結婚の条件……
アナベルが目を覚ましたのは、病院でだった。
ウィリアムが居て、新聞を読んでいる。アナベルがそれを見ていると、彼はアナベルが目を覚ましたと気付き、新聞を放り捨てた。「アナベル」
「はい、サー」
アナベルは体を起こそうとして、頭痛に顔をしかめる。なんてばかなことをしたんだろう。でも、あの女だけはゆるせなかった。いろんなひとが苦しんで、アナベルの両親のようにそこから壊れてしまう関係だってあるのに、流産したなんて嘘を……。
ウィリアムが哀しそうな顔をした。
「アナベル、動かないほうがいい。君はもう少し安静にしていないといけないんだ。スピーカーがあったから、それがつっかい棒みたいになって、ツリーは完全に倒れはしなかったけれど、君の頭にあたったんだから」
「掠ったくらいでしょう?」
「そんなことはない」
「ウィリアム、わたしならもう大丈夫」
アナベルはけれど、起き上がれなくて、もう一度ベッドに体を預けた。呻く。
ウィリアムが不安そうにいった。
「アナベル、君には随分、負担をかけた。それに、僕は君に謝らなくちゃならないことが沢山ある」
「もういいわ。やめて」
「そんな訳にいかないよ。君に関する悪い噂を聴いて、僕は愚かにもそれを信じてしまった。その大半は、メラニーの親友のニコラが流した噂だったよ」
「でも噂を話したひと達は信じていたのよ」
「君へ嫉妬していた者達と、正体をうまく隠していたメラニーを応援しようと、義憤にかられたひと達がやったことだよ。その両方だったというひとも居る。なんにせよ僕はばかだったし、メラニーは性悪だった」
アナベルは少し考えて、いう。
「わたしの噂って? どんなもの?」
「君が脅迫されて僕と結婚したんだとか、それから、君は……困窮していたから、複数の男性と関係があったとか」
「シュガーダディが居たって? よなかに甘いものを食べる友達なら居るわ」
アナベルは面白くて笑ってしまった。メラニーは、離婚の時にもらった金をつかいきって、復縁をもくろんでいたんだろう。そこにアナベルがあらわれた。だから、アナベルの悪い噂を流した。その為なら、ウィリアムと反目している彼の伯父とでも手を組んだ。そういうことだ。
ウィリアムがか細い声を出す。
「僕は、友達くらいではいられる?」
「今のところはね。あなたが寝室を完全に譲ってくれるなら、親友に昇格してあげてもいいわ」
冗談だったのだが、ウィリアムは本気にとったらしい。「わかった。僕はソファで寝る」
「ちょっと、ウィリアム、なに本気にしてるの。わたしはあなたに雇われている妻でしょ? あなたはわたしをいつだって追い出せるのに、そんなわがままいうと思ってるの?」
「僕は……僕は君をはめた」
「なんですって?」
「君が丁度いい人材だから妻にと望んだんじゃない。君は覚えていないみたいだけど、僕らの出会いは本当のことだよ」
アナベルは息をのみ、その所為であばらに痛みを感じて呻いた。
アナベルは実際、車だろうとなんだろうと、エンジンが搭載されているものの運転を苦手としている。だから、ピザ屋で働いていた時、ほとんどは厨房でひたすらピザをつくっていた。だが、繁忙期にはどうしようもなくて、アナベルもデリバリーをした。
ウィリアムがそんなアナベルをたまたま見かけ、好きになったというのは、本当のことらしい。
「でも、あなたみたいな立場のひとが来るようなパーティなんて……」
「君は僕を、ヴィクトリア朝時代の貴族かなにかだと思ってるのか? 大学時代の友人達とのパーティだったよ。主催したのは、こんな都会でなにを考えたのか、農業をしている友人でね」
そこまでいわれても、それがどのパーティか、アナベルは思い出せなかった。彼は友人達の前では、例の傲慢で自信満々の若社長ではなく、よなかにキッチンでこそこそ、アナベルと一緒にバナナマヨネーズトーストを食べる時のような、傷付きやすそうな青年でしかないのだろう。
「僕は君が勤めていたところへ行ったけど、君が辞めた後だった」
「ああ……辞めさせられたのよ」
「本当に? それは知らなかった」
ウィリアムが驚いたようにいい、アナベルは不自由な首でなんとか少しだけ頷いた。ピザ屋はそれなりに割がよかったのだが、兄が施設で問題を起こして、その対応で穴を開けてしまい、即刻首を切られたのだ。
「僕は君をさがしつづけたんだ。信頼できる秘書に頼んで……諦めていた頃に、君が見付かった。それも、僕の会社で」
「そう……でも、わたしとメラニーは、まったくタイプが違うわ」
「当然だよ。僕はそもそも、メラニーみたいな女性は好きじゃないんだ」
アナベルが目を瞠ると、ウィリアムは苦笑した。
「君のいうとおりで、酒はよくない。僕は伯父のパーティでメラニーを紹介された。その後、酒を呑まされて、気付いたら彼女と同じベッドで目を覚ましたって訳さ。その二月後に、彼女が会社にのりこんできて、妊娠したと泣き出した」
それじゃあ彼は、良心から彼女と結婚したのね。やっぱり、冷たいひとじゃなかったんだわ。
