第56話 急ぐ手紙でも、馬を潰して届けるな
追掛郵袋が長卓へ運ばれたあとも、蒼汰の頭には一つだけ引っかかっていることがあった。
守
何だ
本当に二回落ちたんだよな
一回だ
さっきのコンラートさんは二回って言ってたぞ
二回目は目的地で降りただけだ
走ってる途中で?
少し速度は残っていた
それを普通は落馬って言うんだよ
着地はした
転がったんだろ
勢いを逃がした
父の言い訳は、聞けば聞くほど苦しくなっていく。
蒼汰が額を押さえていると、冬城が次の名簿を手に近づいた。
蒼汰様
うん
次の方をお通しします
王都駅馬院元継馬監
エルマー・ハーゲン様です
守様へ王府監査便用の休養馬を貸し出し
その後、守様ご本人よりも馬の状態を先に確認した方になります
父さんより先に馬を?
当然だ
守が頭の奥で答える。
走ったのは馬だからな
乗った人間は二回落ちたけどな
一回だ
応接室の扉が開く。
馬と乾草の匂いが入ってきた。
土。
革。
油。
干した草。
冬場の厩舎で炊かれる温かな飼葉。
中央に立っていたのは、身体の大きな老人だった。
七十代後半ほど。
背は高く、肩も広い。
年齢のため少し腰は曲がっているが、脚の開き方が安定している。
長く馬の横へ立ってきた者の姿勢だった。
黒の礼装の上には濃い茶色の外套。
胸元には、馬の頭と二本の交差する道を象った銀の徽章。
右手には節くれ立った木杖。
だが歩行を支えるためというより、馬を誘導する短杖をそのまま使っているように見えた。
後ろには若い駅馬吏が二人。
一人は厚い継馬記録簿。
もう一人は細長い木箱と、茶と白の旗包みを抱えている。
冬城が告げる。
王都駅馬院元継馬監
エルマー・ハーゲン様です
守様に
王府監査便用の馬、ノルト号を夜間追掛便へ回されたご当人になります
エルマーは蒼汰へ深く一礼した。
奏多蒼汰殿
私はエルマー・ハーゲン
王都駅馬院で四十二年間
継馬と御者の休養管理をしておりました
そして守殿に
急ぐ手紙のためでも、馬の明日を奪うなと教えられた者です
蒼汰は少し目を瞬いた。
父が馬を無理に走らせた話だと思っていた。
だが今の言葉は、逆だった。
守
何をしたんだ
走らせた
それは聞いた
ただし
走れる区間だけだ
エルマーが椅子へ座る。
机の上へ継馬記録簿が置かれた。
馬名。
年齢。
体重。
蹄鉄交換日。
前走行距離。
飼葉量。
休養開始時刻。
次回予定。
ノルト。
雄。
黒鹿毛。
当時六歳。
前走行なし。
休養十分。
翌朝、王府監査官移送予定。
その横へ赤字で追記されている。
夜間臨時追掛。
第一中継駅まで。
騎乗者、奏多守。
乗馬技能、要監督。
蒼汰は最後の一行を見る。
乗馬技能、要監督って書かれてるぞ
守が頭の奥で言う。
乗れはした
上手いとは書かれてないな
移動できれば十分だ
二回落ちてるけど
一回だ
エルマーが記録簿を開いたまま話し始める。
あの夜。
中央逓送院から
監査便用の駅馬を貸してほしいと連絡が入りました。
使用目的は
出発済み郵便馬車への追掛。
本来であれば拒否します。
駅馬には
翌日の予定が組まれている。
どの馬を。
どの距離。
どの速度で走らせ。
何時間休ませるか。
一頭だけ予定を変えれば
翌日の便だけでなく、次の中継駅の配置まで崩れる。
ですが守殿とコンラート殿が
直接、厩舎へ来られました。
守殿は
一通の手紙を今夜の便へ戻したいと説明しました。
私は手紙の内容を尋ねませんでした。
郵便は
中身を見なくても運ぶものです。
ですが封筒の外へ書かれていた一行だけは見ました。
帰ってこい。
家はまだ、お前の家だ。
エルマーは少し目を伏せる。
私はノルトを出しました。
その時点で
ノルトは十分に休んでいた。
飼葉も食べ。
水も飲み。
蹄にも問題はない。
夜間第一中継駅までなら
無理なく走れる状態でした。
父さんが無理やり奪ったわけじゃないんですね
鍵は勝手に取ったが
馬は借りた
守が答える。
何で水道の鍵だけ扱いが雑なんだよ
