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僕は自転車を漕いだ。家を出て、適当に道を曲がり、とにかくこのくだらない町から出ようとペダルを漕いだ。僕はただ闇雲にペダルを漕いだ。全く、そんな事をしたのは、小学校の時以来だったよ。漕いでいる内に、この『世界』が僕の眺望に入ってきた。いつもの街が僕の目には、これまでとは全く違う風景に見えてきたんだ。思えば、これまで僕はあるルーティーンの中にいた。家ー学校ーコンビニー塾ー安達の家。それらのルーティーン。そして未来に目を向ければ、それは家ー会社ーコンビニーファミレスー居酒屋、みたいなルーティーンになるのかもしれない。そして老人になれば病院ー外ー病院のルーティーンだ。そして、死。くそったれ。僕は何だかそんな事を思って自転車を漕いでいたんだよ。僕は春物の薄手のジャケットを着ていた。僕がママチャリで疾走している姿は正しく、CMになるようなできだった。そのイメージにぴったりだった。それで、僕が河原の土手を駆け抜けた後に、『新生活 四月一日からセール』なんて白文字でかっこいいフォントで文字がバーンと出るんだな。全く、僕はその時ほんとに絵になってたよ。ほんとにさ。
僕はとにかくそうやって自転車を漕いでた。気づけば僕は川沿いに走ってた。僕は川に沿って土手の上を疾走していた。まさしく、『青春少年』のごとくね。…全く、僕はほんとにううんざりしていた。ほんとに。言っとくけど、僕は君にもうんざりしてたんだよ。何やかやとごちゃごちゃ言って、それでいつも他人面でああだこうだとうるさい君にもね。全く、君って奴は色々な事に口出す癖に、自分じゃ何一つやらないんだからな。「〇〇さん、ご成婚おめでとうございます」なんて書き込んだ後に君はすぐに、いつものエログロのネットサイトにアクセスしたりする。そしてその二つの行為の間に何ら、矛盾はない。…全くね。なんやかんやで僕は疲れたんだよ。ほんとに。君の存在を頭の中で思い描いて、それで君がごちゃごちゃ言ってくるのに、頭の中で反応して、それが疲れたんだよね。要するに、僕は自分自身に疲れたんだよ。だって要するに、君は僕の頭の中の存在にすぎないわけだからね。
それで僕は自転車を漕いだ。途中、一度こけたよ。僕ってば、チャリンコの操縦があんまりうまくないんだな。昔からそうだった。でも、僕がそうやってスリップしてずっこけて、自転車もろとも倒れた時、周囲には誰もいなかった。うっとうしい車も走っていなかった。僕の体は、道の外れの雑草の中に投げ出された。そして僕はすぐに立ち上がろうと思ったけど、でもそんなすぐに立ち上がらなくてもいいという事に気づいた。僕はその時、永遠にその草むらに寝そべっていたいと感じた。うんざりだったからね、全てに。でも、そういうわけにはいかなかった。何故って、僕は虫が嫌いだからね。すぐに、僕は草むらに棲息しているうじうじした汚らしい虫の事を考えちまったんだよ。その時。だから、僕はちょっとの間、多分一分かそこらそこに寝そべってから立ち上がった。それで自転車を起こして、よろよろと、まるで百三十五歳のお爺さんみたいな動作で自転車にまたがって、それでまた漕ぎ始めた。怪我はどこにもなかった。ちょっと膝を擦りむいたくらいでね。で、その時には僕はもう何か、上機嫌な気持ちになっていたんだ。本当に、僕はその時上機嫌だったよ。世界が開けてきたわけだ、この僕にも。まるでコロンブスが始めてアメリカ大陸を見つけた、その時のように。ほんとに。
僕はしばらく、川の土手沿いに進んだ。そんな所を自転車で走るのは小学生以来だったよ。僕は小学生の時、友達と一緒にこの川に沿ってどこまで行けるのか、二人で試した事があるんだ。そいつの名は伊地知って言って、良い奴だったよ。僕達はものすごく仲の良い親友だった。でも、しばらくしてそうじゃなくなった。二人の間に何があったのかは未だに分からないし、覚えてもいない。でもまあ、とにかくその時、僕らは目を真っ赤にして血相変えて、ただ土手沿いに走っていったんだ。当時流行っていたマウンテンバイクに乗ってね。僕らは、本当にどこまでも進んでいったね。その時。どこまでも、どこまでも。でも、途中で僕が音を上げたんだ。「疲れた」って。伊地知はそんな僕を見て、「じゃあ、帰ろうか」って言った。その瞳は優しくてね。僕はその目が今も忘れられない。僕らはその時、土手に座って休んでいた。辺りはもう夕光に包まれていた。今思えば、あれは正しく『少年冒険譚』だったね。当時はそう思わなかったけど。「帰ろう」って伊地知がまた言った。で、僕らは帰った。家についた時はもう暗くなっててね、親父に思い切り怒られたよ。それきり、この土手道は通っていない。
