第308話 織原久遠の世界 再会、白い太陽の下で
夏休みに入ってから、少し時間のできた俺は、川沿いを散歩する習慣を復活させていた。
――もはや、どうやればマリーノーツに戻れるのかもわからない。だけど諦めきれない。
そういう気持ちが、俺の足を動かしていた。
今日の散歩は上野という街からスタートだった。この街には、多くの博物館や美術館があるため、時々は足を運ぶことにしている。
普段は次々に襲ってくる課題に追われて出かけている余裕なんか無いから、ずいぶん久しぶりに上野に来たように思う。
室内にいることが多くて身体がなまっていたから、博物館の中を歩き回った時点で疲れてしまったし、外に居るだけで汗が噴き出すような気温だったから、本当にしんどかった。
散歩の結果が熱中症で病院送りとかにでもなったら、とても格好悪いだろうな。ただ、以前マリーノーツに飛んだときは病院送りにされた時だったし、鷺宮後輩がマリーノーツに迷い込んだ時も医務室送りにされた時だった。
そう考えれば、いっそのこと積極的に病院送りにされてもいいのではないか。
なんて、そんなことを考えてしまうのは、夏の熱に浮かされているからだろうか。
ともかく、異世界をめざして本当にあの世行きなんて事態を避けるため、灼熱の川沿い散歩なんてのは中止するのが賢明な大人の選択なのだろう。
だが歩く。
俺は絶対に賢明な大人ではない。熱に浮かされていると後ろ指をさされて構わない。だってレヴィアに会いたいんだ。
レヴィアだけじゃない。フリースにも会いたいし、その他全て、マリーノーツの旅で出会った全てに、ありがとうを言いに行きたい。そしてそのまま居着いてしまっても構わないとすら思っている。
俺ほど情熱的にあの世界を求めている人間はいないはずなのに、どうして再び俺の前にマリーノーツへの扉が開いてくれないのだろう。
心の中で愚痴りながら小高いビルが並ぶ大通りを歩き、神田川に架かる万世橋という橋に着く頃には、もう汗だくで、だいぶ足も痛くなってきた。
さて、ここから川に沿って散歩するわけだが、どちらに行けばいいのだろう。
ここは初めて来る場所じゃないから、だいたい地形がわかる。
神田川の下流は川幅が広くなっており、そのなかでも、上野から南下した御茶の水あたりは、谷も深くなり、川沿いの道が急な坂道であったりする。そこを過ぎた川は、平坦なところを通って、やがてもっと幅広い隅田川へと注いでいくのだ。
ここからだと、左に行く隅田川方面の道は平坦である。右に行く道は御茶の水方面。まるで山登りのような上り坂が待っている。
万世橋のコンクリートに寄りかかり川面を眺めていると、ふと神田川下流のたっぷりとした緩やかな流れの中に、一羽の白鷺が姿勢良く立っているのが見えた。
とても白くて、足が長くて、大きくて、よく目立つ。
「よし、あの鳥がどちらに飛ぶかで向かう方向を決めよう」
そして、どっちに行くにしても、最初に辿り着いた駅から電車に乗って帰ることに決めた。
下流の左方向に飛び立てば秋葉原から電車に乗る。上流の右方向に飛び立てば険しい坂をのぼって御茶の水から地下鉄に乗る。
できれば秋葉原方面に飛び立ってくれと祈りながら、眺めていた。
白鷺くんにとって神田川は居心地が良いらしく、なかなか飛び立たない。
このままでは埒が明かないと焦り始めたとき、遠くに居る白鷺と目が合った気がした。
次の瞬間、大きな翼を広げて、俺が望んでいない方角に飛んで行ってしまった。
「おのれッ……」
白鷺に行く先を委ねることしたのは俺だ。自分で決めたことだ。どれだけ足が痛くとも守らなくてはならない。
俺は、屈伸運動をしたあとで、少し戻り、上流の橋へ向かう道を歩き出した。
少し歩くと、昌平橋という橋に出た。この橋を渡ることにした。なぜなら、まっすぐに行く上り坂の道は、一度通ったことがあるからだ。
控えめに並ぶ商店や、古い学問所を撫でる慣れたコースを歩くのも良いが、せっかく少し遠出をして散歩をするのであれば、通ったことのない道を歩きたい。新鮮な空気を吸いたいのだ。だから対岸の坂道を歩くことになる。
坂をのぼり切れば、すぐに駅があるはずだ。
そして、俺が痛む足に視線をやってから顔を上げたとき。橋の向こう岸から、歩いてくる二つの人影が目に飛び込んできた。
片方は小さくて、もう片方は大きい。
毒々しい色の大きい方はどうでもいいとして、小さい方は、どうみたって、あれは……。
