【第38話】春一番の風が運ぶ、新しい命を大地に祈る風習
あの夜明けのあと、山小屋に戻ったわたしは『協会』の魔導通信機に向かい、「第一〇八観測所、吹雪止む。異常なし」とだけ短く報告の電信を打ち、そのまま泥のようにベッドに倒れ込んだ。
北の軍は結局動かず、開戦という最悪の事態は未然に防がれたのだから「異常はなかった」というのは紛れもない事実である。
その前夜に「猛吹雪にて各所注意されたし」と警告を送っていたこともあり、わたしの報告は極めて自然なものとして処理されたはずだ。
けれど、大龍脈に直接接続し、『原初のことば』を風に乗せて拡散させるという神話の時代の大魔法を行使したのだ。
地脈に通じた高位の魔女たちならば、大地の底で尋常ではない魔力のうねりが起きたことには確実に気づいただろう。
場合によっては、他の場所にいる『聴き耳の魔女』たちに、わたしが歌ったあの里唄がはっきりと『聴かれて』いた可能性だって十分にある。
禁術にも等しい大魔法の無断行使。
あるいは、大規模な思考誘導。
どんな罪状で協会から呼び出され、過酷な処罰を受けることになってもおかしくない結末だった。
わたしはしばらくの間、いつチュニアから査問の使者がやってくるかと、びくびくしながら夜を過ごした。
しかし――結果から言えば、わたしに対する処罰や、何らかの呼び出しは一切なかった。
春が来て、夏が過ぎ、再び山が色づく季節になっても、チュニアの魔法協会からはただの一度も、あの大吹雪の夜の出来事について咎めるような連絡は来なかったのだ。
◆◆◆
かくして、第一〇八観測所でのわたしの生活は、再び穏やかな発酵の匂いとともに回り始めた。
猛威を振るった冬が去り、分厚い雪の下から春の息吹が顔を出す頃。
秋に土魔法で整え、豊穣の祈りを込めておいた畑からは、信じられないほど力強く、そして瑞々しい葉野菜や根菜たちが一斉に芽吹いた。
厳しい雪山の冷たい土の中でじっと耐え抜き、大龍脈のわずかな熱を吸い上げて育った野菜たちは、チュニアの温暖な気候で育ったものよりもずっと甘みが強く、味が濃かった。
初夏にはそれらを収穫し、行商のヤンさんが運んでくれた大きな素焼きの壺にたっぷりと仕込んだ。
チュニアの唐辛子とニンニク、それに森で採取した幾つかの薬草を風味付けに加え、温度管理には細心の注意を払う。
大山脈の澄んだ冷涼な空気は、ゆっくりと時間をかけて旨味を引き出す「発酵」という魔法に、これ以上ないほど適していた。
「うん、最高の出来栄えだわ!」
数週間後、蓋を開けた壺の中から漂ってきたのは、酸味と辛味、そして奥深い旨味が完璧に調和した、素晴らしい香気だった。
一口かじれば、野菜の心地よい歯ごたえとともに、滋味あふれる味わいが口いっぱいに広がる。
『……まあ、悪くないわね。でも、わたしのサーモンペーストには敵わないのよ』
傍らでヤンさんからの献上品を舐めながら、マイヤさんが少しだけ悔しそうに鼻を鳴らす。
「強がらないで、マイヤさん。昨日、わたしの分のお皿からこっそり葉っぱを一枚盗み食いしていたの、知っているんだからね」
『ニャッ!? そ、それは毒味をしてあげただけなのよ!』
そんな賑やかなやり取りをしながら、季節は巡っていった。
もちろん、ただ壺漬けを醸してばかりいたわけではない。
わたしは『聴き耳の魔女』としての本来の任務も、しっかりとこなしていた。
毎日欠かさず魔導通信機の前に座り、風が運んでくる声や、飛び交う暗号文の解読(主にマイヤ大先生によるものだが)にあたった。
けれど、あの夜を境に、北の軍の動きはパタリと止まっていた。
相変わらず厳しい訓練の号令は聴こえてくるものの、あの悲痛な飢えの嘆きや、「吹雪に乗じて南を襲え」というような狂気を帯びた暗号詩文が拾われることは、ただの一度もなかった。
山の向こうからは、ただ淡々とした日常の営みと、兵士たちの穏やかな会話だけが風に乗って運ばれてくるようになったのだ。
まるで、あの夜に降った雪が、すべての殺意と分断の火種を、白く覆い隠して溶かしてしまったかのように。
◆◆◆
