第九回 幻のオリエント
こんにちは、ヒスペディアです。本日から「教科書にケンカを売ってみる(世界史編)」、序章が終わり、「第一章 オリエントと地中海世界」へ入っていきます。第一章はメソポタミア文明の誕生からローマ帝国の崩壊までという非常に長い期間が扱われております。この第一章でつまづいてしまうと、後の時代を勉強することが苦しくなります。よく、歴史教育では「古代と中世ばかりを教えて近代を教えていない」という声が挙がります。私もこの意見には賛成いたします。しかし、かといって古代や中世を一切教えなくてよいというわけではありません。特に古代には、歴史の起源がいっぱいつまっています。現在の社会情勢を読み解くうえで重要なのは言うまでもありません。それでははじめていきましょう。
教科書では第一章の第一節が「古代オリエント世界」であり、その最初の項目「オリエント世界の風土と人々」にはメソポタミアの地理的環境が述べられている。その中の一文にはこのようにある。
オリエントとはヨーロッパからみた「日ののぼるところ、東洋」を意味し、今日「中東」と呼ばれる地方をさす。
オリエントと名付けられた経緯が簡単にまとめられている。ここで、ケンカ、というかイチャモンを売らせてもらう。
ヨーロッパ目線で語るんじゃねえ!
近代歴史学を発達させたのがヨーロッパである以上しかたのないことだが、あえてそう言わせていただいた。日本人を対象にした教科書でいきなりヨーロッパ目線を導入されても、日本人の読者は置いてけぼりを食らうだけである。そして、このように教科書に記載されていると、ある前提を生じさせている。それは、
①「ヨーロッパ=西洋」という認識すでに形成されている
②西洋と東洋は全く別の世界
この二つである。果たしてこの概念が生じたのは、いつごろなのだろうか。ヨーロッパの人々が世界をどのように区分していたかを考えていかなければならない。
学問が発達していた古代ギリシアにおいて考えられていた区分は
地域的区分
・ギリシアとエジプト
・ギリシアとペルシア
民族的区分
・ヘレネスとバルバロイ
(ギリシア人とギリシア語を読めない人々)
などがあったが、西や東といった方角による区分はなかった。
はじめて方角によって区分した人物は「光は東方より、法は西方より」という対句を用いた、古代ローマの歴史家ヴェルギリウスであるとされている。ただし、この場合における東方とはギリシア、西方はローマのことを指し、ギリシアより東は蛮族の世界であるという認識があった。ただ、「ヨーロッパ=西洋」という認識の源流になっていることは間違いなさそうだ。
この認識が完全に定着したのはおよそ10世紀から11世紀であると言われている。フランス叙事詩『ローランの歌』では「オリエント」という言葉が再び用いられているが、ヴェルギリウスの時代と違い、ここではイスラームの勢力圏という意味を表している。12世紀半ばにはドイツ(当時は神聖ローマ帝国)の歴史家オットー(通称フライジングのオットー)は、「人間のあらゆる力と知識」は西から東へ向かうと述べた。この頃には「東方」と「西方」という方角による区別意識がついてたといえよう。
「東洋」の定義は「大航海時代」以降、その際限がなくなって。やがて、コロンブスなどが到達目標とした「インド」は「極東」を意味する言葉となり、アメリカ大陸、中国、東南アジアを全般的に「インディアス」と呼んだ。それは「東洋」が「世界の最果」になったことを意味する。
そして、地球が丸いことが証明され、絶対的方角が存在しなくなった現在においても「東洋」「西洋」という言葉は残っている。これは、ヨーロッパが時間をかけて作り出した、「遠い存在」に対する意識の名残である。




