第1話 まるで私は少女人形
カル・サルードとの出会いは五年前に遡る。まだラシケント宰相として、父親が健在であり、最も権勢を振るっていた頃に、私は父に随伴する形で初めてこの砂漠の国、エフェスの土を踏む事になった。
正直言って気は進まない旅行だった。ラシケントとエフェスはつい一週間前まで、互いに信じる宗教を巡って争い、終わりの見えない泥沼の戦争のさなかにあったのだ。二つの国の間にまたがる感情は、もはや犬猿の仲というレベルでは済まされない。
お互いの国民を見かけたら、相手が子供だろうと老人だろうと、その場でくびり殺されてもおかしくない。百年戦争と言われた程に何度となく小競り合いをしてきた二つの国が、歴史的な和平を結ぶと決まったのがちょうど七日前。そして、法皇の付き人として宰相である自分の父親が同行する事になったのだが、父は広い視野を持たせたいからと言って、私にその小旅行へ付いてくるように申し付けた。
普段から厳しい父だが、特に仕事や教育に関しては厳格で、その提案を拒む事などできはしない。あらゆる勉強、そして経験は、法皇様の為、国の為、民草の為であると言う。
私には自我など許されない。この国の目であり、この国の口であり、この国の足であり、この国の剣である。
水と緑溢れるラシケントと、そこに生きる千万を越えるラシケント人達によって、私は生かされている。彼らの為に生き、彼らの為に死ぬ。一日一度、多い日は三度、それを口にする事を強制されるのだ。
厳しすぎるその教育を愛だと言って、周囲の人々はほめそやす。父は自慢げに胸を張って、さも当然だと言いたげに咳払いをして、私は畏れ多いと頭を下げる。
毎日がそんな日々。くだらない日々。この父親を殺して、ついでに法皇をブチ殺して、それから私も死ねないだろうか。きっと楽しいに違いない。
そんな風に考えるけれど、考えるだけで実行に移す事はない。そんな根性があれば、父から叱られる事も無く、もっと上手に人形を演じる事もできるだろう。母はそんな私に、不憫だと言って泣いてくれるが、泣いてくれるだけで、何の解決にもなりはしない。
ああもう、本当に死んでくれないかな。明日? いや、今夜? いいや、今。そう、今すぐ死んでくれたら嬉しい。私は泣いてあげる。誰よりも上手に泣いてあげる。歌を忘れた金糸雀みたいに、悲嘆に暮れた振りをしながら、感極まって喉から血を吐いて泣きむせぶよ。
きっとみんな言ってくれる。エンドは良い娘だ。こんな良い娘に恵まれたヨシュア様は幸せな方だったと。ね? 素晴らしいと思うでしょう。グッドアイディア、だから死んで。
―ああ、現実は無情なり。
「エンド、支度はできたか」
「もう少しお待ち下さいお父様」
「早くするんだ。法皇様は既に支度を終えておられる」
二言目に出るのは『法皇様は~』が父の口癖。この小言をいちいち間に受けていたら、私は今頃発狂して死んでいるだろう。いや、その方が幸せなのかも知れない。むしろ、狂えない事こそが不幸なんじゃないだろうか。
使用人はよく、私が贅沢を言っていると言う。確かに私の寝るベッドは、使用人達が使っているものより広いし、仕立ても良いだろう。最高級の羊毛や、水鳥の羽を使ってふかふかにしてある。法皇様の使うベッドほどではないだろうけれど、この国でも五指に入るんじゃないだろうか。
毎日の食事だってスープに始まり、前菜から肉料理、果てはデザートに至るまで、一通りを誰かが常に用意してくれる。山海の珍味が常に食卓をにぎわし、美しい装飾が付いた銀食器でそれらをゆっくり味わう。
着ている服だって、都でも屈指の仕立屋が作っているらしい。花が付いたり星くずのように宝石がちりばめられたり、見た目に豪華なものも多い。だが、全てに於いて私に自由は無い。
あのベッドに寝て、あの食事をして、こんな服を着て、ただそれだけなら多分、皆が言う幸せというものに最も近いんだろう。思わず溜息が漏れる。
「まだかねエンド」
「ただ今まいります!」
見ろ。小うるさいお父様が一挙手一投足をチェックして、私が無駄な事をしていないか見張っているんだ。考え事をしている今この瞬間だって、手を止める事は無い。ぼんやりして良いのは夜の消灯時間から、起きるまでの間だけ。それまで私は戦争だ。生きるという名の戦線に立ち、見えない敵と戦い続ける。
「これでいいかな」
姿見の前に立ち、正装に乱れが無いかチェックする。使用人を使えばいいと父は言うけど、どこかの馬鹿なお姫様じゃあるまいし、私はそんな上等じゃない。
ふわりとスカートをなびかせ、片目を閉じて自分にウインク。
うん、いいじゃない。なかなか素敵だよ私。これが私の死に装束になるのかな。
唇に薄く紅をさし、くるりと背を向け部屋を出る。
「お待たせしましたお父様。参りましょう」
「ああ、後で法皇様にも謝るのだぞ。お待たせするなどもってのほかだ」
「はい。大変申し訳ありません」
からくり人形が喋るように、感情のこもらない声で返事をすると、馬車に乗り込んだ。
一般市民向けのものより広く作られているとは言え、その中は少し手狭だ。少し蒸れたような皮の匂いが鼻を突く。
姿勢を正すと、ぼんやりと窓の外に目を向ける。
流れて行く景色は、徐々に屋敷から遠ざかっていく。
さあ、これからつまらない旅が始まる。場合によっては死出の旅路だ。
がたごとがたごと、馬車が揺れる。まるで市場に連れて行かれる牛のような気分。
思わずくすりと笑ったが、父はそれを気に止めた様子も無かった。