第四話 サマータイム図書館/オリーブ(1)
「はっ!? ノートのコピーが千円!?」
あの入れ替わり事件の後、学校はすぐに試験期間に突入をした。僕はこの難局を如何にうまいこと凌ぐかに全リソースを投入することになった。
「足元見やがって、そんなことして良心が咎めないのか!? 友だちには親切にするもんだって教わらなかったのかよ!? なに? プラス五百円で先輩の去年のレポート付き!? A評価!? えっ、ちょっ、それマジ!?」
電話の向こうで、にやにやと笑みを浮かべている悪友の顔が想像できた。なんと阿漕な商売をしているのだ、まったく。しかし、他に手はなさそうなところが如何ともし難い。大人しく条件を飲むしかなさそうだ。
そんな訳で、しばらくうさ乃のことはほったらかしになってしまっていた。しかし、うさ乃も独りでぷらっと出かけたり、何やら忙しそうにしているので、きっと職務に関係ある何かに勤しんでいるのだろう……たぶん。
まぁ、それはいいとして、当面の問題はこっちだ。鳴門は当てにならないが、瀬戸内さんと御蔵さんのノートは確保済みだ。一緒に履修している授業の分は、コピーをもらえることになっている。あとは残りの授業の対策を早急に立てねば。
とりあえず、学校の図書館にでも行って、勉強をしているであろう友人知人を片っ端から当たるか。うさ乃は今日も朝から出かけたきり、まだ戻ってきていない。でも、こちらの居場所は探知できるはずだから、部屋を留守にしても大丈夫だろう。僕はバッグを手にすると部屋を飛び出した。
図書館に来ると、僕はすぐに己の浅はかさを思い知ることになった。僕の友人知人がまともに勉強なんぞしているはずがなかったのだ。類は友を呼ぶというやつだ。ここには知った顔などまったくいなかった。
「あっちゃー、大失敗だ……」
僕が肩を落として書架の間をうろうろしていると、不意に背中から声をかけられた。
「なにが大失敗なの?」
驚いて振り返ると、本を数冊抱えた瀬戸内さんが、大きな猫目に好奇心を浮かべて、僕の顔を覗き込んできた。
「うわっ、瀬戸内さん!?」
「……そんな幽霊にでも会ったような反応されると傷付くんだけどな、カツオくん」
むすっと唇を尖らせる瀬戸内さんの表情は、それはそれでとてもかわいらしく、僕は胸の奥をぎゅっと手荒に掴まれるような感覚を覚える。うさ乃にけしかけられたせいもあってか、すごく意識してしまう。妙に動悸が激しくなってきて抑えがきかない。
「えっ、いや、ごめん。ちょっとびっくりしたっていうか、なんていうか……」
「あっ!? ひょっとして、わたしを探してた? ノートのコピーまだだもんね?」
そう言うと、瀬戸内さんは一緒に来てと顎をしゃくってみせる。ついていくと、六人掛けの机に資料が大量に散乱した席へと案内された。
「実はさっきイルカちゃんとコピーしてたんだよね。はいっ」
瀬戸内さんは結構な厚みのある紙束をすっと差し出してきた。
「イルカちゃんの分も一緒になってるからね」
「あれ? その御蔵さんは……一緒じゃないの?」
辺りを見回してみても彼女の姿はなかった。
「うん、さっき帰ったよ。バイトだって」
聞くところによると、御蔵さんは家庭教師のアルバイトをしていて、その相手は小学生らしい。果たして、彼女はちゃんとコミュニケーションを取れているのだろうか。いったいどんな感じでやっているのか非常に興味深いので、一度見てみたいような気もする。
「そうなんだ。後でお礼を言っておかないと」
ゆっくりと会話をしながら、僕は少しづつ落ち着きを取り戻しはじめた。平常心だ。なにを緊張することがある。
そんな僕へ瀬戸内さんが気遣わしげに尋ねてくる。
