見すると文字だと思えないほど悪筆だ。この人の字はいつも解読に苦労していた。書き直しておけばよかったとこっそり思う。これがわたしの字だと思われたくない。


「お待たせしました。パスワード、こちらです」


 コーヒーを机において、付箋を手渡すと、課長はそれをまじまじと見つめて眉を顰めた。


「おかしいな。合ってる」


「あー、これ二番目のは〝n〟じゃなくて〝r〟なんですけど、どうですか。井坂さん悪筆で」


「……なるほど」


 課長は一つ頷いて席につき、新たにパスワードを入力した。今度は無事に開いたらしい。眉間の皺も開いた。


「ありがとう。助かった。ついでといってはなんだけど週明けに持っていく資料の訂正をお願いしてもいいかな。もちろん今日は出勤扱いにする」


「もちろんです」


 受け取ってみれば数カ所だ。これならそんなに時間はかからない。無心で手早く直しを終えて課長に渡した。


「他にはありますか」


「いや、ない。ありがとう。本当に」


「とんでもない。じゃあ帰ります」


「あ、僕もこれで終わりだ。よかったら食事でもごちそうさせてくれないかな。少し遅めのランチになってしまったけど。食べてないだろう?」


「いえ、とんでもない。どうぞ気にしないでください。それに、昨日は本当に申し訳ありませんでした」


「辻堂さんのせいじゃないだろう。それこそもう気にしないように。それに食事はその件とは別だよ」


「あー……すみません、今日はこれから用があって」


 今後の付き合いを考えると受けた方がいいかと迷ったけれど、課長と二人でご飯を食べにいったことがバレたときのリスクの方が高い。会社の誰かに知られたら死ぬ! 社会的にわたしが!


「警戒されてる?」


「え?」


 いつの間にか距離を詰められていてびっくりする。失礼にならないようさりげなく距離をとった。そこにわたしの携帯が鳴り響く。すぐ帰るつもりだったから荷物をロッカーには入れて来なかったのだ。どうしよう。出てもいいだろうか。さすがにそれは失礼か。誰からだろう。切れちゃうかな、としばし様子を窺うけれど鳴り止む様子がなかった。誰だか知らないけどあとでかけ直すからここは切ってー!


 妙に張りつめていた空気がふっと緩んで、課長は少しわたしから離れた。


「どうぞ、出ていいよ」


「あー……、すみません」


 促されるまま鳴り続いている携帯を見れば〝先輩〟の表示で、慌てて出る。


「も、もしもし!」


「辻堂か」


「あ、はい。すみません、ちょっとすぐには出られなかったもので」


「いや、今、どこにいる?」


 性急な問いかけにぎょっとする。ひょっとしてまた駅で待ちぼうけさせてるんだろうか。マズいだろう。大崎郁人が特定某駅で頻繁に目撃されたら!


「すみません。急な仕事で会社に来てて。あ、でももう帰ります! あのう、かなり待たせてしまったでしょうか」


「いや、俺も今仕事が終わったところだったんだ。このあと時間大丈夫か」


「はい」


「なら、迎えに行くからそこで」


「……え?」


 迎え? そこで、ってどこで? 会社で? 聞き返そうとした時には既に電話が切れていた。早! 切るの早すぎます先輩! わたしはどこで待っていたらいいんでしょうか!


「ひょっとして、今日これから約束の人?」


「あ、はい! そうなんです。すみません!」


「用って嘘じゃなかったんだね。……彼氏?」


 意味ありげなその眼差しに、「彼氏」の言葉を反芻して瞬間激しく手と首を左右に振る。


「ま、まさか! 違います! 高校時代の先輩で」


 言い淀むわたしに、なぜか探るような課長の眼差し。別に悪いことしてるわけじゃないのになんだろう、この居たたまれない感。ああ、でも断った理由が嘘じゃなくなってホッとしている自分もいる。


「ふうん。──じゃあまた誘ってもいいかな」


「えっ? そう、ですね。機会がありましたらぜひ。それじゃ、お先に失礼します!」


「うん。お疲れさま。今日はありがとう。気をつけて」


 我ながら社交辞令全開だ。汲み取ってくれると嬉しい! ぺこりと頭を下げて逃げるように会社を後にする。危険は無事回避できただろうか。イケメンは自分がモテるという自覚を持って行動した方がいいよ、絶対。


