15
キースの瞳が見開かれる。
ゆらゆらと揺れる金色を冷たく見ると、エリスはため息をついた。
「できないのかしら。自分で月の女神のようだと言っておいて、足を舐めることもできないなんて」
期待はずれだわ。
声を出さずに示せば、キースの肩が揺れた。
それもそうだろう。
男が女性の足に唇を当てるということは、堕ちる_____下へと堕ちることと同義だ。
これは、隣国クロムウェルでも共通である。
「わ、私は……」
「はぁ…こんな男に捕まるなんて、恥だわ。私の名誉にも傷がついてしまう。早く迎えは来ないかしら」
わざと怒らせるような、普段は使わないねっとりとした口調にキースの表情が歪む。
乱れたドレスのスカートから伸びた白い脚は無駄な肉がなく、すらりと長い。
誘われるようにキースはエリスの足に手を添えた。
「……さぁ」
キースが足の甲にゆっくりと顔を近づける。
(まだ、まだだ……)
タイミングを誤るな。
相手の完全な隙を突くんだ。
紅い舌が、肌に触れるその瞬間______。
「フンッ‼︎」
「ッ⁉︎」
キースが触れていない左足を顎へ蹴り上げた。
ぐらりとキースの身体が傾ぐのを見届ける暇なくエリスは寝台から駆け下り、扉に向かって走る。
(…帰るから、絶対に)
思い浮かべたのは、ただひとり。
いつも一緒のようで、けれどお互いをちゃんと知らなかった。
今も、心配しているだろうか。
「油断大敵。…ですよ」
唐突に視界が歪む。
身体から力が抜けて、エリスは床に倒れ込んだ。
息が乱れる。
喉に何かが詰まったように呼吸を邪魔していた。
「…お転婆は困りますよエリス」
「…、…っく……!」
「よかった。念のために遅効性の毒を含ませておいて」
「い、つ……!」
顎を押さえて起き上がったキースがゆっくりと近づいてくる。
にこりと、笑みを浮かべたまま何も口にしない。
危険だ。
毒が盛られていた。
このままでは逃げられない。
帰れない。
「……い、や」
涙がこぼれる。
全身ががたがたと小刻みに震えて止まらない。
かつかつと、音をたててキースが近づく。
「いや、来ないで」
怖い。
陵辱されてしまうのだろうか。
それとも、毒で死ぬのだろうか。
(帰りたい)
彼に会いたい。
優しくて、いじけなくて、けれどエリスをずっと見ていてくれた彼に。
「……あい、ん」
キースが眉を顰め、エリスに覆い被さった。
端麗な顔が近づく。
「いや、いや…っ、あいん、アインーーー!!」
最後の力とばかりに叫んだ、次の瞬間に目前にあった木製の扉が切り開かれた。
キースと強引に引き離される。
その時目の前にいたのは願っていた彼ではなく_______薄桃の髪をはためかせた女性だった。
「……ご無事ですか、お嬢様」
静かな声。背を向けているせいで、表情は見えない。
けれど、彼女が発する憤りはひしひしと伝わる。
「エリス‼︎」
続いて駆け込んできたのは、間違いなくアインだった。
艶やかな黒髪は乱れ、美麗な相貌には疲れと焦燥と……次に熱を感じた。
床に転がるエリスを抱き起こし、肩を揺らす。
「エリス、エリスッ‼︎」
(……会えた)
安堵する。
突然会えなくなり、独りになって怖かった。それがやっと、解きほぐされた気がした。
「っ!」
「………っ会いたかった…!」
首元に縋り、ぎゅっと抱きしめた。
アインの肩が一瞬強張り、けれどすぐに抱きしめ返してくれた。
その力強さに涙が滲む。
「キース・ボルグ侯。エリス・ツァリアス公爵令嬢誘拐、監禁の罪で捕らえる」
アインがエリスを抱きしめたまま毅然と告げる。
その言葉にキースの柔和な顔に歪みが加わった。
「はっ……たった二人で何ができる!しかも片方はこんな女で!女に何ができる!せめて戦士でも連れてきたらどうだ!?」
「……もう一度、どうぞ」
「は……?」
アルの声音はぞっとするほど低い。
表情が見えないエリスとアインが固まるほどの威圧にキースは唇を戦慄かせ、ずるずると後退するが寝台の脚に背をとられ、ひくりと喉を鳴らしたあとアルを見上げた。
「もう一度、どうぞ。女に何ができるとおっしゃるなら今この場を切り抜けることだって安易なことに思われますが……今の言葉をもう一度言ってもらえます?」
「ひ、ひっ……」
「その辺りにしろ、リリエン」
男性の声。確か、アルの主人ユリウスだ。
なのに彼が呼んだのは、知らない名前。