まあ、そんな事を思い出しながら僕はチャリンコを漕いでいった。僕はその時にはもう割りと浮かれた気分だったからね。色々な事がどうでも良くなっていた。その時には、僕はまだ家に帰るつもりはなかった。もう、どうでもよくなっていたからね。それで、僕はしばらく漕ぐと、疲れたんで、コンビニの位置をスマートフォンで調べて、それでそこに寄っておにぎりとお茶を買った。水分補給とエネルギー補給。でも、そのコンビニ出た辺りで、僕はスマートフォンなんて便利なものを持ってきた事を後悔していた。だって、それがあれば自分の位置がわかってしまうし、どこからかくだらない電話やメールがかかってくるかもしれない。ものすごくくだらない、どうでもいい電話やメールがさ。ちなみに、世間で蔓延しているメールや電話の97%は、全部くだらないしどうでもいいものだね。これは断言できます。そして残りの三%も、見方を変えればやっぱりくだらない、どうでもいいもの。これもまあ、断言できるかな。僕はまあ、そういう気分だったわけさ。君には分かるだろう?。…僕はコンビニを出ると、また土手に戻った。そしてそこからすぐの、川に沿ったグラウンドみたいなところに行って、そこのベンチでお茶を飲み、おにぎりを食べた。実を言うと僕はもう疲れていた。僕ってば、全然筋肉がないんだよ。だからすぐにへばっちまってね。僕はパクパク食って、ごくごく飲んだ。そしてその時には、ぼんやりと家に帰る事を考えていた。僕はもう帰る事を考えていたんだ。正直に言うとね。人間、なかなか自分で張った網の中から出られないものだね。困った事に。
僕はお茶のペットボトルを手に持ちながら、ぼんやりと目の前の誰もいないグラウンドを見ていた。春の陽が当たって、全ては穏やかだった。僕は、これまでに自分が捨ててきたものについて思いを馳せていた。思えば、僕は色々なものを捨ててきた。そのものの価値も自分でよく分かっていもいなかったのに。例えば、少年野球。僕は、君は驚くかもしれないが、実は少年野球チームに入っていたんだよ。まあ、ピッチャーになれなくてすぐにやめちゃったけど。僕は少年野球というのは始めれば、ピッチャーになれるものだと思っていた。そしてバタバタとバッターを三振にしていく図をイメージしていた。でも、現実はそうじゃなかった。「お前は勝手なんだよ」、と小学校低学年の僕に、チームメイトの真島君は言ったな。「お前は勝手すぎるよ」。今では、真島君がそう言ってくれた事に感謝してる。…でも、小学校低学年の僕には少しばかりきつい言葉だったかな。でも、そういう全てはもう過去になってしまった。僕は十六才。十六才で、何も大した事は経験していないのに、僕はもうおじいちゃんのような気持ちだった。まるで、戦争を五回ぐらい戦い抜いて、人間の悲哀と滑稽を全部眺めた老人のような気持ちがしていた。僕はそういう気持ちがしていた。ほんとに、そういう気持ちがしていたんだよ。ほんとに、ね。
僕はそういう茫洋とした気持ちで、春のグラウンドをじっと見ていた。すると、僕の目に急に涙が浮かんできた。僕は自分が泣いている事を知ったーー。うんざりだったよ。その自分の涙にね。僕はね、センチメンタルな事が嫌いなんだよ。君も知っての通り。二十四時間テレビなんかでは、やたらとセンチメンタルを強制されたりするけど、それは全て、クソみたいなプロデューサーと広告会社によって計算されたものなんだ。何秒でどんな事が起こり、どのタイミングでCMに行くのか。そういう計算された全てを考えながら、涙を流す事なんてできやしない。うんざりなんだよ、計算されたセンチメンタリズムにはさ。だけど、その時の僕は涙が止まらなかった。多分、その時、僕はこれまでの自分の存在に涙を流していたのだと思う。これは、後から思った事だけど。僕以外の誰一人として、僕という存在を哀れんでやる奴がいなかったので、代わりに僕自身が僕に対して涙を流したというわけだ。全く、どうしようもないね。僕はそんな僕が哀れだという事を知っていた。でも、どうしようもないだろう?。一体、これ以上、僕にどうしてほしいって言うんだ?。
