108話
アッセルフィガー伯爵家に『アンナ』という名前を見付けた日から目が回るほど忙しい日々がシュテーリアを待っていた。
学院では代わる代わるエアリステとお近付きになりたい家の令息令嬢が声を掛けてくるし、家に帰れば母から付きっきりでシュテーリアとエルテルの二人にお茶会を催すための指南が始まり、合間にはお茶会で披露するための化粧品などの打ち合わせをマルクスと行いヴァシュカ率いるミケロ商会とも話し合いを重ねた。
目が回るというのが比喩でなくなり実際に疲労から倒れた日にはエルテルがシュテーリアの代わりを担ってくれたものの完全に任せる訳にはいかず、顔色の悪さを化粧で隠して昼間は学院で交流を増やし、夕方からは茶会の準備に明け暮れる。
正直に言えば、ここまで忙しいものだとは想定していなかった。
決定権をシュテーリアが持っているだけで実働は従者の仕事なのだと思っていた節があり、舐めていたと言わざるを得ない。
そのせいでアンナという謎めいたアッセルフィガーの令嬢の存在もすっぽりと抜け落ちていた。
同派閥に属するアンナを茶会に招待したことさえもだ。
シュテーリアの誕生日も本人が体調を崩していることで静かに終えることになり、気付けばミコルトが領地から王都に戻る頃になっていた。
今回催される子供たちの茶会はミコルトにとっても重要なものだ。
来年度の入学を控える同派閥の子供たちも招待するからでミコルトの親しい学友を作るための場でもある。
特にノナン男爵家の孫娘やヴァルデリック伯爵家の末娘、ハウゼン侯爵家の末の孫娘、トエグ伯爵家の嫡男は最重要人物だろう。
ミコルトの帰宅に合わせて冬支度が始まり、季節に合わせた衣替えや装飾のほか壁紙や家具までもが一新され、城と言っても差し支えない侯爵邸が冬の装いに様替わりする。
エアリステと違い王都は稀に雪が降る程度で積雪はほぼ無く、冬を感じられるような風情は少ない。
最高神ルフィツィアの聖誕祭というクリスマスと酷似した祭事もクリスマスとは違いイルミネーションなどで街が彩られる訳ではなく厳かなものだ。
忙しい日々を送る中、定期的にエルテルの家庭教師を務めるラルゴット夫人がシュテーリアのもとを訪れる。
この日も相変わらず彼女は聖女という存在に心酔し、盲信する己に陶酔しているようだった。
つかの間の休息を応接室で夫人と向かい合い、その時間は苦痛が大半を占める。
彼女の思い浮かべる理想の聖女にシュテーリアがなると信じて疑わない様は、まだ幼い聖女の卵には圧力でしかない。
ふとサラマリアが自ら命を絶った理由を考える。
もし母の侍女がラルゴット夫人と同じような思想の人物だったとしたら、さぞかし息苦しかっただろうと。
サラマリアは魔法の研究を好む快活な女性だったとフリオが話していたことを思い出す。
そんな女性が全ての自由を奪われたのだ。そして、それはシュテーリアにも引き継がれようとしている。
王兄の妻でさえ逃れられなかったその呪縛から逃れることなど出来るのだろうかと夫人を前に心が塞ぐ。
「シュテーリア様、どうか民の声にお耳を傾け寛大な心で祈りを聞き届けて下さいませ。民は聖女であられるシュテーリア様に多くの愛を差し出すでしょうから、シュテーリア様はそれに応えなければならないのですよ」
当然のことのように告げられる言葉があまりに息苦しく、嫌悪感を抱く。
それは同席したエルテルも感じたようだ。
自身にとっては良き教師だが、友人であり恩人であるシュテーリアを苦しませる物言いには黙っていられなかった。
「ラルゴット夫人、リアにはリアの考えがあり、感情があります。人形ではないのですから」
「えぇ、存じておりますよ。ですが、聖女とはそういうものなのです。その存在の在り方に否も何もないのですよ?」
「いいえ!そんなはずはありません!それに、エアリステ侯爵家の方々がリアが人形のように生きることは許さないはずです!」
シュテーリアを庇い、言い切るエルテルにはいつも見え隠れしていた負い目のようなものは見られず、彼女を見るシュテーリアの春空が細められた。
「そうね……わたくしは、わたくしの望むように生きるわ。たとえ聖女という存在になったとしてもその力を民のために使うとは断言できません」
そう述べてラルゴット夫人と目を合わせると夫人が表情を消した。
「シュテーリア様はまだ幼く、理解できていないだけですわ。聖女という存在を深く理解するためには私の授業が必要かもしれませんね?」
「必要ないわ」
「いいえ、必要です。聖女は聖女らしくあらねばなりません。もしやサラマリア様も同じようなお考えでいらしたのかしら?であればお亡くなりになったのも必然かもしれませんわね」
「なんですって?!ラルゴット夫人!言葉が過ぎましてよ!」
激昂するエルテルを前に夫人は怯むことなくお茶に手を伸ばす。
本来であれば王家に近しい侯爵家の娘を侮辱したのだから罪に問われてもおかしくない発言であり、エルテルが激昂するのも当然のことだ。
「ラルゴット夫人、どうやら貴女はご自分の立場を見誤っているようですわ」
「そのような事はございません。全て聖女であるシュテーリア様のためですもの。必要とあれば心を鬼とし助言せねばなりませんわ」
「あら、貴女に助言を求めた覚えはございませんわ。わたくしが助言を求めるのは、いつだって誉高い方々ですもの」
子爵家の夫人風情がと言わんばかりの態度にラルゴット夫人の表情が凍る。
「貴女はあくまでもエルテルの家庭教師であり、わたくしとの直接的な関わりはありません。ロトを側に仕えさせたいのでしょうけれど、今のような振る舞いをされるようではロトを手放すしかありませんわね」
悪女も尻込みするような堂々たる様で言えば夫人の口がパクパクと開閉して言葉を失う。
たとえ悲劇に見舞われようと純真無垢であり続ける者こそ聖女に相応しいと宣う夫人にとって、今のシュテーリアの振る舞いは許せるものではないだろう。
そもそも悲劇に見舞われても純真無垢で居られる者など居ようものかとシュテーリアは思っていた。もし居るのであれば愚かだとさえ思う。
悲劇が起きることを事前に知らされていたなら尚のこと。
悲劇を甘んじて受け入れるなど有り得ないし、あの手この手を使ってでも回避しようとするだろう。
それが腹黒い悪女になって回避できるものなら当然悪女にだってなる。
「ロトを側に仕えさせたいのであれば不要な口出しは控えて下さいませ。それと……いくら治癒士としての才をお持ちでも弁えることのできない方にわたくしの大切なエリーの家庭教師を任せることはできませんわ」
歯軋りでもしそうなラルゴット夫人の表情を見ながら、今度はシュテーリアが悠然とお茶に手を伸ばす番だ。
二回りほどの年齢差がありながら同等以上の立ち振る舞いを見せるシュテーリアを見ているのは何もエルテルのみではない。
ここはエアリステの邸内なのだから当然侍従の目もあるし、先程からは母が隠れて見守っている。
フェリシアの満足そうな笑みを見て少しだけホッとした気分を味わい、今一度ラルゴット夫人を眇見た。
「是非、今一度ご自分に与えられた領分を弁えて下さいませ」
そう一言だけを残して席を立ち、休息にならなかった休憩時間を終えたシュテーリアは聖誕祭に向けたドレスの打ち合わせの席へと向かった。




