蛇足1 七月はじめの再会(6/7)
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なし崩し的に、二人を自宅に連れていくことになってしまった。
ワンルームのアパートは、四人が入るには非常に狭かったものの、そんなものが鷺宮後輩とアオイさんを止める理由にはならないのであった。
俺が扉を開けると、高校から帰ってきたばかりだったのだろう、制服姿のレヴィアは「おかえりー」と言いながらパタパタと小走りでやって来た。かつての角を模しているというツインテールがぴょこぴょこ揺れている。
いつも通り、とても愛おしい。
アオイさんは眼鏡を拭いて、再びガラス越しに現実を見つめると、とどめを刺されたかのような絶望を帯びた。
「ほんとにいる……」
「先輩、わたしの負けっす」後輩は何と戦っていたのだろう。
制服姿のレヴィアは、後ろの二人に気付いて、俺に険しい視線を向けた。
「レヴィア、この二人はだな――」
しかし、後輩とアオイさんだと説明する前に、もう機嫌を取り戻し、俺の胸に飛び込む……などということはせず、
「アオイー!」
と声を裏返しながら、アオイさん――この世界の名前でいうと碧池つむじ――の胸に飛び込んだ。
姿が違うくらいでは、レヴィアの目は誤魔化せないということのようだ。
あれ、アオイさんだと、すぐに気付けなかったのって、もしや俺だけかな。
アオイさんは、レヴィアの抱き着きに応えながらも、嬉しさと誇らしさと絶望が渦巻く表情で固まっていた。感情の置き所が全く分からなくなっているようだ。
レヴィアは、一瞬で状況を把握してくれたようで、アオイさんの腕の中で「ゆるします」というお言葉をくれた。
このトーンの「ゆるします」というのは、要するに、「浮気ではなく、仕事の関係の女性ですね、だから黙って会っていたことを許します。せっかくなので、中に入ってお茶でもどうぞ」ということである。
レヴィアも俺の世界での学生生活を経て、ずいぶん人間らしくなったのだ。
以前だったら、他人に茶を振舞うなんてことなんて、絶対に有り得なかったのに。
後輩は、おそらく冗談なのだろうが、「女子高生と二人で暮らしてるとか犯罪っすね。通報していいすか」などと言いつつスマホをちらつかせた。
アオイさんは、「すごいね、もうすっかり人間だわ」とレヴィアの頭を撫で続けていた。
「二人をさ、家に入れてもいいよな」と俺。
「いま散らかってますけど」レヴィア。
「珍しい。掃除でもしてたのか?」
「荷造りですけど」
「えっ」
連れてきた二人が、喜んだような空気を出した。
レヴィアはアオイさんから離れ、家の中へと駆け戻ると、テーブル上の電気ケトルのスイッチを入れた。
俺も部屋に入ってみると、たしかに畳の上が散らかっていて、大きなスーツケースに物を詰めている最中だった。
俺は、まだ状況を整理できていなかった。
荷造りっていうことは、どこかに行くってことだ。俺はそんなの、ひとことも聞いていなかった。こんな高校もまだ休みになっていない七月上旬に、一体、どこに行くつもりなんだ。
学校でできたお友達と一緒に旅行とかお泊りパーティとかかな。だったらいいけれど。
まさか俺以外に好きな人が出来たとか? いやいや、そんなのありえない。
ここは男らしく、直球できいてみることにした。
「なあレヴィア、どこかに旅行か?」
「もうすぐ七夕が始まりますからね」
その答えで、俺は気付いた。
「ということは、お父さんのところか」
「ですです」
これは親子の約束なのだ。
七夕の期間は、必ず父親のもとで過ごさねばならないことになっており、レヴィアの実家は約束を非常に大事にする家柄なのだった。
「俺も行こうかな」
レヴィアと離れたくない気持ちから、そんなことを口走ってみたが、「やめといたほうがいいですよ」と返ってきた。
「だって、ラックさんの顔みたら、おとうさん襲い掛かっちゃいますし」
「どんな家っすか」と後輩。
「最強の魔族なんだ」
もはや開き直った俺に対して、後輩はとても険しい表情を向けてくれた。
アオイさんは遠い目をして、「また行きたいな、異世界」などと呟いていた。