僕はひとしきり涙を流した。しばらくの間、僕は一人で馬鹿みたいに泣いていた。馬鹿みたいに。それで、やっと泣き終わると、僕は立ち上がった。そしてふいに、自殺してやろうと思った。どこかに、僕の手首を掻き切る丁度いい金属片か何かないかな、と周りを見渡したけど、僕の周りには何もなかった。でも、そこにはその代わりに素晴らしい物ーーその時の僕の気分に見合った素晴らしい物があった。それはぼろぼろの汚い硬球だった。僕はそれをおもむろに拾った。そして、僕はワールドシリース初戦に向かうエースピッチャーのように緊張した面持ちで、グラウンドの真ん中へと歩いて行った。僕はどんどんと歩いて行った。そして、僕は川の方に向かった。僕は外野のネットを通りすぎて、そして川に向かった。川幅はかなり広かった。対岸の下流の方で小学生達がボールを蹴って遊んでいるのが見えた。僕は思ったよ。僕にも、あんな頃があったんだって。でももし、僕が『あの頃に戻りたいのか?』と神様に聞かれたとしても、僕は『ノー』と答えただろうな。間違いなく。それで、僕はそのボールを思い切り、その川の上流に向かって投げた。それは間違いなく、僕の人生のハイライトだったね。そうさ、そのへっぽこの投球が、僕の人生の中で最も輝かしく、そして最も愚かしい一瞬だった。その一瞬は、東大の合格発表よりもずっと美しく気高く、そしてアホらしい瞬間だった。まあ、僕の心の目から見れば、って事だけどね。俗人から見れば、そんな場面には何の価値もないさ。でも俗人から見ればあらゆるものに何の価値もないんだろうけど。
ボールは少しだけ川をさかのぼって、ポチャンと音を立てて水面に落ちた。川は穏やかなものだったよ。僕はその投球を終えると、少し放心した状態になった。そして僕は、「よし、よくやった」と自分で自分につぶやいた。後から考えても、何がどう「よくやった」のかさっぱり分からなかったけど。でもまあ、とにかく僕はその時、そう思ったわけだ。僕はね。で、僕は次に思ったんだ。『もう、帰ろう』って。実際、もう帰らなきゃいけない頃合いだった。どうやら、僕はまだこのくだらない人生を生きなきゃならないらしいな、とそう僕は思った。それは実際、くだらない事だけどね。でもまあ死ぬよりはマシだ。そうだろう、君?。
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さて、それから二週間して、今になった。僕がね、このわけのわからないひとり語りを思い立ったのは、あのグラウンドでのクソみたいな投球があったおかげだと思っているんだ。そう、そのおかげだとね。あの後、僕は一人でとぼとぼ自転車漕いで、それで家に帰ったんだよ。それでいつもと変わらないような感じで、両親と妹に接した。母さんは「あら、遊びに行ったわりには早かったわね」と言ってたけど、でもそんなに疑ってなかった。それで僕も生返事して、シャワーを浴びたんだ。…全く、その時に僕は思ったんだよ。シャワーを浴びて、ぴちぴち水が跳ねる音を聞きながらね。『こいつはもう人生変えなくちゃならないな』って。僕はそう決意した。僕は、ゴールを決めた後のイタリア人ストライカーみたいに、胸に十字を切って、その事を自分自身に誓った。でも、僕は分かってた。そんな事をしても自分の人生が決して変わらないという事が。僕はもう知っていたんだ。何をしようと、犯罪をしようと彼女を作ろうと友達を作ろうと受験勉強に必死に取り組もうと何をしようと、何をしようと変わらないっていう事が分かっていた。僕はそんな茫洋とした気持ちのまま、ずっと過ごしたんだ。二週間ほどね。それで、ふいに二日前に、思いついたんだよ。そうだ、何かを書こう、って。僕は何かを書かなけりゃならない。とにかく、この世界に圧縮されて解き放つ事のできなかった自分を解放できる、そういう何かを書かなくてはならない、ってね。それで、僕はこの文章ーーこいつを書いたんだよ。そう、その為にこいつを書いた。いや、語った。僕は語った。とにかくべらべらと。僕はとにもかくにも、語ったんだ。ここで、自分を。それは君も分かるよね?。君にはその事がよく分かるはずだ。きっと。そう、とにかく僕は語った。自分を。自分の事を。このクソッタレな日常に押しまくられていた自分を解き放つ為に。全部がクソッタレだという事を告発しながら。
