夫婦
末の子も離乳食へと移れる頃合いになって漸くと肩の荷が降りるのを感じた彼女は久方ぶりにまともに食事を楽しんだ後、甘え、泣きついて来ようとする末の子を宥め侍女らに任せて湯浴みにと向かおうとしたところを魔王と鉢合わせ面食らった。
今度は育児で魔王の部屋になぞ行く余裕もなく、帰還してそれなりに日が経っているが一度も彼と話すことも喧嘩などもしていない。帰ってきた時の嫌味くらいだろうか、と思ったところで左手を取られ何をするかと反論する間もなく歩き始めるのに引き摺られるよう廊下を歩む。
進んだ先に開け放たれた門があるのを見て、そこから吹く夜の風と銀の月とに尚困惑を深めながら漸く手を離し先に竜と変化していく魔王を見る。
『お前も早く竜となれ』
どこかに連れて行きたいのだろうかとポツリと思いながら竜となれとはいかに、と悪戦苦闘しつつも何とか紅い竜のそれになれば良しと言うように目を細めた後魔王が空へと飛んでいくのを追いかける。
バサバサとそれなりの大きさの番の竜が飛ぶのに大きな羽音が連なり響けば夜の空気を切り裂き彩る。
黒と紅とで暫し仲睦まじくも見えるように水の中を泳ぐ小さな魚の如く、ゆらゆらと鱗が月の光を照り返し輝き絵画のような美しさを描いては目当ての場所に着いたか魔王がゆっくりと降下していきそれを手本に紅い竜も地へと足を着ける。
人型に戻り、上から見て確認していた風景をまた改めて見れば湯けむりの立つ秘湯らしきそこ。丁度、人や獣などから隠れられるだろう高さと自然が生み出した穴場にそっと魔王を振り返れば視線が合う。
「……見張りには慣れている。早く入ってこい」
冗談めかした言葉はぶっきらぼうだがいつもよりも若干程度ではあるが優しさを含む。
魔王の心を汲んだ彼女は明日槍が降るかもしれないと思いつつ、言葉に甘えることにして茂みの方へと歩んでいくとゆっくりと衣服を脱ぎ始めそっと足先から湯にと浸かっていった。
一応は見張りの役を勤めつつもこちらを見ないように気を回しているのか、魔王は背を向けるばかり。
双方口を開かなければ音もなく、チャプ、と彼女が肩へと湯を掬いかけるくらいの音しかない。
「お前は入らないのか?」
「……あ?」
「綺麗好きかどうかは知らんが、普段あれだけ人を殺して血や油を浴びているんだから清潔にした方がいいぞ」
気まぐれだ。
乳の出ない父親に授乳は代わることはできないだろうし、もし代われたとして母親以外には泣く子どもだ。見慣れぬ父親が出る幕などやはりないだろう。
そもそもこの男の短い気と赤子のぐずりとでどちらが先に折れるともわからない賭けに漸く芽生えたばかりの命をかけることもない。
それを前提に妥協して考えれば、最初の卵を孵し世話役に渡して終わりとばかりの頃よりかはいくらか彼なりに育児に参加しようとの様子は見れたと褒めてやるに値するか。
だから夫婦として今僅かばかり隣を許すくらいの譲歩をしてやろう、と。
思いがけない言葉に拍子抜けしたような顔をして首を回し振り返る魔王の間抜けな様に鼻を鳴らし彼女は笑う。
「殊勝な真似など貴様には似合わない。どうせ獣は獣、竜は竜だろう。違うか?」
種族を馬鹿にする蔑みではなく、挑発しつつも私の気が変わらぬうちにと誘うこれもまた不器用なやり方だった。
結局彼らは似た者同士なのだろう。素直になれずまたなり方もわからない。
ややあって。
怪訝そうな顔で睨むように彼女を見据えていた魔王が前を向き直り息を吐き出すと踵を返すようにと足を彼女の元へと向けた。
面倒なのか己の手で服を脱がず、魔術を使い一人でに宙に装身具や衣服が漂いするすると地へと畳まれ落ちていく。そうして裸身となった後は少し間を開けて彼女の隣にゆっくりと腰を下ろした。それに片眉を上げた彼女はまたちくりと文句をつける。
「……何故そんなに距離を置く。外で私とともにあるのが不服だとでも?」
「いい加減黙れ。煩わしい」
「はぁ?貴様が勝手に連れ去ってまで妻とした女だぞ私は。ならば最後まで責任を取れ。種族まで変えられて、こちらは帰る場所すらないんだぞ」
「記憶と性格も変えれば良かったか。そうすればこんな面倒な思いをせず済んだな」
「普通の汐らしい淑女にはたたんと口にしたのは誰だ。愚か者め」
軍配が上がったのはどちらかは言うまでもなく。
力では優れど口で勝つことは出来なかった男はまたじとりと己の妻を恨めしそうな目で見据えて息を吐き出した。
「権力欲しさに媚びへつらう女や怯えるだけの役立たずな女はいても意味がない。それに比べれば敵わぬ相手にも剣を向け最後まで足掻こうと見せるお前の方がよほど役に立つだろう。兵にしても、妃にしてもな。見てくれも岩のような女でもなしに、良い腰をしていた。それこそ俺の子を孕み産むのに向いてそうなデカい尻を……」
「〜っ、き、貴様には羞恥心というものがないのか!」
「本当のことだろう。百年も経たないうちに四人も産んだ。お前の名前と功績はきっと俺が言ったものより大げさに書かれ後世に残るぞ。“戦闘狂の頭のおかしな王を魅了し、僅か数年で王子、姫を次々と産んだ救国の妃”とでも書かれるんじゃないか?」