目を疑った。
ここはマリーノーツかと思った。いいや、どう考えても現実だった。マリーノーツにはコンクリートの橋は無いし、乗用車やトラックも絶対走ってない。自転車もなければバイクも無い。だから、ここは間違いなく俺の世界だ。
目をこすって、彼女を見た。
俺は走り出していた。
歩きすぎて疲れた足の痛みなんか吹っ飛んだ。
「レヴィア!」
別れたときと同じカウガール装備のレヴィアは、
「ラックさん!」
うれしそうに声を裏返して俺の呼びかけに応えた。
その声が頭の奥に響くころにはもう、俺は彼女を抱きしめていた。
橋の上で、人の目も気にせず。
レヴィアの体温を感じる。生きている。生きて俺の世界に来てくれている。
「おひさしぶりです、ラックさん」
「レヴィア。まさか、来てくれるなんて」
「時空を超えて、会いにきました」
「レヴィア、レヴィア」
俺が、さらに彼女を強く抱きしめると彼女も俺の背中に手を回してきた。
通じ合っている。そう思う。
「現実だよな? 夢じゃないよな? レヴィアは本当に本物だよな?」
「ええ、本物です。本物の、人間です。いっしょに、ずっと生きていきましょう」
「ああ、レヴィア……」
と、そこでレヴィアは、「あ」と何かに気付いた声を出した。
「そういえばラックさんこそ、本物なんですよね?」
この質問でピンときた。彼女は、あの合言葉を交わしたがっているのだ。
俺は頷き、一度体を離し、言ってやる。
「そういうレヴィアこそ、ちゃんと生きてる、本物の……人間、なんだろうな」
レヴィアは一切の憂いのない屈託のない笑顔で「はい」と頷き、その次の言葉は二人で声を揃えて言ったのだ。
「――ファイナルエリクサーで、乾杯を」
いつか俺が決めた、お互いが本物であることを確かめる合い言葉だ。
俺は、レヴィアを抱きしめた。小さな彼女を、今度はさっきよりずっと優しく、包み込むように。
大きなコンクリ橋の上、車が何台も通り過ぎた。次々に追い抜いていく人々は、ちらりと振り返って俺たちを見て、微笑ましいものを見るような目を向けて通り過ぎていく。
このまましばらく離さずに、彼女の鼓動を感じていよう。
俺たちはきっと、しあわせになろう。
青空と白い太陽の下、橋の上で、俺たちは再会を果たした。
いろいろあったけど、本当に美しくて、何より嬉しいラストシーンだ。
レヴィア、俺の世界に来てくれて、ありがとう。
ハッピーエンドを、ありがとう――。
★
「ちょっと待ちなよ、お二人さん。まだ終わりじゃないよ」
いやもう、ここで終了、完璧なハッピーエンドで最高だろうと思ったのだが、俺たちの幸福な再会に水を差すやつがいた。
毒々しい奇抜な服を着て、甘い香水の香りを撒き散らしている迷惑な女だ。マリーノーツでは変な格好だと思ったが、面白い格好をしている人が多い秋葉原近辺で見たら、あまり違和感が無いな、などと思った。
「キャリーサ……」
俺は苦虫を噛み潰したような顔をしていたと思う。レヴィアとのスイートエリクサーよりも甘い時間を邪魔されたからであることは言うまでもない。
「俺は、これから最高のカウガールのハットをずらし、レヴィアとキスをして、二人で手を繋いで家に帰るところなんだ。邪魔しないでもらおうか」
「そういうのは、あたいの居ないときにやりなよ。恥ずかしいじゃないさ、こんな人前で」
だったらここからいなくなればいいのに、キャリーサは大きな手でレヴィアの両肩を掴み、なんと俺からレヴィアを取り上げた。
今の俺にとって犯罪レベルの行為だ。ひどい水さし魔。悪魔レベルに邪魔である。
「あたいのおかげで二人は会えたんだから、あたいの言うことには従ってもらう」
「へぇ、ということは、キャリーサがレヴィアを案内して来てくれたのか?」
「その通り。占いの結果だよ。カラスがこっちに飛んだから、その方角に向かってひたすら歩いて、ここまで来たのさ」
しかし、レヴィアは格好つけたいのだろうか、キャリーサの言葉を否定する。
「いいえ、私のあてずっぽうのおかげなので、私の手柄です。キャリーサだけでこの近くに来ても、絶対会えなかったと思います」
正直、どっちでも良かった。
だって俺は今、ずっと再会を夢見ていた人に会えているのだから。
この声、この瞳、この髪、この服、この姿。
邪魔が入ったのは頭に来たけれど、それ以上に、なんというかもう本当に、生まれてきてくれてありがとうと言いたいよ。
【終章へつづく】