そこまで意識できたのが限界だった。
「ア、イン……」
「どうした、エリス?_____エリス!?」
「⁉︎リリエン、そいつを捕らえろ!何をしたか聞き出せ!」
「御意」
「う、あぁああっ!!」
喧騒を最後に、エリスの意識は闇へと溶けていった。
♢♢♢
「あ、目が覚めましたか?お嬢様。私が誰か、わかりますか?」
「……、ある、さん…?」
出した声は掠れて、喉が乾いていることがわかった。
けれどアルはエリスの様子にほっと安堵の表情を浮かべた。
「よかったですお嬢様。今お医者様をお呼びします」
「あの、ここは……今はいつ……」
「ここは蒼の宮の医務室です。お嬢様をお助けしてから三日が経ちました。……お話は後にして、今はお医者様を」
みなさま、心配したんです。
アルは困ったように微笑みエリスを宥める。薄蒼の瞳はかすかに揺れ、疲れが垣間見える。
エリスはようやく頷き、おとなしく医者を待った。
「目が覚めたようで、エリス嬢」
「え、ラルフハルト殿下……⁉︎」
「起き上がらないように。いいですね」
入ってきたのは金髪碧眼の若い男____彼の名前はラルフハルト・クローデル第二王子。
同盟国に留学中のアインの弟だ。
王妃に似た面立ちに横たわったまま背筋が伸びる。
「………、特に異常はなさそうですね。頭痛や吐き気等は?」
「いえ…」
「なら大丈夫でしょう。毒の中和は完了してるようですし」
「あの、私はどうしてここに」
「____エリスっ‼︎」
硬い音とともに目の前が翳る。
今にも唇が触れ合いそうなぐらい顔を近づけたアインの端正な顔にじわじわと頬が熱くなる。
そんなエリスを気に留めず、アインは必死に口を開いた。
「俺がわかるか?身体に異常は?いつもの減らず口はどうした?」
「……普段貴方が私をどう思っているか、よくわかりました」
「…………兄上。少し落ち着いてください」
ため息が二つ落ちる。
ラルフハルトはアインの襟首を掴み、引き起こした。
「エリス嬢は毒の中和を終えたばかりですから、しばらく安静に。兄上は早く執務に戻ってください」
「_______その必要はない」
再び医務室の扉が開き、割って入ったのはユリウスだ。
無表情に等しい顔がエリスの無事にかすかに緩まる。
彼の後ろにはアルが控えていた。
「陛下が若く有能であるおかげでアインハルトの執務がただでさえ少ないのは知っているだろう、ラルフハルト殿」
「ユリウス殿下…」
「アインハルト、俺たちは出ているから、エリス嬢とゆっくり話せ」
「…………兄上、あくまでも医者の僕に迷惑がかからない程度にしてくださいよ」
「何かありましたらお呼びください」
三人はそう言い残して医務室を出て行った。
何を言えばいいかわからずエリスは何も言わないでいると頭に軽く重みが加わる。
(……あったかい)
優しく頭を撫でられ、ゆっくりと目を閉じアインに身を任せた。
けれどそれだけでは恥ずかしくなり、口を開く。
「ラルフハルト殿下はいつ帰国されたんだ?」
「二日前だ。元から医務関係に興味があったらしくてその辺の医者より腕は確かだ」
「………キース・ボルグ侯はどうなったんです?」
「とりあえず牢に入れている。侯爵家が没落するのはきっと決まりだ」
アインはすらすらと読むように答える。
けれど生気が感じられないのが、不可解だ。
エリスは頭に置かれていた手を掴み、軽く引っ張る。
「っ?」
「どうした?さっきまであんなに喚いていたくせにいきなり静かになって」
「お、おおおまえな………」
二人の顔が近づき、視線が絡む。
目元に朱が走っていて、エリスは内心目を見張った。
彼は明らかに動揺している。
「アイン?」
「…くそっ、なんで覚えてないんだよ……!俺が馬鹿になったみたいだろう……っ」
「覚えてないって……何が」
きっとアインが言っているのは誘拐事件のことだろうが、正直エリスは状況をほとんど覚えていない。
キースから逃げ出そうとしたが、失敗したこと。そして、アインやアル、ユリウスが助け出してくれたことだ。
その後、毒によって意識を失ったが普段から毒慣れしていたから身体に耐性がついて無事でいられたと思っていたのだが、何かあったのだろうか。
アインはぐっと押し黙り、やがて数回深呼吸して、エリスをまっすぐ見て言った。
「_______俺と、キスしたことだ」




