第5話
亀裂の中はこれまた崖だった。
いや、確かに崖ではあるが、さっきの傾斜とは比べ物にならない。まさに断崖絶壁とでも呼ぶべき代物が広がっていた。丁度その絶壁の淵に亀裂が開いていたため、当然ながら正記はろくに踏ん張れもせず落ちていった。
「わああぁあ!」
まさかここまで早く生命の危機に瀕することになると想定していなかった正記は思わず叫んだ。顔に容赦なく吹き付ける風に思わず目を閉じる。
と、突然落下が止まった。正確には何か弾力のあるものにぶつかったという表現が正しいかもしれない。正記は恐る恐る目を開く。
両側に透明な翅。目の前の頭らしき部位から突き出た複眼が覗いている――あの怪物だった。
戦慄する正記を尻目に、怪物は奈落を飛び越えてどこかへと飛び立った。正記は思わず怪物の背にしがみつく。滑り落ちでもしたら話にならない。
前方を見てみて、思わず息を飲む。さっきは亀裂に入ってすぐ崖でお陀仏しかけていたため気づかなかったが、巨大な建造物が目の前にそそり立っていた。ところどころ物理法則を無視したねじ曲がり方をしていたり、大規模な破損が見受けられるが、大まかな見た目は西洋の城のようだ。怪物はその城に向かって飛んでいた。
城の外装の中でもひときわ大きく開いた穴の中に飛び込み、床に着地する。正記は地面に降り立った怪物の背からこわごわと降りた。
「何故生かした」
突然、頭上から声が降ってきた。見上げると、そこにはいつの間にか人に見える何かと、もはや見慣れた怪物が浮かんでいた。しかし驚くべきことに、その怪物は言葉を発した。
「だけどもよぅ、見殺しは流石に可哀想じゃねぇかなぁ。わすらの都合に巻き込んだんだしよぅ」
「人に情をかけてどうする。王の記憶が戻れば人など羽虫のようなもの、1匹死んだところで何だと言うか」
「そうかもしれねぇけどよぅ……」
どうやら正記のことを話しているようだ。詳しいことはわからないが、先程のことを鑑みるに、怪物のほうは正記を助けたらしい。頭上の人影は城の奥を指さした。そこには玉座のようなものと、あの亀裂があった。
「まあいい、『扉』は開けた。王を呼び戻すまで人間に不遜への懲罰をくれてやるのもよかろう。おい」
「はい……?」
急な呼びかけに間の抜けた返事をしてしまう。と思うと、正記の身体がふわりと浮かび上がった。
「うわ……っ」
「貴様、己の罪は自覚していような」
「いやあの、なんかお気に障ることをしたならすみません!自分でも何が何だか……」
自分を責める声の主を目にした瞬間――正記は息を飲んだ。目の前のそれは少女のように見えた。白銀の髪に赤く鋭い目、あどけない風貌を鎧が覆い隠してはいるが、頭にはためく黒いヴェールは彼女を花嫁のようにも見せている。
言葉を途切れさせた正記を見て、少女は不愉快な様子で眉をひそめた。
「……不遜だ。軍師たる私の問いに答えぬばかりか、頭も下げぬとは。このまま落としてやろうか」
「あんまりキリキリしたらいけねぇよぉ。アクゼリュス様がべっぴんさんなもんだから見とれちまったんだよなぁ、坊ちゃん」
「あ、アクゼリュスさんですか……」
正記が呟いた瞬間、アクゼリュスと呼ばれた少女は歯を食いしばりまなじりを吊り上げた。
「さん!やはり不遜だ!いいか人間、ここは本来貴様のような卑小な存在が生きて立ち入るべき場所ではないのだ。エイリィが要らぬ情けなどかけたせいで王の間に虫が入り込んだ!いまここで死んで詫びろ!」
アクゼリュスが人差し指で地面を指さすと、正記を浮かび上がらせていた力がふっと失われた。それなりに高い場所にいるのだ、落ちればただでは済まないだろう。悲鳴を上げて落下する正記に、どこからか黒い影が飛びかかった。
「大丈夫?また大変なことになってるね」
正記は黒い影に受け止められていた。状況に似合わない穏やかな表情を浮かべているそれは、他でもないモグラだった。




