蛇足2 八月、七夕の夜に
フリースの視点です
都会の夜空は、あたしにとって、何度みても汚い。
本当に汚い。汚すぎると言ってもいい。
一度だって綺麗だと思ったことはない。
でも、この世界は、これでいいんだ。
夏の夜に一人、あたしは岩に座ってぼんやりと、霞みがかった月の浮かぶ夜空を眺めていた。
緑の少ないこの世界にも、たくさんの木々が植えられた場所がある。
エルフの森の豊かさには遠く及ばないけれど、ほんの少しだけ魔力が高まった気分になる。
だから、あたしは公園という場所によく足を運ぶ。小さめのギターなんかを持って、気に入ってる場所で歌ったりもする。
小さな石橋のそばにある岩は、なかでも一番の、お気に入りの場所だ。
ぎゃあぎゃあと喚き散らすセミの声はやかましいけれど、人通りが少ないから、自分ひとりの世界に浸れて、とても良いんだ……なんて思っていたら、
――ごしゅじん、ごしゅじん。
ポケットからの声がした。あたしにしか聞こえない声だ。せっかくの一人ぼっちを邪魔された。
――ご主人ったら、きいてるんですか?
「なに」
あたしは苛立ちを帯びた声を出し、水色ワンピースのスカートから、青いリボンを取り出した。
今は、このリボンがコイトマルだ。あたし以外と話すことはできないが、このラックのいるはずの世界は、手ぶらで電話をかけている人も多く、道で独りで喋っていても、大して誰にも気にされない。
今もヘッドホンをしているし、誰かが通りがかっても、電話しているようにしか思わないだろう。
――何を見てたんですか?
「わかるでしょ。いつもと同じ。空を見てたんだよ」
――コイトマルは思います。この世界、明るすぎです。汚い夜空だなって思います。
「これはこれで良いんだよ」
――なんでです? 星がこぼれ落ちそうなくらい見えるマリーノーツの方が圧倒的にキレイです。こんな魔力のないところでは、コイトマルも大好きなラックさんと会えても話せませんし……。
「……いいんだよ。この明るすぎるまちの星空には、今、二つの恋人星がみえるけど、二人を隔てる大河がない。だったら、こう解釈できる」
――ほう、そのこころは。
「この世界では、二人はもう、いつでも会える」
――して、その場合の二人というのは? 誰と誰のことです?
「…………」
あたしは、悲しくて黙った。
――コイトマル、いつも思ってます。こっちに来てから、ご主人の心には、いつも雨が降っています。
「知らなかった? あたし雨が好きでしょ」
なんて、強がってみたけれど、契約イトムシは主人と深い精神的つながりをもつ。だから、あたしの感情は、ぜんぶコイトマルに筒抜けだ。
――ご主人の雨好きは存じてますけども……じゃあ、雨とラックさんとだったら、どっちが好きなんです?
「…………」
答えの分かっている質問をしてくるコイトマルは、なんて意地悪なんだろう。あたしに似てしまったのかもしれない。
――だったら会いに行けばいいんじゃないです? レヴィア様がだいぶ前に会ってて、ご主人も居場所は知ってるんですよね?
「うるさい」
あたしは、リボンを月にかざし、ぎゅうぎゅうと引っ張ってやった。
――あー! もげる! もげます! つばさを引っ張らないでくださいよぅ!
あたしは、それから、くすぐったいですといってギブアップを訴えるコイトマルリボンをくしゃくしゃにまさぐり続け、気が済んだところで言う。
「よけいなお世話なんだよ、コイトマル。ラックがあたしに会いたければ会いに来るでしょ。今日も……こんな特別な日にも来ないっていうのは、そういうことなんだよ」
コイトマルはぐったりしていて、言葉を返す余裕はないようだ。
ふと、あたしの耳はヘッドホンの向こうから響く足音をとらえた。ヘッドホンは耳を隠すためなので、音楽はほとんど流していない。
橋のほうから響いてくるので、そちらを見た。
街灯の逆光の向こうから、あらわれる影。
「うそ……」
それは、あっちの世界で言えばラック。こっちの世界で言えば織原久遠。そういう名前の人だった。
「ここは、来たことあるなぁ」
この声、たしかにラックだ。すこしわざとらしさの混じった音色だ。
どうして、彼が、ここにいるのだろう。
あたしは、急いでヘッドホンをおさえた。レヴィアが帽子をおさえて顔を隠すみたいに。
会いたいのに、会いに来てほしかったのに、見つかりたくない。
勇気がなかった。
落ち着いた足音が近づいてくる。スニーカーを履いた足が、目の前を通り過ぎた。
このまま、気付かぬふりで、やり過ごせれば……。
――何やってんですかご主人!