人間の持ち物だからな
馬は人間の持ち物じゃないのか
馬は馬だ
蒼汰は一瞬、返す言葉を失った。
父なりの区別があるらしい。
エルマーが続ける。
問題は守殿でした。
騎乗姿勢を確認すると
上半身へ力が入りすぎている。
手綱も短い。
夜道を急げば
馬の口を傷める乗り方でした。
私は御者を付けるべきだと申しました。
ですが使える御者はいない。
そこで守殿へ
第一中継駅までの乗り方だけを教えました。
手綱を引いて速度を落とそうとするな。
身体を起こせ。
脚で馬へしがみつくな。
下り坂では無理に走らせるな。
そして最も重要なこと。
手紙が急いでいても
馬の呼吸が乱れたら止まれ。
守殿は何と答えたと思いますか
蒼汰は頭の奥へ聞く。
何て言ったんだ
守が答える。
止まってる間に追いつけなくなったら困る
最悪の返事じゃないか
そのあと
別の馬へ替えればいいと教わった
エルマーが厳しい表情で頷く。
その通りです。
守殿は最初
一頭で第二中継駅まで走るつもりでした。
ノルトなら
走ろうと思えば走れます。
ですが。
走れることと
走らせてよいことは違う。
第一中継駅まで全力で走った馬を
そのまま第二中継駅へ向かわせれば。
手紙には間に合っても
翌日、ノルトは歩けなくなる可能性がある。
私は守殿へ言いました。
一人を帰す手紙のために
一頭を帰れなくするつもりか、と。
応接室が静かになる。
蒼汰は父の気配を探った。
守は何も反論しなかった。
その言葉
効いたんだな
ああ
すぐ方針を変えた?
変えた
珍しく素直だな
相手が正しい時はな
蒼汰は少しだけ笑った。
エルマーが記録簿の地図頁を開く。
王都から第一中継駅までは
夜道で一刻半。
第一駅から第二駅までは
さらに一刻。
守殿はノルトで第一駅まで走り。
そこで必ず別の馬へ乗り換える。
ノルトは第一駅で水を飲ませ。
身体を拭き。
翌朝まで休ませる。
そう約束しました。
実際
第一中継駅へ到着した時。
ノルトはまだ走れる状態でした。
呼吸も。
脚も。
蹄も。
守殿は
このまま行けると言いました。
蒼汰は額を押さえた。
約束した直後じゃないか
守が言う。
ノルト自身は走る気だった
馬の気持ち分かるのかよ
前へ出ようとしてたからな
それでも替えたんですよね
はい
エルマーが答える。
第一中継駅の馬番が
私の指示書を守りました。
ノルトの手綱を受け取り。
代わりに灰毛の駅馬、リーゼ号を出した。
守殿は少し不満そうでしたが
乗り換えました。
そしてリーゼ号から
一度落ちました。
二頭目で落ちたのかよ
鞍が違った
守が答える。
馬のせいにするなよ
してない
私の確認不足だ
少しは反省してるんだな
コンラート殿によれば
二回落ちたそうですが。
エルマーが淡々と続ける。
一度目は
王都を出てすぐです。
蒼汰はゆっくり目を閉じた。
父さん
あれは落ちてない
じゃあ何だ
門の横木を避けて
身体をずらしたら地面が近かった
それを落ちたって言うんだよ
ノルト号から一度。
リーゼ号から一度。
合計二度。
エルマーが記録簿を指で叩く。
駅馬院の公式記録です。
守が黙った。
これで長かった落馬回数の争いにも、ようやく決着がついた。
蒼汰は少し笑いながら尋ねる。
それでも手紙には間に合ったんですよね
はい。
第二中継駅で
夜間第一便へ郵袋を戻しました。
ですが話は
そこで終わりません。
守殿は
リーゼ号へ乗って王都へ戻ろうとしました。
何でだ
借りたから返す必要がある
守が当然のように答える。
中継駅の馬なら、そこで休ませればいいだろ
リーゼは第一駅の馬だ
第二駅まで来たから
戻さないと配置がずれる
蒼汰は少し黙った。
父は手紙を届けて終わりにはしなかった。
使った馬。
変えた配置。
ずらした翌日の予定。
そこまで戻すつもりだった。
エルマーが続ける。
ですがリーゼ号も
第二中継駅まで走ったばかりです。
すぐ折り返せば
無理をさせる。
守殿は歩いて戻ると言いました。
馬を引いて?