「後はなんとかなりそうなの? イルカちゃんも心配してたよ。わたしたち、カツオくんと一緒の授業がそんなにないからね」
そこで、僕はさっきの悪友との会話を思い出して、瀬戸内さんに話して聞かせた。すると、彼女はその話が興味深かったらしく、感嘆の声をあげた。
「へぇー、すごいねぇ。逞しいな。わたしもやろっかな。お客さんには困らなそうだし」
言うと、瀬戸内さんは上目遣いにちらりと僕を見た。
「あっ、いや、心優しい瀬戸内さんには、そのままでいてほしいというか、博愛主義であってほしいというか、無償の愛というか、なんだ、まぁ、その、あれですよ」
何を言ってるんだ僕は。
「あはははっ、それって褒めてくれてるの? カツオくんってば変なのっ」
目じりに涙を浮かべて瀬戸内さんが笑い転げる。まぁ、おかしなことを口走った自覚はあるので、仕方がないが、なんともいたたまれない気持ちになってくる。僕が本当に伝えたいことは、こんなことではないのだけれど……。
そんなことを思いながら、そろりと瀬戸内さんの表情を窺うと、彼女は本当に屈託のない笑顔を浮かべていた。御蔵さんに紹介されて瀬戸内さんに初めて会った時、僕が彼女に持った第一印象は『表情がとても豊か』というものだった。
その印象はあの時のまま、いまも変わっていない。
「ほら、いくら空いてるからっていっても、静かにしないと」
おなか痛いとか言いながらまだ笑っている瀬戸内さんを、僕はやんわりと嗜める。
「あははっ、そうだよね……いやぁ、めんごめんご」
瀬戸内さんは目元を指で拭いながら、あぁ、おもしろかったと言って椅子に座った。
「カツオくん。少し待ってもらえたりする? すぐにこれ終わらせちゃうからさ、お昼一緒に食べようよ。もう食べちゃった?」
「いや、まだ食べてないよ」
「んじゃ、一緒に食べよう。すぐに終わらせるね。んー、こんぐらいかな?」
指でVサインをつくって僕に見せてくる瀬戸内さん。二十分ということなんだろう。
「うん。わかった」
すると、瀬戸内さんをはさっき持ってきた本を黙々と繰りはじめ、どんどんペンを走らせていく。
僕も瀬戸内さんの向かい側の席に腰を下ろして、さっき渡されたコピーの束を開く。瀬戸内さんの字は印刷物のフォントのように綺麗で、御蔵さんの字は丸っこくてかわいらしいものだった。一見しただけで、どちらのノートかがすぐにわかる。
そうやってノートのコピーを捲りながら、ふと顔を上げると、手元へ視線を落としたまま集中している瀬戸内さんの表情が見えた。
緩いカーブを描いている睫毛は、瞬きの度に音を立てそうな程に長く、彼女の猫目を印象的なものにしていた。その猫目は、資料とノートとの間をくるくると忙しなく動いていていて、ポイントに差し掛かる度に、綺麗に整えられた眉がぴくりと少しだけ持ち上がる。そして、形の良い唇がきゅっと引き締められると、彼女は次へと進みはじめるのだった。
正午前の明るい館内は凪いだように静かで、聴こえてくるのは、ページを繰る音とペンの走る音だけ。時間が止まったような、永遠に続くような、そんな錯覚を覚える。僕と瀬戸内さんだけが取り残された世界。そんな妄想に浸ってみるのも悪くない。
窓の外へと視線を移すと、蒼く大きく広がった空には白い積乱雲が連なり、夏の黄色い日差しが木立ちの下へ色濃い影を作っている。
うさ乃には、能動的に行けと煽られたけれど、僕はこうしていられるだけでも満足なのかもしれない。そんなことを思っていると、瀬戸内さんが本をぱたりと閉じた。
「お待たセイウチっ! いやー、時間ぴったり。さすがわたし。んじゃ、お昼に行こうか」
瀬戸内さんは手早く机の上を片付けはじめる。
「そうだね。じゃあ、本を戻すの手伝うよ」
この大量の本を一人で戻すのは、なかなかの重労働だ。しかし、まぁ、よくこんなに集めたものだ。