――ラックさんですよ!
「わかってる!」
あたしはコイトマルに反応して、つい大声を出してしまった。
ラックの足が止まった。
後頭部に視線を感じる。あたしを見下ろしている気がする。
――ご主人、ちょっと魔力を多めに借りますよ!
返せもしないんだから、もらうって言った方がいいんじゃないか、などと考えている間に、コイトマルはあたしの魔力を本当にゴッソリ吸って、なんと、一瞬だけ実体化した。
青く輝く鱗粉の芳香が、夜の闇に広がる。
そして、コイトマルが肉体を得た一瞬で何をしたかというと、細腕で、あたしのヘッドホンを叩き落したのだった。
あたしは慌ててアスファルトに落ちた高価なヘッドホンを拾おうとした。
けれども、ラックの手が先に触れた。
ヘッドホンにではない。あたしの尖った耳に触ったのだ。
いきなりエルフの敏感な耳に触るなんて、ギルティにも程がある。
けれど、その懐かしい触り方、温度を、あたしは心地よく思った。
「気安く、さわらないで」
あたしは泣いていた。笑ってもいた。
「フリースだ、やっと会えた」
彼はそう言ったけれど、
「あたしは、フリースじゃなくて、丸糸子……」
偽名で距離をとろうとした。
「違うだろ。フリースだ」
彼の手をはねのけて、耳をおさえて頭を振った。この期に及んで、まだあたしは、ラックに見つかりたくないと思っていた。
だって、わかっていた。
出会いが別れになることは、少し考えればわかることだ。
今、この場所はマリーノーツじゃない。一人の夫に一人の妻。それがルールとして定められている世界なんだ。
だから、あたしは、この世界でラックと一緒にいることはできない。
レヴィアと幸せに暮らしているのに、別の誰かが割り込んでいいとは思えない。
「ラック、あたしに何か言うことない?」
あたしは、ラックから、ある言葉を引き出そうとした。
でも、言葉を発したあとで、すぐに後悔した。
あたしが楽になるためには、あたしの想いを知っているラックに、「ごめん」と断ってもらうしかない。
でも、「ごめん」なんて言葉、彼の口から聞きたくはない。それは、こっちの世界では、告白を断る時に必ずといっていいほど発せられる言葉だ。「ごめんなさい、でもありがとう、でもあなたとは付き合えない」と、そういう意味をもっている。
だから、楽になりたくて浴びせられたい言葉だけど、絶対に言われたくない言葉でもある。
だけど、ああ、やっぱり彼は言ってしまうのだ。
「ごめん、フリース」
いやだ。
「ほんとうにごめん」
やめて。
「いや、えっと、今は丸糸子さんだったか」
さっき自分で名乗ったけど、その名前で呼ばないでほしい。きらいじゃない。だけど、ラックにだけはフリースって呼ばれたい。ずっとずっと呼ばれ続けたい。
「来るのがおそくなって、ごめん」
「え?」
それは、思っていたのと違う「ごめん」だった。
「レヴィアに何回もきいてたんだが、なかなか居場所を教えてくれなかったんだ。あちこち、頑張って探してたんだけど、まさかなあ、何回もすれ違った歌い手の少女がフリースだったとは……。全然気付けなくって、本当にごめんッ」
「…………」
あたしは思考停止して、混沌色の沈黙を返した。
レヴィアと一緒になることにした。フリースとはごめんだけどもう会わない。そういうことを言われると思っていたのだ。
大好きな人が、わざわざ残酷に別れを告げに来たと思っていたのだ。
あたしの心の中は、雪が解けたあとのぬかるみみたいに、みっともないことになった。ぐちゃぐちゃだ。混乱を気取られないように俯くしかなかった。
「フリース。顔をよく見せてくれ」
「いやだ」
と言った声は震えてしまう。
「あたし、実はフリースじゃない。コイトマルいないし」
――いますよ!
