【第34話】ノイズに混じる日常と、故郷の麦粥を恋しがる声
ヤンさんが運んでくるのは、食料や物資だけではない。
軍の検閲を掻い潜り、彼がこっそりと懐に忍ばせて持ってきてくれる「手紙」は、極寒の地に隔離されたわたしにとって、何よりの精神的な支えだった。
「ほら、アルセアさん。帝都のお友達と、チュニアの南部にいるお知り合いからだよ。絶対に内緒にしておくれよ」
「ありがとうございます、ヤンさん!」
ヤンさんが帰った後、わたしは暖炉の前に座り込み、擦り切れた封筒をそっと開けた。
一通目は、帝国の豪奢な便箋。
エルネスタからだ。
『親愛なるピクルスマイスターへ。
あなたが去ってから、帝都はすっかり秋めいてきました。
あの後、あなたから引き継いだ壺の管理はわたくしが完璧に行っておりましてよ。
あなたの残したあの壺漬けは、今や帝都中の貴婦人たちの間で「奇跡の若返り薬」として密かなブームになっていますの。
在帝国チュニア大使の肝いりで、一部の商会などは販売をはじめたようですが、あなたの壺漬けにはかないませんわ。
ヴァルド子爵などは、どこから嗅ぎつけたのか「ピクルスマイスターの壺漬けを高く買うから譲ってくれ」と何度も使いをよこす始末で……本当に困ったわ。
我が家の料理人達もあなたの壺漬けの再現を試みているけれど、どうにもひと味足りないみたいですの。
おつとめももちろん大事ですけども、どうかご無事で帝都にまた戻っていらして。
――千の峰、万の谷が我らを分かとうとも、見上げる天蓋はただひとつ。
――距離は眼差しを遮れど、繋がりし心の灯火を消すことはできない。
――我が祈りは冬の星々となりて、見えざる友の行く先を暖かく照らさん。
どこにいらしても、あなたはわたくしたちの誇り高き友人ですわ。
遠い空の下にいるあなたの無事を、心から祈っております。
エルネスタより』
流れるような美しい帝国公用語の文字から、エルネスタの誇らしげな声と、貴婦人たちが扇子で口元を隠しながらピクルスを頬張る光景が鮮明に浮かび上がってくる。
わたしは思わずくすりと笑い、そしてもう一通の手紙に手を伸ばした。
こちらはチュニアの南部で働くユアンからだった。
古都の協会の寮で二年間、同じ部屋を分け合った親友であり、チュニアが誇る「医食の魔女」の若き精鋭だ。
『親愛なるアルセアへ。
風の噂で聴いたわよ。
あなたが帝国での大役を終えて、今は北部で「聴き耳」を澄ませているって。
春休みにわたしの実家で一緒にスープを囲んだあの日、あなたは「いつか世界中の声を聴いてみたい」って言っていたわね。
今、その願いを叶えているのね。
覚えている?
古都の寮で、わたしの机が壺と唐辛子で埋め尽くされて、あなたの教科書の置き場がなくなっちゃったこと。
あの時、わたしの拙いトヨノ語をあなたが優しく聴き取ってくれたから、わたしはホームシックにならずに済んだのよ。
今のわたしがあるのは、あの狭い部屋であなたと一緒に食べた「不安を払うスープ」と、あの時あなたが褒めてくれたわたしの「醸し」のおかげ。
今はわたしも南の協会で、医食の魔女として忙しくしているけれど、いつだってあなたの無事を祈っているわ。
北の冬は厳しいでしょう?
心まで凍らせないようにね。
次に会う時は、南の最高級の薬草とスパイスを持っていくわ。
また朝まで語り合いましょう。
あなたの友人ユアンより』
ユアンの、凛としていながら包み込むような温かな言葉。
古都の寮で、部屋の半分を壺と乾燥唐辛子で埋め尽くしていた彼女の情熱的な姿が、まぶたの裏に鮮明に蘇る。
わたしが異国での暮らしに自信を失いそうになった時、いつも美味しい料理と、魔法のような壺漬けで心を癒やしてくれたのはユアンだった。
彼女の料理には、食べる者の不安を払い、明日への活力を与える「医食の魔法」が込められていたのだ。
ユアンの真っ直ぐで温かい言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
帝都の華やかなサロン。
チュニアの賑やかな市場。
どちらも、わたしが愛し、絆を深めた大切な場所だ。
手紙を胸に抱きしめ、窓の外に広がる深く冷たい針葉樹の森を見つめる。
わたしが今いるこの場所は、世界の果てのような寂しい雪山だ。
けれど、あの平和で温かい日常を守るために、わたしはここで冷たい風の音を聴き続けなければならないのだ。
彼らの笑い声が、鉄と火のノイズにかき消されてしまわないように。
手紙から伝わる確かな体温は、わたしが背負っている見えない盾の重さを、誇り高い使命感へと変えてくれていた。
◆◆◆
第一〇八観測所でのわたしの任務は、ただ風に乗ってくる声に耳を澄ませることだけではない。
部屋の片隅に鎮座する、あの真鍮の歯車と水晶でできた魔導通信機。
本来はチュニア北部の協会と連絡を取り合うためのものだが、この機械は同時に、国境を行き交う様々な電信や暗号文を拾い上げる「受信機」としての役割も果たしていた。
風が運んでくる生の声と、通信機が拾い上げる無機質な暗号。
