第一話 世界で一番、愛された子(前編)
――その森には、風が歌うという。
木々の葉が擦れ合う音ではない。
小川のせせらぎでもない。
世界の始まりからこの地に根を張る一本の巨樹が、訪れる命を祝福するときだけ奏でる、誰にも真似のできない旋律だった。
人族はその森を《精霊の森》と呼ぶ。
獣人は《母なる森》と畏れ。
ドワーフは《天蓋樹海》と記し。
そして、この森に住まう者たちは、ただ静かに《故郷》と呼んだ。
森の中心には、空を貫くほど巨大な一本の樹が立っている。
その幹は町一つを丸ごと包み込めるほど太く、枝は雲を支え、根は大地そのものへ溶け込むように広がっていた。
――世界樹。
何千年も前から生き続ける、生きた神話。
その枝先では、今日も数え切れないほどの妖精たちが羽を震わせ、朝露を浴びながら楽しそうに飛び回っていた。
『今日は静かだねぇ。』
『うん。』
『でも、なんだか世界樹様がそわそわしてる。』
『珍しいよね。』
妖精たちの視線の先。
巨大な世界樹は風もないのに葉を揺らし、ざわり、と森中へ魔力を巡らせていた。
その様子を見ていた年嵩の妖精が、小さく笑う。
『そりゃそうさ。』
『?』
『今日はアルヴィンの家で子が生まれる日だからねぇ。』
一瞬。
森が静まり返った。
次の瞬間。
『えぇぇぇぇぇっ!?』
『本当!?』
『あの二人に!?』
『やっと!?』
『何千年待ったんだっけ!?』
『うーんと、うーんと、すごいいっぱい!』
『……数えるのをやめたくらいだよ。』
妖精たちが一斉に舞い上がる。
それもそのはずだった。
ハイエルフは長命である代わりに、子を授かることは極めて稀だ。
一組の夫婦が一生を共にしても、子に恵まれないことも珍しくない。
ましてや、森中の誰もが祝福するような夫婦――アルヴィンとフィリアの間に新しい命が宿るまで、途方もない年月が流れていた。
だから今日という日は、この森にとって祝祭にも等しい。
妖精たちは花びらを集め始め、鳥たちは囀りを変え、小動物たちは家の周囲に集まり始める。
誰に命じられたわけでもない。
ただ、この日を祝いたかった。
森そのものが、新しい命を待っていた。
◇ ◇ ◇
「……大丈夫。落ち着いて。」
「落ち着いている。」
「震えてますよ?」
「これは違う。」
「何が違うんですか。」
家の外では、金糸の髪を後ろで束ねた青年が、落ち着きなく家の前を歩き回っていた。
整った顔立ちに、森の若者たちが憧れる長身。
普段は冷静沈着で、魔物相手でも眉一つ動かさないと言われる男。
アルヴィン・エルディア。
そんな彼の肩に、小さな妖精が止まる。
『アル、歩きすぎ〜。』
「……そうか?」
『地面に道ができそう。』
「……そんなに歩いたか?」
『百二十七往復。』
「数えてたのか。」
『暇だったから!』
妖精はけらけら笑う。
アルヴィンは頭を抱えた。
「私は父親になれるだろうか。」
『今さら?』
「泣かれたらどうしよう。」
『抱っこする。』
「抱っこで泣き止まなかったら?」
『フィリアに渡す。』
「それは最後の手段では?」
『いや、最初だよ?』
「…………。」
アルヴィンは真顔で考え込んだ。
その様子を見て、妖精たちは一斉に笑い転げる。
『親バカになる。』
『絶対なる。』
『もうなってる!』
『生まれる前から親バカだもん。』
そこへ、家の扉が勢いよく開いた。
「アルヴィン!」
助産師の女性だった。
アルヴィンの顔色が変わる。
「フィリアは!」
「母子ともに無事です!」
一拍置いて。
「元気な女の子ですよ!」
その言葉を聞いた瞬間だった。
森中を吹き抜ける風が、優しく音を変えた。
世界樹の枝葉が一斉に揺れ、無数の光が空へ舞い上がる。
花々が一斉に咲き誇り、小鳥たちはまるで歌うように囀り始めた。
『生まれた!』
『生まれたよ!』
『おめでとう!』
『可愛いネ!』
妖精たちは歓声を上げながら花びらを降らせる。
アルヴィンはその場に膝をついた。
安堵と、喜びと。
胸いっぱいに込み上げる感情が溢れ、視界が滲む。
「……ありがとう。」
誰へ向けた言葉だったのか、自分でもわからない。
フィリアへ。
生まれてきてくれた娘へ。
それとも、この日を迎えられた奇跡へ。
ただ一つだけ確かなのは――。
「父親、か。」
その一言が、胸の奥へ静かに染み込んでいく。
妖精たちはそんな彼を囲みながら、くすくすと笑う。
『泣いてる。』
『泣いてるね。』
『まだ会ってないのに。』
『会ったらどうなるんだろ。』
『森が洪水になるかも。』
『キャー大変!』
「聞こえてるぞ。」
『わざとだよ〜』
からかいがバレた妖精たちは一斉に飛び立ち、赤子の誕生を祝いながらも、父親になった不器用なアルヴィンへのからかいをしっかりしていく。
思わず苦笑したアルヴィンは、涙を拭って立ち上がる。
娘に会うために。
人生で一番、大切な一歩を踏み出した。
その頃、小さな揺り籠の中では――
「……ふぇ。」
生まれたばかりの少女が、ゆっくりと小さな指を動かしていた。
(……あれ。)
真っ白だった意識に、一つ、また一つと記憶が浮かび上がる。
(ここ……どこ?)
そして、少女はまだ知らない。
その小さな瞳が開いた瞬間から、世界は少しずつ動き始めることを。
まだ名前のない、小さな妖精もまた。
世界樹の根元で、誰よりも早くその存在に気付き、胸を高鳴らせていたことを。
次の更新は7/15に。