はい。
第二駅から第一駅まで
リーゼ号の手綱を持ち、歩いた。
コンラート殿は
自転走具で先に戻ったそうです。
途中で何度も
馬へ乗ればよいと言った。
ですが守殿は乗らなかった。
急ぐ用事は終わった。
なら、馬は休ませろ、と。
蒼汰は頭の奥へ呼びかける。
父さん
何だ
そこはちゃんとしてるんだな
借りた馬を潰したら
次の手紙が運べなくなる
自分の身体は?
歩けたから問題ない
またそれかよ
第二中継駅から第一駅まで。
冬の夜道を馬と歩く。
郵袋を追った時より、よほど時間がかかっただろう。
リーゼ号を第一駅へ戻したあと。
守殿は
ノルトの様子を確認しました。
自分は二度転び。
膝と肩を打っていたのに。
先に馬房へ入った。
呼吸。
脚の熱。
蹄。
鞍擦れ。
口元。
問題がないと確認したあと
初めて自分の傷を見せた。
二回って認めたぞ
守が頭の奥で言う。
転んだだけだ
落馬は一回だ
まだ続けるのかよ
エルマーの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
守殿の膝は腫れていました。
肩も擦りむいていた。
ですがノルトに異常がないと分かると
その場へ座り込み。
馬房の壁へ寄りかかって眠りました。
また床で寝たのか
床ではない
守が答える。
藁があった
もっと悪い気がする
馬房は暖かい
父さん
暖かければどこでも寝床扱いしてないか
屋根もあった
宿場の話と同じ理屈を自分へ適用するなよ
エルマーが若い駅馬吏へ合図する。
細長い木箱が机へ置かれた。
中に入っていたのは、古い蹄鉄だった。
片側が少し削れ。
二つの釘穴には赤い糸が通されている。
札には。
ノルト号。
夜間追掛便。
第一中継駅帰着確認。
これは
あの夜、ノルトが付けていた蹄鉄です。
翌月の定期交換まで
問題なく使われました。
守殿が無理をさせなかった証として
保管していました。
蒼汰は蹄鉄へ触れる。
冷たい鉄。
人間の手紙とは違う。
言葉も。
名前も。
返事も運ばない。
それでも、あの一通を間に合わせた脚の一部だった。
エルマーは静かに続ける。
王府監査便は
翌朝、半刻遅れました。
ノルトを休ませたためです。
監査官は激怒しました。
なぜ監査より
私信一通を優先したのか、と。
守殿は答えました。
監査官は遅れても目的地へ着く。
あの手紙は遅れたら、宛先人が目的地から消える。
監査官は納得しましたか
全く。
それでも
遅延報告書を読んだあと。
監査対象を
駅馬院の運用ではなく、緊急追掛便制度へ変更しました。
結果。
夜間緊急便に使用した馬は
翌日の予定から外してよい。
代替馬がない場合
監査便や公務便を遅らせてもよい。
ただし
馬の健康記録と、緊急性の証明を必ず残す。
新しい規定が作られました。
蒼汰は小さく頷いた。
まただ。
父が一度だけ勝手に変えた順番を。
次から誰かが勝手に変えなくても済むよう。
正式な制度へ直した。
エルマーが茶と白の旗包みを開く。
王都駅馬院旗。
茶色の地に白い馬。
その前後へ、二本の道。
馬の足元には、小さな水桶が刺繍されている。
本式の日。
駅馬院は
この旗を半旗とします。
また夜間追掛便用として
一頭分の枠を空けます。
ですが。
空けた馬を
儀礼のために走らせることはしません。
本当に明日では遅い郵便。
薬。
帰還者の迎え。
行方不明者の発見報告。
必要が生じた時だけ走らせます。
そして走った馬は
翌日の通常便から外し。
水。
飼葉。
蹄。
筋肉。
呼吸。
全てを確認するまで
次の便へは出しません。
守殿が
ノルトを走らせた区間まで。
守殿が
リーゼを歩いて戻した距離まで。
急ぐ理由があっても
馬の帰還まで忘れないためです。
蒼汰は父の棺の方角を見る。
父さん
どうだ
守が答える。
いいと思う
注文は?