アナベルはまた、苦労して頷く。
「メラニーはあなたを騙したのね」
「ああ。君に対する中傷で訴えるといったら、彼女はすべて喋ったよ。彼女を用意したのも、彼女に策略を授けたのも、すべて伯父だった。よく考えれば、彼女は伯父の好みのタイプだし、伯父は自分の好むような女性なら僕だって好きになると思ったんだろう」
ウィリアムは事務的な口調でいう。「伯父は一線を退くことにしたそうだ。僕は彼をとめなかった。社長になったら正社員の二割をくびにして、賃金の安くてすむパートにいれかえるなんてことをいっていたひとだ。理事達もとめなかったよ」
「それじゃあ、そういう事態を避ける為に、あなたは社長を辞めたくなかったの……」
ほっとした。そして、当然だ、とも感じた。ウィリアムは私利私欲だけで動くひとではない。
アナベルは目を瞑り、ゆっくり開く。
「それじゃあ……あなたがいったことには、欺瞞があった」
「すまない。君には、素敵な恋人が居るって、噂になっていた。それは、ヘンリーだったんだろう? 君の兄の?」
おそらくそうだろう。アナベルはたまに、電話をかけてくる兄と話していた。勿論、勤務時間外だが、休憩中に社内で話したこともある。神経質で妄想になやまされている兄には、やわらかく諭すような調子で喋って、落ち着かせるしかない。
端から見れば、それは恋人と楽しく喋っているように思えたのかもしれない。アナベルの(休憩中とはいえ私用の電話を)よしとしないひと達が噂をし、アナベルのことを調べていたウィリアムの耳にはいったとしても、おかしなことではないだろう。
「わたしは恋人なんてつくる時間はなかったわ。兄がひっきりなしに電話をかけてくるの。食事に虫がはいってるとか、毒を盛られたかもしれないとか、そういった不安を喋って、わたしがなだめる。そんなことを続けていたら、誰もわたしを友達にしたがらないわ。にこにこしながら、大丈夫よ、誰も毒なんていれてないわ、なんて電話してるんだもの。気色悪いわよ」
「ああ、アナベル、すまない。僕は自分の金をちらつかせるくらいしか思いつかなかった」ウィリアムは目を伏せたが、苦く笑った。「でも、君のお兄さんをいい施設に移せたのは、僕が君にできた唯一のいいことみたいだね」
「それ以外にもあなたはいいことをしたわ。わたしと一緒になってよなかにカロリーをとってくれたでしょ。それによってあなたの完璧な肉体に、余分な脂肪がつくこともおそれずに」
「アナベル」
アナベルの口調に、ウィリアムは表情を明るくした。「もしかして、あの……そこまで怒ってはいない?」
「ええ。わたしが腹をたてているのは、赤ちゃんを嘘に利用したメラニーにだわ。でもそれも、もうだいぶ軽くなったの。彼女をたたきのめしたから」
「メラニーはせなかの打撲で入院してるよ」
「残念だわ。骨を折ってやればよかった」
アナベルは力なく笑う。それから、急激に疲れを覚えて、眠りについた。
ニコラとフィリップのホプキンス兄妹は会社を辞めた。冬祭りのパーティでウィリアムがすべてをぶちまけ、メラニーがウィリアムと復縁するように画策していたふたりは会社に居づらくなったのだ。フィリップはメラニーと恋人なのに、とアナベルは不思議だったが、フィリップもまた、ウィリアムの財産の恩恵をうけていた。メラニーはミセス・エスチュアリー時代、愛人と、ウィリアムのお金で豪遊していたのだ。
ミラが一時的に秘書に復帰した。ウィリアムがアナベルに結婚を持ちかけた、そのやりかたが大変まずかったのは、秘書に女性がひとりも居なかったからだと指摘して、なら君が戻ってくれとウィリアムに頼まれたのだ。それを断れるミラではない。孫との時間は減るが、アナベルの為だと思って働いてくれるそうだ。
兄は小康状態だが、あたらしい施設がよほどあっているのか、電話で嬉しそうに話してくれることが増えた。彼は今、粘土細工をつくっているらしい。なかなか独創的なものが写真に撮られて送られてきた。
アナベルが喚きちらすメラニーを体当たりで弾き飛ばした映像を、物好きな会社員がとっていて、愚かにもネットにアップした。しかし、それがいい方向に働いた。音信不通だったアナベルの伯父があらわれたのだ。
彼は地方で、小さな雑貨店を営んでいた。最後に捕まってから十年以上が経ち、犯罪とは完全に縁が切れている。だが、自分が傍に居るとアナベル達兄妹に迷惑がかかると思い、今まで接触を断っていたのだそうだ。アナベルがメラニーに罵られた映像にショックをうけ、アナベルを心配して、丸一日かけて会いに来てくれた。ヘンリーが依存症で苦しんでいることも、アナベルが兄の奨学金をずっと肩代わりしていたことも、伯父は知らなかった。これからは連絡を取り合おうと約束ししたし、自分には小さないとこ達が居ると知って、アナベルは喜んだ。
そしてウィリアムは、あらためてアナベルに結婚を申し込んだ。
アナベルはひとつだけ条件をつけて、それをうけた。よなかのチーズココアトーストを断らないことだ。彼は喜んで条件をのみ、ふたりは本当の意味で結婚を成立させた。