「うん。ありがとう。気遣いのできる男子は女のコにモテるからね。きゃー、カツオくーん♡」
そう言って瀬戸内さんはしなをつくると、これまたわざとらしく、目をぱちくりとさせながら僕を見つめてくる。
こんな些細なやり取りが、僕の中で重要な物事になっていく。僕の一部になっていく。
――僕は『女のコ』ではなくて、瀬戸内さんにモテたい。
突如としてそんな気持ちが湧き起こる。さっきまでの達観していたような心持ちは、既に消し飛んでいた。そんなものは、ただのごまかしなのだ。やっぱり見ているだけなんてできない。
「瀬戸内さんっ!」
気持ちが昂って、思っていたよりも大きな声が出てしまった。図書館の静寂を破るように僕の声が響き渡る。周りの席に座っていた人たちが、一斉にこちらへと視線を向けてきた。
「あっ、すみません……」
僕は慌ててぺこぺこと頭を下げると、横目で瀬戸内さんを窺った。すると、彼女はからかうような半眼をしながら、片手で口元を覆い隠して言った。
「あー、図書館で騒いだらいけないんだぁ」
瀬戸内さんは、まるで子供が同年代を揶揄するかのように詰ってきた。
「いや、ちょっと、瀬戸内さんっ!? あーっ、もう、ほら行くよっ」
僕は瀬戸内さんを促すと、本を抱えて逃げるようにその場を後にした。そして、その脚で本を棚に全て戻し終わると、図書館棟のエレベーターホールまでやってきた。
「ひどいよ、瀬戸内さん」
僕は彼女をちらりと見ながら、エレベーターのボタンを押す。
「あははっ、その方が面白いかと思って。あっ、そっちのエレベーターはメンテナンス中だって」
二基あるエレベーターの内、ひとつにメンテナンス中の立て札があった。
「面白いなんて言ってないでフォローしてよ……。こっちも来るの遅いね」
エレベーターはなかなか上がって来ない。階段で降りてもいいのだが、なんとなくそのまま、エレベーターの現在位置表示を目で追っていた。
暫くすると、ようやく五階の表示灯が点灯してエレベーターが到着する。すっと静かに開いた扉の中には誰もいなかった。
「なんだ、混んでるわけじゃないのか」
二人で乗り込むと、一階のボタンを押して扉を閉める。ぐいんと鈍い作動音が響き、ゆっくりとエレベーターが動きはじめた。そして、現在位置表示が次の四階へと変わると、そこで緩やかに止まって扉が開いた。
すると、エレベーター前には大勢の人が待ち構えていて、扉が開くのと同時に無数の目が僕たちに向けられてきた。
「はい、じゃあ、順番に乗ってください」
案内係りと思しき女性が集団へと合図をすると、扉の前で待機していた人たちが一斉になだれ込んできた。僕と瀬戸内さんは、あっという間にエレベーター奥の角へと押しやられてしまう。室内はすし詰め満員電車状態になった。乗ってきた人たちの間からも「痛い」「押さないで」などの声があがる。
「危ないので押さないでください。もう乗れませんので、次をお待ちいただくか、階段をご利用ください」
案内係りの声が聴こえると、乗り切れなかった人たちの中から、少しだけざわめきが起こる。そして、その音を遮断するかのように扉が静かに閉じられた。
再び動き出すエレベーター。
誰かが立ち位置を変えようと動いたのか、僕は後ろから背中を押されて、瀬戸内さんにかなり密着することになった。
さっき、乗り込んでくる人の流れがあまりに急だったので、僕は瀬戸内さんをとっさに庇おうとした結果、彼女と向かい合う形になっていた。
いま、僕の顎の下には瀬戸内さんの頭がある。
壁に手を付いて、なるべく瀬戸内さんに接触しないようにしてみるけれども、背中からの圧力はとても強く、密着せざるを得なかった。
彼女の体温がはっきりと伝わってくる。
