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【第33話】凍える塹壕の愚痴と、密かに記し続ける裏の手帳

 そうしたやりとりを何度か繰り返し、行商工作員のヤンさんが、荷馬車を引いて雪道を帰っていくのを見送った後。


 山小屋の中には、彼が軍の検閲を掻い潜りこっそり持ち込んでくれた、帝国の高級な魚のオイル漬けの香りが漂っていた。


『ふふん。今日のオイル漬けは、脂の乗りがなかなか悪くないのよ。あのヤンというヒトは、本当に見どころがあるのよ』


 暖炉の前で、マイヤさんがヒゲについたオイルをペロペロと舐めながら、ご満悦な様子で喉を鳴らしている。


「ヤンさん、マイヤさんのために特別に手配してくれたんですからね。ちゃんと感謝してくださいね」


 わたしは苦笑しながら、部屋の片隅にある魔導通信機と集音機に向かった。


 大山脈を越えて吹き下ろしてくる冷たい北風。


 わたしはそっと目を閉じ、集音機に手を当てて『聴き耳』を澄ませた。


 風が運んでくるのは、雪と土の匂い、そして北の境界線で警備についている兵士たちの、ノイズまみれの声だ。



(……おい、今年の冬は来るのが早えな。足の先から冷えてきやがる)


(……ああ。こんな夜は、かあちゃんが漬けた大根の甘酢漬けが食いてえなあ)


(……ちがいねえ。あの甘酸っぱくてカリカリしたやつ。あれがあれば、ちびちび酒が飲めるのになあ)



 それは、凍える夜の塹壕で身を寄せ合う、若い兵士と初老の兵士の他愛ない会話だった。暗号でも、軍事的な命令でもない。


「……甘酢漬け、ね」


 わたしは目を開け、羽ペンを手に取った。


『……ただの食べ物の愚痴よ。飢えの兆候というほど深刻じゃないわ。純粋な郷愁なのよ』


 マイヤさんが特等席から、欠伸混じりの念話を送ってくる。


「ええ、分かっているわ。ありがとう、マイヤさん」


 わたしは机の上に置かれた、指定の羊皮紙を引き寄せた。


 そこへ、帝国公用語で簡潔に書き連ねていく。


『第一〇八観測所。北の国の軍に特筆すべき動きは見られず。異常なし』


 これが、わたしが中央の『協会』に提出するための公式の報告書だ。


 彼らが求めているのは、あくまで軍事的な脅威の有無であり、兵士たちの夕食の好みではない。


 羊皮紙を脇へ除けると、わたしは机の引き出しの奥から、使い込まれた革表紙の手帳を取り出した。


 これは、誰に見せるためのものでもない、わたしだけの秘密の記録だ。


 ページをめくり、新しい空白にトヨノ語でそっと書き記していく。


『北の国の警備兵たちの間では、冬の訪れとともに大根の甘酢漬けが好まれているらしい。南のチュニアの激辛の壺漬けとは違い、寒さを乗り越えるために甘みと酸味を強くしているのだろうか。……いつかレシピを知りたい』


 ペンを置き、わたしは手帳に書かれた文字を見つめた。


 この手帳には、これまで拾い集めた北の国のささやかな営みがびっしりと書き込まれている。


 春の雪解けを祝う素朴な祭りの様子。


 夏の短い夜に歌われる子守唄。


 そして、秋の収穫を祝う里唄。


 協会から見れば、彼らはただの「警戒すべき敵」であり、報告書の上ではただの「脅威の記号」でしかない。


 けれど、わたしの『聴き耳』は知っている。彼らもまた、寒い夜には故郷の料理を恋しがり、家族を想って震える生身の人間なのだということを。


 いつか、この分断された世界に本当の雪解けが訪れた時。


 彼らの文化や営みが、歪められた偏見ではなく、確かな体温を持ったものとして誰かに伝わるように。


 わたしは、この秘密の手帳に東の人々の声を書き留め続けるのだ。


『……アルセア。またそんな無駄な記録をつけているの? そんなことより、わたしの寝床に湯たんぽを入れてちょうだいなのよ』


「はいはい、ただいま」


 わたしは手帳をそっと引き出しの奥にしまい、気高き相棒の待つ暖炉の前へと歩き出した。

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