でも、僕の話はここで終わり。僕のこの言葉には、何の意味もない。僕はその事を知っている。自分でも、僕はよく分かっているんだよ。高校二年生の、ガリガリでひょろひょろのしょうもない僕がこんな事をべらべら喋っても、何の意味もないって事がね。僕はその事をよく知っているし、こんな事をノートパソコンにこんな風にして打ち込んでいるくらいなら、それぐらいならさっさと女の子にモテるための努力を始めた方がいいって事もよく知っている。でもね、まあ、なかなかどうしようもないんだよね。この辺りの事情はさ。この辺りはなかなか本人にしかわかんないものだと思うけどね。うちのクラスで斉藤って奴がいて、こいつは女友達がたくさんいて、いつもコンドーム持ち歩いている、なかなかに「イケてる」男なんだけどさ。別に顔がかっこいいって事もないけど、でも、態度が気さくでいいんだよね。で、僕はこいつに一度モテる為の秘訣を聞いたんだよ。こっそりね。そしたら、こいつ、なんて答えたと思う?。「秘訣?。そんなの簡単さ。女の子に一生懸命尽くす事だよ」って。さすが、モテる男は違うな、って僕は思った。正直にね、その時僕は感心したんだよ。でも、それと共に、「じゃあ僕はモテなくてもいいや」って素直に思った。本当に、僕はそう素直に思った。それが、僕の駄目な所なんだろうね。全く。
でも、まあいいか、とも僕は思っているんだ。だって、君が僕のこの長話を三日に渡って聞いてくれたわけだから。すまないと思っているよ、僕も。こんなにくだらない話べらべらと喋って。でも、僕には語る事が必要だった。それは、君にも凄くよく分かると思う。うん、君は分かる。僕はアンネ・フランクの日記を読んだ事があるけど、あんな感じかな。街路で砲火が聞こえているような状況で、アンネは自分のノートに「ねえ、キティ。今日、嫌な事があったの…」って記す。そういう感じ。雰囲気。そんな気がするんだよ、今、僕がやっている事も。まあ、僕のこの語りに、『アンネの日記』ほどの文化的価値があるかどうかは疑問だけどね。でも、まあいいんじゃないか。僕は僕だから。僕はとりあえず、これだけ自分を語った。僕は少しだけ満足さ。そう、少しだけ、ね。
さて、明日から僕はいつも通り、学校に行こうと思う。…実の所、今日は学校をサボったんだよ。これを書くために。風邪だって嘘ついてね。そうさ、母さんには僕は風邪で寝込んでるから、あんまり部屋に入ってくれるなと言っておいてね。僕はまあ、不良生徒だね。忌野清志郎の『トランジスタ・ラジオ』。僕はあの曲が好きなんだよ。もう「トランジスタラジオ」なんて誰も知らないだろうけど。
さて、では、僕のこのくだらない独白もここで終わりにしようか。そろそろ。このお遊びも、ここでおしまい。僕はもうここで去るよ。僕はね、県内のとある高校に在籍している、平凡な高校二年生なんだよ。君は、僕の存在を疑っているかもしれないけど。だって、今ここにあるのは、この僕の言葉だけだからね。だから、君は僕の存在を疑っている。でもね、君に一つだけ、最後に言っておくけど、そんな疑いなんてものが一体なんだい?。僕は利口な奴が嫌いでね。なんでも裏をひっくり返して、それでわかったような顔をする。でも、『裏』だって誰かが作ったものかもしれないじゃないか?。君は、どう思う?。…まあね、とにかく、僕はこんな風に存在しているんだよ。本当に、実在の高校二年生としてね。僕は平凡だけど、確かに僕として生きている。あ、でも、この六十億だかいる、うじゃうじゃとした人類の数から見れば、僕なんてのはほんとに存在していないも同然かもしれないけどね。時々、僕は自分の身にそういうものを感じる事がある。つまり、僕は存在していないも同然じゃないのか、って。そう思う事はあるね。だから、まあ、この僕なんてのも、もしかしたら実際に存在していないのかもしれないね。だって六十億分の一なんて、もういないのも同然じゃないか?。ほんとに。うんざりするけどさ。でも、例えそうだとしても、僕がここに残したこの言葉、それだけは真実だ。僕はそう思うね。うん、僕は断然そう思う。僕はそう思うんだよ。ほんとにね。
それでは、ほんとに、君とはここでサヨナラだ。多分、君と会う事はもうないだろう。もしこの先、君と僕が会う事があっても、君は僕の事など知らないし、僕も君の事を知らない。僕がここで出した名前というのみんな、実際の名前をもじった偽名だし、あるいは君はそれが偽名であるか本当の名前なのかも確かめる術はない。僕はね、まるで霧のような存在なのさ。晴れれば消えてしまう、そんなやつ。でも、僕がこうしてここで叫んだっていうのは事実だよ!。それだけは事実だね。それでは、また。君と僕がこの先、現実生活で会う事があっても、君は僕の事を知らないし、僕も君を知らない。お互いすれ違って、それっきり。でも、それでいいと思うんだよ。僕は。ほんとにね。それでは、サヨナラ!。サヨナラ!。また。