 そういえば先輩はどこで待っているんだろう。というかどこからどうやって来るんだろう。できれば課長が来る前に来てくれないだろうか。仕事帰りって言ってたから、芸能人だだ漏れで来られて課長に目撃されたら後日どうしたらいいかわからない。


 おろおろしているわたしの前に不意に車がやってきて止まる。大きくも小さくもない外国産の大衆車だ。スモークタイプで中が見えない窓が開くと運転席から先輩が顔をのぞかせた。うわ、やっぱり。眼鏡はあるけどさすが仕事帰り、芸能人キラキラバージョンだ。やばい。早くここを立ち去らなくては。


「お久しぶりです」


「うん。待たせて悪かった。乗って」


「そんなに待ってないですよ」


 これは先輩の車なんだろうか。免許も持ってるなんて意外だけど、これも何か役に必要だったのかな、とかそんなことを思いつつ車に乗り込もうとした時、名前を呼ばれたような気がして顔を上げた。こちらに足早にやってくるスマートなあれは。……まずい。


「か、課長、どうしたんですか?」


 瞬間車のドアをばたんと閉めて、課長がなるべく近づかないようにこちらから駆け寄る。


「忘れ物」


 手に持っているのはわたしのストールだ。慌ててたから置いてきてしまったらしい。


「すみません! ありがとうございます」


「じゃあまた週明けに」


「はい」


 そう頷いてストールを受け取ろうとしたのに、課長が掴んだままなぜか放さない。なに?


「……課長?」


 そのもの言いたげな眼差しを受けて首を傾げる。何か他に用があっただろうか。


「忘れ物をするほど急いで会いたい人だったのかな」


「先輩を待たせては悪いと思って急いだからだと思いますけど」


 不自然なくらいに食い下がる課長に、やはりプライベートを優先させたことが心証悪かったんだろうかと思う。いや、でも土日はできれば仕事からは離れたい。ただでさえリセットにつとめようと思っていたのに。


「行かせたくないな、って言ったら?」


 はい? 何言い出したんだこの人! わたしの中のスマートでデキル人のイメージがちょっとずつ修正されて行く。


「あの、申し訳ありませんが仕事の話でしたら月曜日以降にお願いできますでしょうか」


 内心汗だらだらでそう返せば、課長はわたしのストールを掴んだまま堪えきれないとばかりにふはっと笑みを零した。


「辻堂さんは面白いね」


 今の会話のどこに面白がる要素があっただろうか。わからない。エリートの考えることは所詮わたしごときにはわからないのだ。とりあえずよくわからないが面白かったことに免じてさっさとストールを渡して解放してくれないだろうか。


「──美沙緒」


 ──はい?


 そのときのわたしの受けた衝撃がわかるだろうか。


 突然、背後から、超美声で、いきなりの名前呼び。全身が硬直して頭の中が真っ白になって、振り返る自分の身体が、首が、ギギギ、と音を立てる気がした。そこに立っていたのは勿論先輩だ。


 なぜ、出てくる。よりにもよってここに。


「どうかしたのか」


 先ほどまでの芸能人オーラは、どうやって出し入れしているのか疑問に思うほど鳴りを潜めて一般人モードに変わっている。眼鏡がさっきのスタイリッシュなものから黒縁の少しダサ……オシャレじゃないものになっていて、髪もセットを崩した感じになってる。一瞬にして高校時代のもっさりモードだ。すごい。


「あなたが辻堂さんの高校時代の先輩ですか」


「……あなたは」


久能秀秋くのひであきといいます。彼女の、」


「上司です! 課長です! ここにはわたしの忘れ物を届けてくださったんです。ありがとうございました。では、また週明けからよろしくお願いします!」


 なんだろう、って今日何回思ったかしれない。なんだろうこの茶番みたいな状況は。課長からストールを失礼のないギリギリの力で奪い取って、先輩の腕を引っぱる。二人とも目が笑ってなくて怖い。きっとわたしが先輩を待たせすぎたんだ。先輩は面倒見がいいから心配して来てくれたんだろう。ここで先輩の正体がバレたらわたしのせいだ。どうしよう! 焦るわたしをよそに先輩はなぜかゆったりと腕を掴むわたしの手をぽんぽんとあやすように優しく叩いた。そして肩越しに課長へと振り返る。