この二つを媒介にし、情報のすり合わせを行うことで、初めて正確な敵情を報告することができるのだ。
しかし、北の国が使う暗号の解読は一筋縄ではいかなかった。
基本的には比喩や暗喩を用いた、短い詩文の形式がとられている。
おまけに、こちらの受信機は北の協会との通信以外には明確な指向性を与えることができないため、拾える北の国の電信は常にノイズまみれで、途切れ途切れだった。
「ええと……『凍れる白樺の枝に、三羽の鴉がとまる時』……? だめだわ、マニュアルのどの項目にも当てはまらない」
ぼんやりと赤く熾る暖炉の火を背に、わたしは机にかじりつき、事前ブリーフィングで渡された分厚い解読書をめくりながら頭を抱えた。
難解を極める暗号詩文の前に、わたしの語彙力と想像力は早くも限界を迎えていた。
そこで頼れるのが、やはりこのお方である。
『……やれやれ。たったそれだけの隠語も分からないなんて先が思いやられるのよ。それは北の国の古い方言で「三日後の夜明け、第三部隊が渡河する」っていう意味の比喩なのよ。鴉は夜明けの使者、白樺は凍った川の隠語に決まっているのよ』
暖炉の前の特等席で、前足を優雅に舐めながら、叡智の塊のような銀灰色の猫はあっさりと答えを出してしまった。
人間たちが知恵を絞って編み出した難解な暗号詩文も、何万年も前から気ままに世界を渡り歩き、人間の古い言い回しや方言まで観察し続けてきた猫の耳にかかれば、なんてことはないのだ。
つまるところ、帝都の豪華なサロンから極寒の雪山の観測所に場所を移しても、マイヤさんはわたしにとって、大変優秀で有能な「大先生」のままだったのである。
「マイヤさん、あなた本当にすごいわ……! これで今日も誤報を出さずに済むわ」
『当然よ。わたしの耳と知識に感謝することなのよ。……ところで、今回の報酬をちゃんと用意しているか心配なのよ』
「ふふっ。ヤンさんが特別に仕入れてくれた、鳥の高級な燻製肉よ。塩気も少なくて、とってもいい香り」
『悪くないのよ』
かくして、第一〇八観測所には、今日も香辛料の発酵する匂いと、高級な肉や魚の匂いが仲良く漂っているのである。
◆◆◆
だが、大山脈の風が運んでくるのは、無機質な暗号や軍事司令部からの命令だけではなかった。
夜の静寂が深まる時間。
わたしが魔力を高めて集音機に触れていると、分厚い風の壁の向こう側から、特定の波長――ある小さな部隊の「ささやかな日常会話」を、ノイズに混じって継続的に傍受してしまうようになったのだ。
(……くそっ、さっむいなあ。おい、おじさん、足の指の感覚がないよ……)
北の訛りが強い、まだ声変わりすら完全には終わっていないような、若く細い声。
(……馬鹿野郎、動かさねえからだ。ほれ、俺の古手袋を貸してやる。破れてるが、ないよりマシだろ)
それに答えるのは、しわがれてぶっきらぼうな、初老の男の声だった。
(……わりい。恩に着るよ。あーあ、早く家に帰って、母ちゃんの熱い麦粥が食いてえなあ。芋がごろごろ入っててさ、塩気を少しきかせたやつ……)
(……けっ、こんな時に食い物の話をするな。余計に腹が減るだろうが)
それは、最前線で塹壕を掘らされているであろう、敵国の一兵卒たちの他愛ない会話だった。
最初はただの雑音として処理しようとした。
けれど、毎夜毎夜、同じ時間帯に聴こえてくる彼らの愚痴や冗談、そして故郷を恋しがる声を聴いているうちに、わたしは無意識のうちに彼らの無事を祈るようになってしまっていた。
わたしは心の中で、その若い兵士を「麦粥くん」、面倒見の良い初老の兵士を「手袋のおじさん」と密かに呼ぶようになっていた。
(……なあ、おじさん。俺たち、本当に南の奴らと殺し合うのか?)
ある夜、麦粥くんの声が、震えるように風に乗ってきた。
(……バカ言え。俺たちゃただの農民だ。畑を耕す手で、人を殺してたまるかよ。偉いさんたちが満足したら、とっとと国境線からおさらばしてやるさ)
手袋のおじさんの言葉の裏には、強がりと、そしてごまかしきれない深い疲労の波長が滲んでいた。
胸が締め付けられるようだった。
彼らは「敵」だ。
開戦の合図があれば、チュニアへ向けて銃を撃ち、ユアンたちの平和な市場を火の海にするかもしれない存在だ。
頭では分かっている。
分かっているのに。
わたしの『聴き耳』は、彼らが冷たい泥の上で震えながら、ただ家族の元へ帰る日を夢見る「生身の人間」であることを、痛いほどに聴き取ってしまっている。
もし、北の軍が動いたという報告をわたしが協会へ打てば。
チュニア軍の圧倒的な防衛砲火によって、あの麦粥くんも、手袋のおじさんも、間違いなく肉片となって冷たい雪山に散るだろう。
わたしが、彼らを殺す引き金を引くことになるのだ。
「……ッ」
わたしはペンを握る手に力を込め、小さく震える唇を噛み締めた。
平和を守るための盾になる。
そう誓ってここへ来たはずなのに、その盾は、名前も顔も知らない無数の命をすり潰すための、巨大な刃でもあったのだと、わたしは静かに、けれど確実に実感し始めていた。