★
後輩とアオイさんは、飲みに出かけた。
「先輩の弱み、碧池さんから教えてもらうっす」
みたいなことを言って後輩から誘っていた。今頃楽しく、よく冷えた酒を酌み交わしながら、異世界の話とか俺の悪口とかで盛り上がっているに違いない。異世界の旅は一夜で語り尽くせないくらいの冒険譚だったし、俺の弱みなんかも数えきれないほどあるからな、朝まで飲み続けても足りないくらいかもしれん。
狭い部屋、レヴィアと二人で晩御飯を食べて、テレビの前でくっついて、やがて時が経ち、夜が深まって、レヴィアが出て行く時間になった。
「それじゃ、ラックさん。おとうさんに会ってきますね。契約なので!」
「すぐ帰ってこられるんだろ?」
「もちろんです。七夕が終わったら、すぐ帰ってきます」
「じゃあ、送っていくよ」
二人で家を出て、異世界へ続く池へと向かう。
スーツケースを押す俺の横を、元気なレヴィアが楽しそうに歩いて行く。
「向こうの皆に渡すおみやげとか買ったか?」
「そのへんの道に生えてる草とか持っていけば、珍しがって喜ぶと思います」
おっと、先ほどの前言を撤回したい。他人にお茶をすすめられるようになり、人間らしくなったなどと誇らしげに思ったわけだが、雑草プレゼントは現代の人間らしくない発想だ。ちゃんと買って持たせないと、俺の印象にもかかわる。
コンビニに寄って、向こうの皆さんに配るお菓子などを買ってやった。そんなに高いものではないが、草よりは良いだろう。
草木をかき分けて、池のほとりでスーツケースを渡す。
「じゃあ、行ってきますからね。浮気しちゃ、だめですよ」
「ああ、約束する」
「絶対ですよ」
俺は一時の別れのキスをして、ほんとに早く帰ってこいよと告げた。
レヴィアは人間らしく顔を真っ赤にして、
「はい。すぐに戻ります」
そうして異世界へと続く、小さな公園の小さな池。濁った色の池に飛び込んだのだった。
行ってしまった……。
夜道を引き返し、アパートの鍵をあけ、中に入る。
「ただいま」と言っても何も返ってこない。当然だ。返ってきたら逆にこわい。
壁際のハンガーに掛けられていたレヴィアの制服が、ちょっと傾いていたので、まっすぐに直してやる。脱ぎっぱなしのルーズソックスが落ちていたので、洗濯機に入れた。
冷凍庫から氷を取り出し、グラスに入れて、炭酸飲料に沈めた。
しばらく壁に背中をあずけて、飲み物片手にぼーっとする。
ああ、久々に一人の部屋だ。
いつもレヴィアが寝ている場所には、誰もいない。
ただ残り香があるばかり。
昼間が賑やかだっただけに、寂しさをより強く感じてしまう。
久々に懐かしい人に会ったからだろうか。まぶたを閉じると、色のついた記憶がたくさん蘇ってきた。
緑の草原、オレンジの屋根、電線のない青い空、赤茶けた沙漠、祭りの喧噪、白っぽいウサギ娘と赤い傘、宝物置き場の枯れ木が発していた黄金の輝き、どっしりと構える黒い建物、地底に広がる赤い花畑、虹色に光る赤い石。
一生忘れられない思い出たち。
「また、みんなで冒険がしたいな」
そして異世界への行き方を知っている今なら、それが実現できるのだ。
ふと、氷がグラスにぶつかる甲高い音がした。
異世界で見せつけられた、視界いっぱいに広がる透明な氷の映像が浮かんできた。
「――フリース?」
彼女に呼ばれた気がして窓の外を見る。
普通の夜空が見えるだけだった。
レヴィアは、この世界でのフリースの居場所を知っているようだった。ところが、何度きいても教えてくれなかった。会いたいと言っても徹底的に無視された。
キャリーサから聞いた話では、時々学校の帰りに会ったりしているらしいので、そう遠い場所に住んでいるわけではないと思われる。
別にあの長い耳の氷娘に会ったところで、俺がレヴィアひとすじなのは絶対に変わらない自信があるのだが、レヴィアはフリースと俺との再会を非常に強く警戒しているのだった。
じゃあさ、レヴィアがこの世界から消えている今こそ、フリースを探しに行く時なんじゃないのか。
俺はグラスの飲み物を飲み干してから立ち上がり、水滴だらけのそれを机の上に置くと、真新しいスニーカーを履いて、再び深夜のまちに繰り出した。