【第39話】遠く聞こえるその後の声と、三人の訪問者
第一〇八観測所に大山脈の雪解けの音がいくつも運ばれてきた夜のことだった。
わたしがいつものように魔導通信機の前で『聴き耳』を澄ませていると、途切れ途切れの風のノイズの奥から、とても懐かしい波長が聴こえてきた。
(……母ちゃん、美味いよ。やっぱり母ちゃんの麦粥が一番美味いよ)
それは、大吹雪の夜に寒さと死の恐怖に泣き叫んでいた、あの若い新兵――麦粥くんの声だった。
(……芋がごろごろ入っててさ、塩気がきいてて……うっ、うぅ……帰ってこれて、本当によかった……っ)
鼻をすすりながら、温かい麦粥を涙と一緒に飲み込む音が、確かな体温を持ってわたしの耳に届く。
そして別の夜には、少し離れた別の村の風から、あのしわがれたぶっきらぼうな声も聴こえてきた。
(……けっ、今年の畑の土は固えな。おい、倅! 鍬の入れ方が甘いぞ! ……まあ、あの凍った泥を掘るよりは、なんぼかマシだがな)
手袋のおじさんの声だ。
風が運んできた情報をつなぎ合わせると、どうやらあの猛吹雪の夜の暴走を隠蔽するためか、あるいは水面下で何らかの密約が交わされたのか、彼らが所属していた前線の部隊そのものが静かに解体されたようだった。
彼らは最前線の塹壕に銃を置き、それぞれの故郷の村へと帰されていたのだ。
「……よかった。本当によかった……」
わたしは通信機の前で、安堵の涙をポロポロとこぼした。
大龍脈の力を借りて唄を届けるという、魔女の法に背いた大魔法。
それがどれほど無謀で、途方もない決断だったとしても。
わたしが乗せた『祈り』は、確かに彼らをあの凍てつく地獄から、温かい食卓へと帰したのだ。
誰にも知られることのない、魔女としての初めての「誇り」が、わたしの胸の奥で静かに、けれど力強く灯った。
◆◆◆
あの大吹雪の夜からちょうど一年が経とうとする、秋の終わりのことだった。
大山脈は再び木々を色付かせ、第一〇八観測所の周りに広げた畑は、信じられないほどの豊作を迎えていた。
わたしは収穫した大量の葉野菜を前に、袖を捲り上げて冬支度に精を出していた。
今年もたくさんの壺漬けを仕込むのだ。
ふと、北の山肌を撫でて吹き下ろしてきた風のノイズに、わたしは手を止めて『聴き耳』を澄ませた。
(……さあ、壺漬け休みだ。冬になる前に、十分な量を仕込むぞ!)
それは、厳しい冬を前にした北の国の人々の、活気に満ちた喜びの声だった。
驚いたことに、全く同じような声が、南のチュニア側からも風に乗って聴こえてくる。
(……壺漬け休みだ! 今年もいい白菜が採れたぞ!)
わたしは思わず、ふふっと笑みをこぼした。
政治や思想、そして国境線という暴力がどれだけ人間を分断しようとも、その土地に根ざした「食」と「営み」という文化の根っこは、決して切り離すことはできないのだ。
二つの国に分断されても、一つの国だった頃の豊かな文化はこうして確かに続いている。
同じ声で笑い、同じ時期に壺漬けを仕込む。
その匂いこそが、彼らが元はひとつの民であったことの何よりの証明だった。
「マイヤさん、聴こえる? 両方から同じ声がするわ」
『ええ。人間というのは、本当に食い意地が張っていて逞しい生き物なのよ』
◆◆◆
そんな穏やかな午後。
行商のヤンさんが定期便を持ってくる日でもないのに、山小屋の重い木の扉が、控えめに、しかし確かなリズムでノックされた。
こんな森の奥深くに、迷い人が来るはずもない。
わたしはマイヤさんと顔を見合わせ、少しだけ警戒しながら扉の閂を外した。
「……はい、どちらさまですか?」
重い扉を細く開けたわたしの目に飛び込んできたのは、分厚い防寒具に身を包み、肩に白い雪を乗せた三人の見覚えのある人物だった。
「やあ、アルセア君。突然の訪問を許してほしい。こんな山奥まで来るのは、骨が折れたよ」
チュニアの若きエリート外交官、ウエダさま。
「お久しぶり、です。アルセア君。お元気そうで、なによりです。この山は、故郷より雪深い、です」
帝国の誇り高き貴族にして外交官、ティゲール閣下。
「ほっほ。どうやら、君の美味しい手料理の匂いに引き寄せられてしまったようですな」
そして、柔和な笑みを浮かべた年老いた賢者、サディク大使。
帝都で言葉を交わした彼らが、なぜか揃いも揃って、極秘の軍事施設であるこの観測所の前に立っていたのだ。
「えっ……ウエダさま!? ティゲール閣下に、サディク大使まで! どうしてここに……!」
わたしは目を丸くして、三人を慌てて山小屋の中へと招き入れた。
暖炉の火がパチパチとはぜる音だけが、静かな室内に響いている。
温かい薬草茶を淹れて勧めるわたしに、三人は深く頭を下げてそれを受け取った。