「彼女がお世話になっています」


「なぜそれを高校時代の先輩の君が言うのかな」


「……さあ、どうしてでしょうね。それじゃあ失礼します。行こうか、美沙緒」


 また言ったー! しかも何だその含みのある台詞はー! 恥ずかしながらこれまでわたしは親族以外に名前呼びなどされたことがない。どういうつもりで今ここで先輩がわたしを名前で呼ぶのかわからないけれど、心臓に悪いので即刻やめて頂きたい。──ああ、そうか。ひょっとしてわたしが課長に絡まれてるように見えたんだろうか。それで穏便に助けようと……? いや、ありえない。ありえませんよそんなこと! 相手をよく見てください先輩! こんなイケメンエリートがわたしになんてありえません!


 背中にもの言いたげな視線が刺さる。先輩にエスコートされたまま車に戻り、ドアを開けてもらって愕然としつつも課長に一礼してから乗り込んだ。ドアまで閉めてくれる完全紳士っぷり……! 運転席に回って乗り込んできた先輩の横顔はいつもよりも固い、ような気がする。


「あの、先輩。お待たせして、すみませんでした」


 そのまま走り出すかと思いきや、先輩はそのまま脱力するようにハンドルに突っ伏した。


「え、せんぱ、い?」


「ごめん。勘違いしてマズいことしたよな」


 あー、やっぱりか。


「大丈夫ですよ。先輩はわたしを助けようと思って来てくれたんですよね。ありがとうございます。でもあのー、そんなことないですから。わたしモテないですし」


 先輩が瞬間ばっと顔を上げて食い入るようにわたしを見る。


「え?」


 それもほんの一瞬で、微妙な顔で目を逸らす。……なぜ。


「──まあ、いいか」


 シートベルトをするように促され、こっちで車なんか久しぶりだなーと思う。そういえば課長は、と見るともうその姿はなくて、あれは何だったんだろうかと思いつつも記憶から追い出したのだった。


   *+*


 どこに行くのかだんだん不安になって来たのは高速に乗ってからだった。そんなに遠くまで行くとは思っていなかった。いったいどこへ連れて行かれるんだろう。


「悪かった」


「え? だからさっきのはもう……」


「違う。……花見、約束してたのに行けなくて」


 なんだそんなこと──と思ったけど本当に申し訳なく思っているらしいその様子に一瞬言葉を飲み込む。むしろ来る方がびっくり案件じゃないだろうか。


「気にしないでください。お仕事忙しかったんですよね。興野さんが言ってました。仕事受けきれないほど来てるって。すごいですね!」


 映画のオファーも来たって言ってた。どんどん階段を上っていくんだなあ。そのうちこんな風に会うこともなくなるだろう。先輩はわたしとは別の世界で生きる人だ。例の味覚障害の謎の件がなかったら今日だって会うことはなかったはずだ。


「すごい……か」


 自嘲めいたその言葉に首を傾げる。凄いことは確かだろう。


「そうですよ。まさに先輩の夢が叶ってる真っ最中じゃないですか。きっとこれからたくさんの人が先輩の演技力に圧倒されて、認められて……ゆくゆくは歴史に名前が残るようなすごい俳優になります。絶対」


「大げさ」


「いやいや、言葉にするとそうなるって言うじゃないですか。言っときましょうよ! あの凄い俳優の背中を押したのはわたしなんだって、晩年ニヤニヤさせてください」


「晩年?」


「それまではこっそり応援してます。いちファンとして」


「……それは……心強いな」


 だからどこかで迂闊に先輩のことを話したりはしませんよ、というアピールのつもりだったのだけれど、淡々としたその声に潜む先輩の感情はよくわからなかった。それはそうだ。わたしごときが応援したところで大した力になるわけもないのだし。


「ついた。ここだ」


 先輩の声にハッと目を開ける。どうやら少しうとうとしていたらしい。どのくらい走っていたのか、もう少ししたら日が傾き始めるだろう。見たところどこかの山の中だ。相手が知らない人ならここで殺されるんじゃ、と身構えてしまいそうな人気のない森。車はその入り口付近に停められていた。先に車を降りた先輩にまたドアを開けさせてはいけないと素早くドアを開ける。すると目の前に大きな手が差し出された。