長く厳しかった冬が終わりを告げ、大山脈にもついに「春一番」と呼ばれる強い南風が吹き荒れる季節がやってきた。
雪解けの匂いを孕んだその強風は、国境を越えて北の国からも様々な『声』を観測所へと運んでくる。
「……土を掘る音、そして集団の低い声。何かを埋めている……?」
集音機に手を当て、わたしは微かに眉をひそめた。
風のノイズの中に混じって聴こえてくるのは、スコップで固い土を掘り返すような規則的な音と、複数の大人たちが何かを呟きながら集まっている気配だった。
場所は、国境から少し離れた平原の村のようだ。
(まさか、雪解けを待って新しい地雷や兵器を埋設しているんじゃ……)
緊張感が走り、ペンを握る手に力が入る。
もし軍事的な隠蔽工作であれば、すぐに協会へ報告しなければならない。
『……やれやれ、春の風であなたの耳まで鈍ってしまったのかしら』
緊張するわたしの足元に、優雅な足取りで近づいてきたのは、銀灰色の相棒だった。
マイヤさんはわたしの膝に飛び乗ると、集音機にスッと鼻先を近づけ、目を細めた。
『ただの赤ん坊のお祝いよ。小さな布を土に埋めて、土の神様に挨拶しているだけなのよ』
頭の中に直接響いたその呆れたような念話に、わたしは全身の力を抜いて深く息を吐き出した。
「赤ん坊の、お祝い……?」
『ええ。新しく生まれた子猫……じゃなくて人間の子供の、最初の産着を土に埋めているのよ。この大地で健やかに育つようにって、家族や村のヒトたちが祈っているのよ』
マイヤさんの言葉を聞いて、わたしはもう一度、目を閉じて風の音に『聴き耳』を澄ませた。
――ああ、本当だ。
それは軍事的な暗号でも、物騒な作業音でもない。
新しい命が無事に生まれたことを喜び、春の訪れとともに大地の加護を祈る、温かくて厳かな村人たちの祈りの声だった。
「……よかった。軍の動きじゃなかったのね」
わたしは安堵の笑みを浮かべ、机の上の指定羊皮紙を引き寄せた。
『第一〇八観測所。北の国の軍に特筆すべき動きは見られず。異常なし』
簡潔に公式の報告書を書き終えると、それを脇へ退け、引き出しの奥から使い込まれた革表紙の『裏の手帳』を取り出す。
そこへ、トヨノ語で少し弾んだ文字を書き記していく。
『北の平原の村では、子供が生まれると『最初の産着』を土に埋めて、大地の加護を祈る風習があるようだ。春一番の風に、村人たちの温かい祈りの声が乗って聴こえてきた』
ペンを滑らせながら、わたしはふと、古都の協会で学んだ分厚い歴史書の記述を思い出した。
「ねえ、マイヤさん。この産着を土に埋める儀式って、西の旧教区に伝わる『土着の洗礼』っていう古い風習と、構造がそっくりなのよ」
『そうなの?』
「ええ。西側ではもう一部の田舎でしかやっていないけれど、大地から命の祝福を受けるっていう根本的な考え方は全く同じだわ」
わたしは手帳の余白に、興奮気味に追記をした。
神の雷で世界が引き裂かれ、言葉が通じなくなって数万年。
互いを恐れ、いがみ合っているというのに、命の誕生を祝い、大地に祈るその『形』は、東西で全く同じまま残っているのだ。
彼らは決して、理解し合えない野蛮な怪物なんかじゃない。
わたしたちと同じように、新しい命を愛し、祈る人間なのだ。
「やっぱり、世界は元々一つだったのね。言葉が違っても、こんな風に文化の根っこが繋がっているなんて……本当に素敵なことだわ」
わたしが手帳を見つめながら感動に浸っていると、マイヤさんがわたしの手帳の上にぽすんと前足を乗せた。
『人間の文化が繋がっているのは結構なことだけれど、わたしとあなたの契約もちゃんと繋がっていることを忘れないでほしいのよ』
「え?」
『素晴らしい翻訳をしてあげたのだから、とっておきの報酬の時間のはずよ。今日の夕食は、春告げ魚の干物を焼いて柔らかくむしって欲しいのよ』
灰緑の瞳でじっと見つめてくる気高き『先生』に、わたしは吹き出してしまった。
「ふふっ、ええ、わかっているわ、マイヤさん。貴重な資料になったことだし、腕によりをかけて焼かせてもらうわね」
わたしは秘密の手帳をそっと引き出しにしまい、外の暖かな春風の匂いを感じながら、キッチンへと向かった。




