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エピローグ

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 ルカ王とその周囲の人物数人についてもう少しだけ語りたい。ルカとマリーとその子ルイ。加えてマリージア王国建国の三柱と呼ばれる三名について。



ルカ王


 聖歴485年生まれ。西方王国クロフォード公リチャードの孫。聖歴503年、西方王国の南方大陸遠征軍の総司令官に任命される。同年、クロン市より渡海し対岸マロン市を征服。聖歴504年末までに南方大陸の西半分を征服、聖歴505年1月、ルナ・ヤマダ市近郊で市帝国軍を撃破。同年、西方王国からの独立を宣言しマリージア王国を建国。

 聖歴519年までに南方大陸東側4郡のうち3郡を征服。聖歴519年、南方大陸アラム郡にて戦死。享年34歳。



ルイ王(聖帝サザンクロス)


 聖歴506年生まれ。ルカ王とその正妻マリーの間に生まれる。長男。聖歴519年、父王の急死に伴い若干13歳で即位。摂政となった母后マリーと王国宰相ジロウ・サイトウが政治の実務を担った。

 聖歴524年、建国の功臣ダンケル・サウスロードに促されて母マリーと宰相ジロウ・サイトウを拘束、更迭。以後は親政を行う。

 聖歴548年、北方の神聖大陸に存在した3か国を征服。史上初めて南北両大陸の統一を成し遂げる。同年、国号をマリージア統一帝国、君主号を皇帝と改める。聖歴569年、帝都ルナ・ヤマダ市にて崩御。享年63歳。

死後、その偉業から聖帝サザンクロスと広く呼ばれるようになる。この名は死後に建てられた彼の陵墓の形状に由来するものである。

彼の跡を継いだ残虐帝ルンは亡き父の偉業を称え巨大な墓を建設した。ルナ・ヤマダ市近郊に建造されたその巨大な墳墓は「聖帝十字陵」の名で広く知られ、現在多くの観光客を集めている。



ヘルマン・ガスロー


 聖歴461年生まれ。騎士の家に生まれた彼は幼年学校卒業後に士官学校に進学。王国軍士官となる。聖歴480年、西方王国公爵リシュモン元帥の副官としてペタンコブルク市近郊会戦に参加。以後、軍歴を重ねる。聖歴502年、西方王国の南方大陸遠征軍副将に任じられる。

 聖歴503年、中部マロン平原の戦いにおいて騎士2千を率いて長躯迂回機動を行い敵軍を後背から襲撃。その勝利に貢献する。

 聖歴505年、歴史上名高いルナ・ヤマダ市近郊会戦において同じく騎士2千を率いて敵将に圧力をかけ、これを寝返らせる。これが同会戦の勝利の決定打となった。

 その後もルカ王に従い南方大陸諸郡への遠征に参加。ルカ王の死後、聖歴520年に南方大陸アラム郡を征服。南方大陸8郡の征服を完了させた。同年、ルナ・ヤマダ市への帰還の途中に熱病に冒されて死去。享年59歳。

 彼はマリージア王国一の名臣と称えられた。また彼は騎兵の運用に巧であった事が知られ、後の聖帝サザンクロスの戦術思想に強く影響を与えたともいわれる。



ダンケル・サウスロード


 聖歴469年生まれ。西方王国王都に庶民として生まれる。聖歴484年に15歳で傭兵となり、聖歴489年には仲間数人と傭兵団を結成。その隊長となる。

 聖歴503年に西方王国の南方大陸遠征軍に参加し、その先陣を切ってマロン市に上陸。歴史上はじめて渡海上陸作戦を成功させる。

 その後はマロン半島北部の諸県を落としてルカ王の征服事業を助ける。これらの功によりサウスロードの姓と公爵の爵位をルカ王より与えられる。

 ルカ王の死後、跡を継いだ幼いルイ王の後ろ盾となった摂政の母后マリーと王国宰相ジロウ・サイトウの専横をみかねて密かにルイ王と接触。王と共謀して宰相と母后を拘束のうえ更迭させた。

 聖歴526年、ルイ王の西方王国遠征軍に副将として参加。クロン市上陸の先陣を切りこれに成功。かつてのマロン市への上陸作戦成功と合わせて、彼を「両大陸の英雄」と呼ぶ者もいる。