 反射的にお手をするみたいに手を載せると、そのまま掴んで引っぱられた。背中でドアが閉まる音がする。


「こっちだ」


 ピ、と車の鍵を閉める音がして、掴まれた手をそのままにどんどん森の奥の方に進んでいく。かろうじて道になっているそれは緩い勾配になっていて、歩くうちに次第に息が切れてくる。さすが先輩この手はそのためか。ありがたい。日頃の運動不足を激しく自覚したところで先輩の足が止まった。


「よかった。間に合ったな」


「え?」


 息を整えながら先輩がわたしに道を譲るように避ける。目の前に不意に森が開けていた。ちょっとした広場くらいの広さのそこに、一体樹齢はどのくらいなのか、というしだれ桜が満開に咲き誇っていた。まるで女神が両手を広げているような圧倒的存在感だ。その周りにも桜が綺麗に咲いていたけれど、そのしだれ桜にくらべれば、姫に付き従う侍女くらいの差があった。


「……すっごい……」


「ああ、すごいな。──今日仕事でお世話になったスタッフの人に聞いたんだ。ここならまだ咲いてるんじゃないかって」


「え?」


「もらってばっかりだからな」


 なにが? わたしから、先輩に? 馬鹿な!


「はあ!? これでまたわたしの借りの方が多くなりましたよ!」


 とても返しきれる気がしない。でも、本当に夢みたいに綺麗だ。怖いくらい。ううう、と小さく呻いた。


「どうしてくれるんですか」


「なにが」


「わたしがうちの桜で満足できなくなっちゃったら」


 あれはあれでもちろん綺麗だから比べられるものでもないのだけれど。


「じゃあ、また来ればいい」


 簡単に言ってくれるけどこんな辺鄙そうなところ一人で来られるわけがない。一応免許は持ってるけど殆どペーパードライバーなのだ。まあいいや。こんな景色一生に一度見られるかどうかだろう。心に焼き付けておこう。写メってもいいけど、目で見ている以上には撮れそうにない。今日だけの夢にするのもいいだろう。


「タイミングが合えばまた来よう」


「はい」


 社交辞令ですね! わかります!


「お弁当、持ってくればよかったですね」


「ああ、すまない!」


「え? どうしてそこで先輩が謝るんですか。聞いてればお弁当持って来たのに、って話ですよ。せっかく美味しい角煮がうちにあったのに」


「角煮……!」


「トロトロです。煮卵つきです。しかも餃子はあと包むばかりになってます。中華サラダもあります。スープもつけますよ」


 ごはんは勿論タイマー予約してある。水餃子も揚げ餃子も美味しいけど、わたしは焼き餃子一択。パリッと上手に羽根つきで焼けるのがちょっと自慢だ。


「……つ、辻堂」


 雄弁なその表情に、思わずにやりと笑う。一気に返せなくても少しは分割払いしないとね。


「途中のサービスエリアで軽く何か食べてから、うちに行きますか?」


「辻堂が、よければ」


「もちろんです」


 お昼を食べてないから実はかなりお腹がすいている。帰るまではちょっと耐えられない。だから少しだけ小腹を満たして帰れば丁度いいお腹の空き具合になるだろう。この距離をとんぼ返りって、ちょっと申し訳ない気持ちで一杯だけれど。しかもわたし寝ちゃったし。


「先輩」


「また言った」


 横目で眉を上げる先輩は怒ってるんじゃなくてしょんぼり色が濃い。仕方ないじゃないですか。先輩呼び歴のが長いんだし。


「……郁人さん。連れて来てくださってありがとうございました。本当に綺麗です」


「どういたしまして。こちらこそ、一緒に観てくれてありがとう」


「……どういたしまして。……もうわたしのこと名前で呼ばないんですね」


「あ、あれはっ……!」


「冗談です」


 本当に、泣きたくなるほど綺麗だ。どうしてだかすぐには動く気にはなれずに、二人とも黙ったまましばらくその風景に見入っていた。



 わたしの四月は、こんな風に夢みたいに終わったのだった。



 


五月に続きます。

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