1. 旦那様、その椅子は私のです
燭台の火が、低い所で揺れている。控えの間には私たちだけ。鏡の欠片に散った明かりまで、見慣れた高さより遠い。私の顔をしたアルヴィド様が、こちらをむっと見上げる。
見下ろす高さに慣れず、腕の長さも持て余す。私は、アルヴィド様の低い声で言い返す。
「旦那様。私の顔で、そんなに偉そうにしないでください」
白い結婚の初夜、割れた婚礼の鏡が、私たち夫婦の中身を取り替えてしまった。
目の前で私の顔をしかめているのは、夫のアルヴィド様。ついさっき、契約を読み上げたばかりの人だ。
契約を読むとき、アルヴィド様はご自身の声で、ためらいもなく告げた。
「妻の仕事は、笑って座っていることだけだ。互いの暮らしに干渉しない。愛情も求めない」
もう、一行目から無理だった。
二十三歳の伯爵令嬢、トゥーリア。注文のない暮らしを望んで嫁いだ私の、これが初夜である。並んだ夫婦の姿を家に残すはずの鏡は、誰も触れないうちに割れ、契約の紙だけが傷もなく残っている。
誰に、何から話そう。借りた手で説明の順を数えかけ……まず隣にいる私の姿をした人へ向き直る。
「明日から、お屋敷の皆様にも伯母様にも、私が説明して回るのですか? 鏡のことも、あなたのお顔で話す理由も! 誰に何を言えばよいかも分からないのに、笑ってお話ししろとおっしゃいますか?」
アルヴィド様が、可愛い私の眉をきゅっと寄せる。
「説明は、要る」
私は契約の紙を自分へ引き寄せ、揃っていた端を少し歪める。
「『要る』ことは分かります。その説明の用意も、私がするのですか? こちらの家のことは、まだ何一つ教わってもいません。あなたのお顔を借りたからといって、お考えまで私に伝わるわけではありませんよ?」
アルヴィド様が、私の手で紙の向きを戻す。
「違う。家のことは俺が引き受ける。君は君のことを話せ」
私は紙から視線を外し、言いかけた返事をのみ込む。
「……それなら、最初からそう言ってください。私、もう全部引き受けるつもりで、謝る理由までこれから探すところでした!」
アルヴィド様が、私の口元を小さく緩める。
「君が引き受けるのも早すぎる。まだ頼んでさえいないぞ。ははっ」
返す言葉がない。
私が黙ると、アルヴィド様も笑うのをやめる。互いに同じ紙へ視線を戻す。借りた袖の端を揃えながら、私は次の言葉を探す。
「では、私は、静かに暮らせれば……。いえ、先に、助けをお願いする先から決めませんか? 困ったときに頼れる方を、私にも教えてください。伯母様にも、事情を全部お話しするのですか?」
アルヴィド様が、閉じた扉を確かめる。
「明かせば、当主が本人か確かめられないと言われる。伯母上が返事を預かり、俺たちを別々の親類宅へ移しかねない」
中身のことまでは、誰も知らない。私が残る条を示すと、アルヴィド様が頷く。
「寝室は別だ。その条は変えない。部屋を出たら、顔に合わせて話す。家の用事は、相談して返そう」
縁談は、アルヴィド様が私を名指しして申し込んだものだ。実家は家格が釣り合うと受け、私は理由を聞かないまま、この人の名を借りることになる。
「あなたのお名前で約束するのは、戻ったあなたが守れることだけにします」
アルヴィド様が、紙を二人の間に置いて頷く。端をつかんでいた借りた手を、私はそっと離す。
◇
鏡の前で夜を明かすと、実家から付いてきた侍女のシグネが、朝の支度を確かめに来る。まだ部屋の中だから、私たちは素の声のまま振り向く。アルヴィド様が先に尋ねる。
「朝の予定を見せてくれ。挨拶があるなら、相手も知りたい」
立ち上がると、天井の梁がいつもより近い。私はシグネの方へ向き直る。
「支度は、どちらから整えていただけばよろしいですか? 少し段取りを変えることになりまして。皆様をお待たせしないように、私にできることがあれば教えていただけますか?」