馬番の休憩も記録しろ
やっぱりあるのかよ
馬が休んでも
人間が連続勤務なら意味がない
蒼汰はエルマーへ伝える。
父さんが
馬番の休憩も記録しろって
エルマーは目を閉じた。
静かに頷く。
それも
すでに追加しております。
あの夜。
私たち馬番も
守殿が戻るまで起きていました。
しかし翌朝
通常通り働いた。
結果、若い馬番が一人
昼に倒れました。
守殿は
馬だけ見ていた自分の不足だと申しました。
頭の奥で守が低く言う。
あれは悪かった
蒼汰はそのまま伝える。
父さんが
悪かったって
エルマーは小さく首を横へ振る。
私も同じです。
だから現在の規定では。
臨時便が出た場合
馬だけではなく。
御者。
馬番。
門番。
中継吏。
全員の代休まで
運行記録へ含めます。
守が少しだけ黙る。
それなら
今度こそいい
蒼汰は笑った。
今度こそいいって
エルマーの厳しい顔が、わずかに和らぐ。
はい。
私も
今度こそそう思います。
最後に、一枚の紙片が差し出される。
父の字だった。
急ぐ時ほど、走れるものを全部走らせるな
次の道まで残せ
届けた者も、運んだ馬も、帰して終わりだ
蒼汰は何度も読み返した。
父は、自分の身体だけは残さなかった。
そこだけは相変わらず矛盾している。
馬は休ませる。
馬番の休みも制度へ入れる。
次の便へ必要なものを残す。
それなのに自分は。
二十分だけ目を閉じ。
泥と灰まみれで夜道を走り。
落馬し。
馬を引いて歩き。
馬房の藁で眠る。
守
何だ
父さん
人にも馬にも休めって言えるのに
何で自分には言えなかったんだ
守はすぐに答えなかった。
応接室の中で。
エルマーも、冬城も静かに待っている。
やがて父が言った。
私が止まると
止まるものが多いと思ってた
実際は?
頼めば
動くものが多かったんだろうな
蒼汰は目を伏せる。
今日だけでも分かった。
父が一人で背負っていたものを。
多くの人が、自分の役目として引き受けてくれた。
父がもっと早く頼めていたら。
馬の代わりはいて。
馬番の交代もいて。
道を描く者も。
門を開ける者も。
水を残す者もいた。
父自身が止まっても。
全てが止まるわけではなかった。
エルマーが立ち上がる。
守殿。
あの夜
ノルトを走らせたことを
私は後悔しておりません。
ですが。
あなた自身を
馬房の藁で眠らせたことは後悔しております。
守が頭の奥で言う。
あれは私が勝手に寝た
蒼汰が伝える。
父さんが
自分で勝手に寝たって
それを止められなかったことを
後悔しているのです。
エルマーの声は穏やかだった。
馬は
自分で今日は休むと言えません。
疲れていても
手綱を引かれれば走る。
だから私たちは
走れる状態と、走らせてよい状態を見分ける。
守殿。
あなたも同じでした。
頼まれれば動き。
道があれば進み。
倒れるまで止まらない。
私たちは
あなたが走れることだけを見て。
走らせてよいかを
考えるのが遅すぎました。
応接室が静まり返る。
守は何も答えない。
蒼汰も、代わりに言葉を作らなかった。
父自身が受け取るべき言葉だと思った。
長い沈黙のあと。
守が小さく答えた。
……そうかもしれない
蒼汰はそのまま伝える。
そうかもしれないって
エルマーは深く頭を下げた。
はい。
ですから本式の日は。
馬だけでなく
私たちも休む者を決めます。
守殿を送るために
誰か一人が倒れるような運行はしません。
守が答える。
それがいい
今度は蒼汰が伝えなくても、エルマーには分かったようだった。
老人は一度だけ父の棺へ向かって礼をし。
応接室を出ていった。
扉が閉まる。
乾草と革の匂いが残る。
蒼汰は机の上の蹄鉄を持ち上げた。
守
何だ
二回落ちたんだな
……二回だ
やっと認めた
一回目は着地に失敗しただけだ
それを落馬って言うんだよ
父は最後まで完全には認めなかった。
だが声には、少しだけ笑いが混じっていた。
冬城が蹄鉄と旗を長卓へ運ぶ。
そして次の名簿へ目を落とす。
蒼汰様。
次の方は
王都北東街道第一夜橋の橋守です。
守様とコンラート様の追掛便を通すため。
夜間封鎖済みだった橋を
一度だけ開け直した方になります。
蒼汰は顔を上げた。
まだ同じ夜が続くのか
守が頭の奥で答える。
第二中継駅へ行くには
橋を渡る必要があった
閉まってたんだろ
ああ
どうやって開けた
橋守を起こした
それだけ?
最初はな
蒼汰は嫌な予感がした。
追掛郵袋を乗せた馬は。
閉じた郵便路を走り。
休ませるべき馬を途中で替え。
今度は。
夜間封鎖された、凍りつく橋の前へ辿り着いていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になる、面白かったと思っていただけましたら、ページ下部からブックマークと評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さまの応援が、今後の更新の大きな励みになります。