「ハッ?!そんなこと聞いていない!」
「事実城のものはそんなようにお前を見ている。信奉者が多いのにお前自身薄々気付いているはずだ」
確かに、兵士に混じり木剣で鍛錬などしていると熱心な視線を受けていた。若い侍女や護衛や兵士にも。
自分が鍛錬するのがそんなにおかしいのかと思ってはいたがそれとも違うように感じていたが……。やはり、そういうことなのだろう。
「それよりもだ。シルラーナ、ここは気に入ったか?」
その瞬間、彼女の頭から怒りや思考の一切が消えて飛んだ。
ここに至るまで今まで一度も名前を呼ばれて来なかったと言うのに、唐突に名前を呼ばれた彼女は目を見開いて固まってしまったのだ。
「……貴様、私の名などどこで」
「さらって種を変える時の儀式の中で記憶をざっと覗いたからな。お前があの時処女であったのも確認していた。経験のあるものでも隠し通して食らうつもりではあったが」
彼女、シルラーナ・エメ・パムネトラはずるいと思ってしまった。
初めから名前を知っていたのであれば、自分にだって知る権利くらいあったはずだ。何故教えようとの素振りもなかったのかとパシャンとお湯を叩けば今度は彼女が彼を睨みつけた。
「ならば貴様の名は?私だけが真名を知られているなど不公平だ。教えろ」
あからさまに不機嫌になった彼女に魔王は僅か首を傾げたかだか名前だろうにと理解できないような様子を見せつつもそんなに知りたいと言うのであればと勿体ぶるでもなく返す。
「ガリアス。ガリアス・グウェルダ・モントレイ・シュテフザード。長い上に覚えにくい。ガリアスとでも呼べばいい」
ザパッと湯の中にあった腕を一度上げ、顔を拭う所作をしたならば天を仰ぎ月を見る。
この月明かりのおかげで灯りがなくとも互いの様子が伺えるのは好都合だった。
ほのかに赤くなった顔を伝う水気にそろそろ出るかと魔王は立ち上がるそぶりを見せ、上がっていくのと同時にどこから取り出したか身を包めるほどの布地をまとい体を拭きだし最後に頭をガシガシと乱雑に拭った。
彼女も出ようと腰を上げかけ、しかしまとうものも何も準備がないために戸惑っているとタオルを消失させ畳んでいた衣服を再度身に着け始めた魔王が振り返り何やら呟く。
すれば片手に似たようなタオルを出現させ、ん、とそれを彼女に差し出した。
「無から有を作るのはまだできないか」
そんなおかしな芸当がホイホイと熟せると思うなと眉を寄せつつも黙って湯から上がりそれを借り受けては体を丹念に拭う。芯から温まり大分疲れも癒せたように思うが一度脱いだ衣服をまた着る抵抗感を覚えて手が止まった。
下着などが特に抵抗感が強い。しかもあまり時間をかけてしまえば魔王に知られてしまう。流石に下着を出させるのは嫌だった。考えに考えて結局履かないことにした彼女は下着抜きにドレスを身にまとい落ち着かない胸元と下とを少し気にしながらにどうせ竜になって飛ぶのだからと雑念を頭から追い出した。
彼女の着替えの邪魔をしないよう、いつの間にかまた離れ背を向けていた魔王は彼女のそわそわとした様子を気取りつつも特に何と申告を受けたわけでもないため、飛行の妨げなどにはならないか、急な体調の悪化ではなかろうかと気にかけ竜となり城への道を征く傍ら彼女の様子を具に確認して帰還を果たした。
先に着地し彼女の手本になりつついざとなれば駆けつけられるよう万全を期して待機しては取り越し苦労であっても文句も言わず目を細めた。
そんな魔王に見守られながらいつもの着地よりも僅かに慎重に、そっとと言うように紅い竜は着地を果たすとスカートを押さえ込むようにして人型に戻り、着いて早々侍女らの方へと行こうとするのに怪訝そうな顔をして魔王は彼女を見送った。
女には女にしかわからないこともある。
故にそういった突っ込んではややこしくなる類いのことかもしれないと長く生き、戦いだの何だのとで第六感が鍛えられていた魔王はそれ以上何も言わず、まあ妃が元気ならばそれで良いと気にしないことにして己も自室へと足を向けた。
再びの着替えを終えて漸く落ち着いた彼女は彼女なしでも何とか眠りに就いたらしい子どもたちの報告を受け、成長の程度への嬉しさと少しの寂しさを覚えつつ自室のベッドへ身を横たえ目を瞑る。
ここまでの人生で今日初めて知った夫の名前やら秘湯やら気遣いやら様々なことが頭を巡って寝付けない、と思いきや普段の慌ただしい子守りの疲れからかすんなりと眠れた。
明くる日、侍女から今日の予定と子どもたちの教育が始まる旨を聞き驚いた。まだ三歳にも満たないのに護身術やら帝王学やらマナーを習い始めるというのだからそれも無理はない。
しかし成長の早い子どもだからこそと言うものと、貴重な竜種の狙われやすい時期だからこそというものによりこのくらいの年からでも決して早すぎるということはないのだと返され世の不条理さと子どもたちの立ち場を改めて知った。