「うるさい。いないし……ていうか、レヴィアは……レヴィアはどうしたの?」
私の問いに、彼は答える。
「それがな、レヴィアのやつは、『おとうさんに会ってきます。契約なので! もちろん、すぐ帰ってきますからね、浮気しちゃだめですよ』とか、そんなことを言ってたな。契約じゃあしょうがない」
「……じゃあ」
「ん?」
「じゃあ、あたしに会いに来ちゃ、だめ、じゃない?」
「まあ確かに、俺たちの再会を知ったら、レヴィアは、ものすごく嫉妬に燃える気がするけども……でも、俺にだって会いたい人に会う自由はあるはずだ」
「会ってどうしたいの?」
あたしは身構えた。
「俺はさ、フリースと一緒に、また冒険がしたいんだ」
「冒険?」
「ああ、色んな所にいくんだ! マリーノーツにも、俺の世界にも、まだ見ぬ面白いところがいっぱいある! それを、フリースとも一緒に味わい尽くしたいんだ!」
「……無理をいわないでほしい」
「え、なんでだよ」
あたしは沈黙を返した。
この誘いは、二人っきりで冒険にっていう話じゃない。レヴィアも一緒に行くことに絶対なる。
それは、レヴィアのことをいちばん好きなラックを、近くで見続けるということでもある。
あまりに残酷な仕打ちだ。
ああでもな、それは、ろくなことをしてこなかったあたしへの罰としては、軽いほうなのかな。
「行こう、フリース。続けよう、旅を。たくさんの仲間と一緒に。この世界にも、あの世界にも、まだまだ皆で行きたい場所がたくさんあるんだ!」
なんて最低な言葉。
無邪気なところが、またひどい。
無神経すぎて永久に凍らせたくなるほどひどい。
獣人みたいに欲張りで、エルフみたいに高慢で、人間みたいに優柔不断な、あの異世界マリーノーツの悪いところを全部集めて煮込んだような態度だ。
だけど、だからこそ、差し伸べられた手を掴んでしまった。
ずっと。
みんなで。
一緒に。
それは、実を言えば、欲張りで、高慢で、優柔不断なあたしの、何より望んでいることでもあった。
胸の高鳴りが抑えきれない。
たとえ思い通りにならない苦しみに満ちた旅路が約束されているとしても、あたしは、ラックとレヴィアと一緒にいたいんだ。
「それはそうと、フリースって、歌がめちゃくちゃ上手いよな。一年か、二年前くらいだったか、この近くで歌ってたろ?」
「……じゃあ、今の気持ちを歌ってあげる」
あたしは名残惜しく思いながらも手を離し、ギターを取り出して、即興でコードをかき鳴らす。
歌いだす。
長かった人生でいちばん、はりさけそうに悲しくて、それでも嬉しいあたしの今を。
邪魔の入らない今夜だけは、その曇りなき瞳で、あたしのことだけ見ていてほしい。
なんて伝えたら、あとでレヴィアに激怒されるな。
……あれ、おかしいな、怒られてもいいやって、あたしは思ってる。
今、気づいた。あたしは、あたしの気持ちは、
レヴィアなんかに負けていなかった。
むしろ勝っているとさえ思える。
いや圧勝だ。
あたしはもう、何が何でも、ラックと愛し合いたいんだ。
いつかその、これまで必死に考えないようにしていた幸せな瞬間が訪れるのを期待しながら、すっごく好きなラックと、まあまあ大好きなレヴィアと三人で、いろいろ変わったりしながら、行ったり来たりの終わらない旅を、ずっとずっと、続けていきたいな。
いつまでも、あたしたちの誰かの魔力が尽き果てて、退場をする、その時まで。
どうか永遠に、そんな毎日が続いてくれますように。
短い歌は終わり、弦の振動をやさしくおさえる。
いつのまにやら、晴れ渡る空。
大好きな人の拍手が、月が輝く綺麗な夜空に響いた。
ありがとうございました。