シグネが、キョトンとした様子で私たちを順に見比べる。
「旦那様のお顔で、奥様のお尋ね方をなさる……奥様、でいらっしゃいますか?」
私は大きく頷き、急がずに答える。
「はい。鏡が割れてから、中身が入れ替わっています。まだ、私たちのほかには話していません。私の声ではありませんけれど、私です。……分かっていただけて、よかったです。朝から驚かせて、ごめんなさい」
アルヴィド様も、私の顔で頷く。
「そのとおりだ。外では、今までどおり顔の名で呼んでくれ」
「あれ……まぁ……」
シグネは目を閉じ、しばらく首をかしげていたが、一人うなずくと紙を広げた。折り目をまっすぐ伸ばして、シグネは私たちの前へ差し出す。
「ご説明より先に、こちらの予定表をどうぞ」
支度は、別々の部屋で整う。
婚礼の鏡を据えるために泊まっていた鏡職人も、駆けつけて欠片を覗き込み、枠を撫でてから告げる。
「欠けを合わせ、枠を直して磨きます。鏡のお直しには、これだけ掛かります」
鏡が直るまで、八週間。
直れば戻れるのか。その問いだけは声にせず、シグネと職人を鏡のそばに残して、食堂へ向かう。
廊下では歩幅が合わない。アルヴィド様は私の裾を踏みかけ、私はつい先へ出てしまう。先へ出た分だけ戻り、アルヴィド様が並ぶのを待つ。
食堂では、給仕が皿を並べ、伯母様がその順を示していた。皿の白さが朝の明かりを返す。当主の席の隣、妻の席にだけ椅子がない。私は、アルヴィド様の低い声を作る。
「伯母上、この支度は誰が決めた? 妻の席に、椅子が見当たらない」
伯母様は、ご自分の席を示す。
「家のために、私が整えました。あなたが当主を継いで仕事に専念するため、私に行事と親類の相談を任せたでしょう?」
アルヴィド様が、空いた場所の前で止まる。伯母様は、私の体の方へ向き直る。
「家のためです。妻は立ったまま給仕をなさい。座るのは皆が済んでからです」
アルヴィド様が、可愛い私の肩を小さく強張らせる。私のままであそこに立っていたら、椅子を探すより先に、足りない皿を探しただろう。給仕が伯母様を席へ導く間に、私は扉の側で声を落とす。
「あなたのお名前で、断ってもよろしくて?」
アルヴィド様は空いた場所を見てから、私に向く。
「俺が断れなかった分まで、頼む」
私は当主の歩幅で食卓へ戻り、伯母様と給仕に、椅子のない場所を示す。
「皆が済んでから、と言ったな。妻も皆の一人だ。立って給仕はさせない。食事は一緒に取る」
返事を待たず、壁際の椅子を当主の隣へ運ぶ。アルヴィド様の腕には軽い。置くときだけ、床を強く鳴らさないよう動きを緩める。伯母様が、匙を置く。
「家のために整えた順を、私への相談もなく変えるのですか?」
私は、置いたばかりの椅子を引く。
「妻の席は俺が決める。配膳は給仕に頼む。これからも、この並びにしてくれ」
アルヴィド様が、私の声をやわらかく整える。
「ありがとうございます、旦那様。では、こちらで一緒にいただきます」
アルヴィド様が、私の引いた椅子に座る。私の背筋を伸ばす仕草だけは、どうにもアルヴィド様のままだ。伯母様は、並んだ二つの椅子を見比べる。
「……当主がお決めになったのなら、仕方ありませんわね。お食事にいたしましょう。冷めてしまっては、せっかくの支度が惜しいですから」
伯母様が黙って食べ始め、妻の席にも温かい皿が置かれ、湯気が立つ。給仕が、当主の席へ封を一つ置く。
「明日は親類の方が、ご相談にお見えになります。こちらが、お預かりしたお知らせです」
食後、伯母様と給仕が下がる。アルヴィド様が予定表を眺め、私の顔で苦笑する。
「祝いの挨拶が続くんだな。笑って座っているだけで、今日一日が終わりそうだ」
私は一行目を軽く叩いてにこやかに言った。
「その『妻の仕事』、今日は旦那様がどうぞ」