「……ごめん」
僕は小さく瀬戸内さんの頭上から囁きかける。
「……ううん。大丈夫だよ」
少し顔を上げて、瀬戸内さんは僕を上目遣いに見上げてくる。
湿度のある空気と共に、彼女の匂いが立ち昇ってくる。
コロンの香りと、微かに混じる甘く湿った肌の匂い。
僕は頭がくらくらしてきて、意識が遠のきそうになってくる。
心臓がありえないぐらいに早鐘を打ち、いまにも喉の奥から飛び出しそうになる。
彼女の柔らかくて華奢な感触が、じんわりと僕に押し付けられている。
こんなにも近くに瀬戸内さんの存在を感じたことはなく、このまま抱きしめたいという衝動が僕を突き上げてくる。
しかし、それは彼女に対する卑劣な裏切りのように思えて、僕は両腕が動きそうになるのをぐっと堪えた。
ゆっくり深く呼吸をして気を落ち着かせる。
しかし、だ。
頭は意志の力でコントロールすることもできるけれど、生理的、反射的行動はそれが難しかったりする。僕は、僕の身体の全てをコントロールできるわけじゃない。
本能が鈍く頭をもたげはじめる。なるべく関係のないことを考えながら、これ以上、身体が当たらないようにと腰を引く。
――どうか、瀬戸内さんに気が付かれませんように。
こんなこと、絶対に知られたくない。僕が彼女に劣情を向けたなんて思われたくない。いい格好をしたいのか? それもあるかもしれない。自分の想いが純粋なものだと思いたいだけなのかもしれない。
いや、そもそも純粋ってなんだろうか。身体的な欲求が介在するのは不純なのか? わからない。でも、いまはそういう時ではないと思う。
遅々として進まないように感じられたエレベーターが、ようやく一階についた。扉が開いた途端に、大勢の乗客が溢れるように外へと出て行った。僕と瀬戸内さんだけが無人になった箱に取り残される。
「……カツオくん。着いたよ」
見上げてくる瀬戸内さんの顔は上気したように朱色に染まっていた。
「あ、うん……」
僕は目を合わせることができずに、さっと踵を返すとエレベーターを出た。
「ふぅ、すごい混みようだったね」
瀬戸内さんがシャツの胸元を摘んで、ぱたぱたと開け閉めする。エレベーター近くの階段からは、大勢の人がぞろぞろと降りてきていた。
「なんか催しがあったんじゃないかな」
僕らは学食の方向へと脚を向けながら、集団が正門へと歩いていく様子を眺めていた。
すると、瀬戸内さんが僕の方へと視線を移して、唐突に言った。
「カツオくんもさぁ、男の子なんだね」
思わず僕はびくっとしてしまう。それはどういう意味なのだろうか。胸の動悸が早まる。
「はい?」
僕が上ずった声で応えると、瀬戸内さんは少し頬を赤らめながら、視線を僅かに逸らす。
「いやぁ……結構、固いんだなって……」
その瞬間、僕はいっきに冷や汗が出るのを感じた。気付いていたんだ――。僕は自分がいたたまれなくなって、いまにも逃げ出したくなる。恥ずかしすぎる。
「いや、ごめん……その、」
どんな顔をすればいいのだろう。軽い調子で自白をすれば、遺恨を残さないで終われるのだろうか。僕の頭のなかを様々なことがぐるぐると駆け回る。
「カツオくん、どっちかというと細身なのに、身体は意外とごつごつして固くって、男っぽいというか……なんか、ちょっとどきどきしちゃった」
そう言うと、瀬戸内さんはえへへっと照れ笑いを浮かべて目を細めた。
違っていた。違っていたけれども――瀬戸内さんはズルい。
そんな風にされたら、普通でなんかいられなくなる。僕はこんなに瀬戸内さんに近づきたくてもできないのに、彼女はいとも簡単にひょいっと僕の内側へやってくる。
瀬戸内さんは本当にズルい。
僕は瀬戸内さんの笑顔から目を離すことができずに、ただ立ち止まるしかなかった。