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…僕はノートパソコンに以上のテキストを打ち込むと、「ふうー」と溜息をついた。こんな事を書いて、それが一体何の役に立つだろうか?。僕はそう自問してみる。もちろん、何の役にも立たないだろう。僕はその事を知っている。だが、学校での僕は……、いや、こんな事は考えたくない。学校での僕はただ、世界にがんじがらめに拘束されているに過ぎない存在だ。ただ、それだけの事だ。それ以上の事は全部、嘘だ。
僕はノートパソコンのフタをゆっくりと閉じると、蒲団の横に置かれたペットボトルのお茶と食べかけのおかゆに目を注いだ。僕は今、風邪を引いているという事になっている。母さんにはそう伝えておいた。僕はこのくだらないテキストを打ち込む為に、わざわざ学校をサボったのだ。僕は今、十六才だ。そして、今の僕にはどこにも出口はない。そう、どこにも出口はない。
僕はしかし、今書いたテキストに自分の魂を込めた。少なくとも、そのはずだった。そんな事に意味があるかどうかは分からないが、少なくとも、僕はこの三日間とても真剣だったはずだ。人から見れば、ふざけているようにしか見えなかったとしても。
僕は天井を見上げて、そして「はあ」と溜息をついた。僕の今後の人生はどうなるだろうか。十六才。日吉西高等学校。安達に秋川。それから、僕が好きだった吉川さん。高校に入った途端に一気に不良化した吉川さん。彼女に何が起こったのかは分からないが、しかし、彼女の中で何かが起こったのだ。彼女に変化を促す何かが。そして、それが何かは僕は知らなかった。しかし、吉川さんが変わってしまったという事実を知るだけで、僕にはもうそれで十分だった。よく考えれば、僕は彼女をそんなに好きではなかったのだ。僕はそんな風に自分を説得する事に成功していた。
それにしても、くだらないな、と僕は思った。何もかもが愚劣だ。とりわけ、この僕が。こんなくだらない文章を書く僕が。今の僕には、なんというか、カフカの気持ちがよくわかった。彼が自分の原稿を燃やしてくれと親友に頼んだ時、彼はその時に自分の人生も一緒に燃やしてくれ、という事も頼んでいたはずだ。だけど、僕にはそんな親友はいない。一人も。僕の破滅を託せる相手は、一人もいない。
だから、このテキストは自分で消すしかないのか。
だが、僕はそうはしなかった。僕はちょっとしたためらいと、ごく簡単な推敲の後、上記のテキストをある、小説投稿サイトにアップロードした。それが、誰のどんな反響も呼び起こさないだろう事は僕はよくわかっていた。でも、これが少なくとも、僕の短い人生の、その生きた証となるのだ。この十六年の、その人生の記念としての。
とはいえ、僕は死ぬつもりはなかった。僕は上記のごく些末なテキストだけを残して、そしてそれを(一応)世の中に出したら、それ以降はもう普通の高校生に戻るつもりだった。そう、あのアルチュール・ランボーのように。僕は砂漠を行くランボーのように、もう普通の高校生に戻るつもりだった。僕はこれからは、誰よりも率先して、一番馬鹿げた事に首を突っ込み、受験勉強を一生懸命にして、それからクラスのちょっと頭の足りない女の子と付き合って、デートしたりする事だろう。僕はこれから、そのように生きる。上記のくだらないテキストだけを、僕の墓標にして。さよなら、僕。
さあ、明日から僕は普通の高校二年生だ。従って、僕は幸福だ。そうだ、僕はこれからはもう幸福だ。だって、僕はこれからはもう、誰よりも『普通』なのだから。
そうだ、そういう事さ。そういう事。僕は立ち上がって、そして自分の部屋から出て行った。母親に見つからないようにして(見つかってもいいけど)、コンビニにお菓子を買いに行くつもりだった。そして、もう二度とこの部屋に帰ってくるつもりはなかった。つまり、この部屋はあくまでも、これまでの僕のものであったのであり、僕がこれから住む世界は、これまで僕が生きていた世界にとても似ているにしても、しかし、それはそれまでとは全く違う何かなのだ。そういう事だ。
僕は部屋を出て行った。そして家を出て行った。そして、二度と家に帰る事はなかった。
僕は『普通の高校二年生』となったのだ。今や。