 聖歴529年、ルイ王とともに西方王国王都を占領。そこは彼の出身地である。この街で多くの旧友に再会しサウスロード公は喜んだという。同年、この街に滞在中に死去。娼館で死亡していたという。享年60歳。

 死因は公表されていないが、彼の旧友たちは「死に方までうらやましいヤツだった」と語ったという。

 サウスロード公ダンケルは兵に対して占領地での略奪・暴行を許す事が多く、自らがその先頭に立つ事すらあったという。さらに必要とあらば躊躇なく焦土戦術をとる事も珍しくなかった。ゆえに彼を忌み嫌う者も多い。

 軍事面において彼を批判する事は難しく、倫理面において彼を擁護する事は難しい、という後世の歴史家の言葉が残っている。言い得て妙であろう。



ジロウ・サイトウ


 聖歴458年生まれ。東方帝国帝都の中流家庭に生まれる。聖歴473年、東方帝国の役人登用試験に合格、10級役人として任官。

 出世を重ねて聖歴500年に42歳でマロン半島郡第一県県令となる。聖歴503年、西方王国軍の司令官として現れたルカ王に降伏。以後その臣下となる。隣県の調略や中部マロン平原の戦いにおいて敵の一軍を調略した功にてマロン市市長となる。

 サウスロード公ダンケルが荒らしたマロン市を復興させ、戦争や西方王国からの独立によって中断されていたクロン市との交易再開に尽力した。マロン市市長ではあったものの、職務遂行上の理由から王都ルナ・ヤマダ市に滞在する事を常とした。

 聖歴519年、ルカ王の死に伴い摂政となった母后マリーに近づきその歓心を得て王国宰相に任命される。王国宰相として彼は国内の流通網を整備して交易による利益を拡大。王国の財政に貢献した。ただし、彼はその利益を少なからず彼個人のものとした。

 聖歴524年、サウスロード公ダンケルとルイ王により拘束・更迭され失脚した。横領および贈収賄の罪であるという。

 聖歴526年、罪を許され王国宰相に再任される。ルイ王は彼の人格を信用しないがその才能は高く評価すると言ってはばからなかったという。再任後は鉱山開発や産業育成、農業政策など多方面から王国の内政充実に努めた。彼が作った国家基盤なくして聖帝サザンクロスの世界統一事業は成し得なかっただろう。ただしその在任中、彼が金銭面において清廉潔白であったと信じる者はいない。

 聖歴536年、78歳になった彼は高齢のため職を辞して引退。聖歴557年死去。享年99歳。彼は異例の長寿を全うした。



王妃マリー


 聖歴478年生まれ。聖歴493年ハルウィ伯カールと結婚、翌年長女サラを出産。聖歴497年、夫と死別。その後生活のために西方王国王都にてラスター大公の愛人になったと伝わる。

 聖歴500年、後のルカ王と婚約。聖歴505年、ルカ王と結婚。翌年長男ルイを出産。聖歴519年、ルカ王と死別。幼少のルイ王の摂政となる。政治に疎いマリーであったが、王都に滞在していたマロン市市長サイトウが必要な政策や政治判断を適宜進言した。同年、彼を王国宰相に抜擢。王国の政治は全てマリーとサイトウが相談のうえ決定する事が常となった。

 聖歴524年、息子ルイ王により拘束され摂政を解任された。サイトウとの専横がその理由であるという。息子のために行ってきたことがその本人から専横であると糾弾されてマリーは深く悲しんだ。ルイ王はほどなく彼女と和解したが、以後彼女が政治の表舞台に出る事はなかった。

 聖歴550年、息子ルイ王の南北両大陸統一を見届け死去。享年72歳。


・・・・・


 聖帝サザンクロスの世界統一。それが彼の両親の熱い恋愛に端を発する事を知る者は多い。世界中で歌に歌われ詩に読まれ、演劇として演じられている。それらはかつてルカ王が周囲に語った自慢話を元にしているという。


 マリージア、それはマリーの国。かつて愛した夫が作り、愛する息子が広げ、その世界の名になった。

世界はマリージアになった。かつて罪人の娘として居場所を追われたシングルマザー。彼女は世界の全てを手に入れてこの世を去った。


終わり。


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