第304話 織原久遠の世界 落ち合いの夢
大学院の春学期がスタートすると、途端に忙しくなった。基本的に研究漬けの毎日である。大学の学部時代とは求められるレベルが段違いで、ついていくのがやっと。遊んでいる暇はなくなった。習慣にしようと思っていた川沿いの散歩も、最近は時間がとれなくて難しくなっている。
そんな日々を過ごす中で、俺はレヴィアや他の皆を忘れないようにマリーノーツでの出来事を記録として残すように努力した。
まるで受験生のように机に向かっている時間ばかりが長くなり、時が猛スピードで流れていく。
学校と家との往復ばかり。
毎日机に向かったまま眠るような週もあった。
夢を記憶していないことさえ気にならないほど、大学院の初年度は忙しさに振り回されていた。
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さてさて、今回の夢は、以前見た夢の続きのようだ。
なぜそれがわかるかというと、夢の中の傍観者としての俺は、現実の俺とは違い、夢の記憶を引き継いでいるからだ。
だから、夢の外の俺はレヴィアの正体も知らなければ、フリースやキャリーサを伴った旅のことなんかも全く知らないという状況が生まれている。
どういう仕組みなのかは知らないが、とりあえず夢の続きを見られた幸運に感謝しながら、俺の世界に上陸したレヴィアを見守ることにしよう。
夏の夜だった。この夢を見ている俺自身は、まだ春にいるので、すこし時間がずれている。まあ夢なのだし、そういうこともあるのだろう。
見下ろす俺の視界には、公園に女性二人。しかも雨が降っていた。
看板の前でキャリーサが腕組みをして考え込んでいる。
「何か手掛かりは無いもんかねぇ」
俺を探すためのヒントがないか、考えているようだ。
ふと、そこに一陣の風が吹き、レヴィアは何かに気づいたように顔を上げた。
「コイトマルさんの、ほんのり甘い良い匂いがします」
二人は、舗装された道を行き、夜の都会を一直線に東に向かった。
信じられないくらい長い距離を歩いているけれど、この二人、疲れないんだろうか。
もしかしたら、転生者がマリーノーツで普通より強い肉体を手に入れていたのと同じように、こちらの世界では、二人とも疲れ知らずなのかもしれない。
やがて、辿り着いたのは夜の公園。小雨を気にもせず、橋のそばの岩の上に座って曇り空を眺めている青い半袖シャツの姿があった。
銀髪の美しい女の子がそこに居た。現実世界の俺が見て気になっていた子だ。
「フリース?」
「レヴィア。やっと来たぁ!」
フリースは感情を爆発させて、大いに笑って泣きながら、レヴィアに思い切り抱きついた。
この喜びよう。レヴィアにとっては時空移動の異空間の中で別れてすぐの再会だったが、フリースにとっては違うようだ。
「――四年間、心細かった……。もう会えないと思ってた……」
流しても流しても、次から次へと涙が溢れてくるようだった。
フリースは長いことレヴィアを抱きしめながら泣いていて、やがて俺の世界に来てからのことを語り出した。
四年前の春、湧き水の池のほとりで倒れていたところを廃寺を買い取って住む老人男性に拾われた。言葉が通じない中、フリースは身振り手振りや絵などを駆使して、両親がいないことや、一人でも生きていけることなどを伝えた。
フリースとしては幸運なことに、尖った耳のことなどは気にされることなく、そこに居着かせてもらったのだという。人間をやめているレベルの、とてもおおらかな老人だったようである。
老人から読み書き算盤を教わる日々がしばらく続き、フリースは持ち前の智力で、たちどころにマスターしていった。そしてなんと、日本人の名前を名乗り、中学校や塾にさえ通わせてもらい、受験勉強の果てに、新設されたばかりの私立エリート名門高校に合格するという離れ業をやってのけた。
そして数ヶ月前の春に高校を卒業し、現在は無職であるという。
フリースはマリーノーツでも波瀾万丈だったが、ここ現実でも濃厚な人生を過ごしているようだ。
エリートしか入れなかった高校に籍を置いて、成績は良かったものの、大学には行かないことにした。そのことを老人に告げるのに緊張したけれど、引きとった謎の娘の進路には何の頓着もないらしく、反対されることもなく、それ以降も廃寺跡に住まわせてもらっているという話もした。
フリースとしては老人がなにか下心があって住まわせているのではないかと疑っていたらしいが、その瞬間に本当に安心したと言っていた。同時に恩返ししたい、とも力強く言った。
「こっちでは氷の力は使えない。そんなあたしに出来ることって何だろうって思いながら、レヴィアを待ってた」
「オリハラクオンとは会えたのかい?」とキャリーサ。
「姿はみた。でも、声、かけられなかった」
あの春の日、俺と桜の下で目が合った。あれは再会といえば再会なのだろうけど、ちゃんと会えたわけではなかった。
「ていうか、なんでフリースだけ四年前に飛ばされたんだろうね」
「あたしも、ずっとそれ考えてたけど、簡単に言うと、四年前の写真を持ってたからだと思う」
なるほど、俺の学生証は、大学一年のときに撮られた写真がついていた。
それに対して、他の二人が持っていたのは、マリーノーツで描かれた俺の絵だった。描かれた時の姿に近い時間に飛ばされるのだとしたら、俺が戻ってきてから少し後に二人がやって来たのも納得ではある。
「どうして四年も時間があったのに、ラックさんに会いに行かなかったんです? ガクセイショーというものがあったなら、ラックさんの居場所はわかってたはずですよね?」
レヴィアが眉間にしわを寄せて言って、フリースが「そうだけど……」と視線を落として言い淀むと、すかさずキャリーサがフォローに入る。
「まあまあ、いいじゃないさ。ていうか、なんでレヴィアはそんなに怒ってんのさ?」
「自分でもわかりません。でも、せっかくすぐ近くにいたのに会わないなんて、変じゃないですか?」
するとフリースは、いくつも沈黙に沈黙を重ねた後に言ったのだ。
「ひとりじゃ、こわくて」
知らないと言われるのが怖かった。四年前のラックは、自分のことを知らないんじゃないかと思った。
お前じゃないと言われるのが怖かった。ラックはきっと、自分じゃなくてレヴィアのことを待ち続けていると思った。
だから、忙しさとか、異世界への適応とか、受験勉強とかをラックに会わない言い訳にして、ラックに見つけてもらうのを待っていた。
たぶん、そんなところだろう。
「あたしのラックへの『好き』って、たかがそれくらいなんだよ。ひとりじゃ踏み出せないくらいの『好き』なんだよ。偶然にね、ラックがあたしの前を通りかかったときにも、ばれないように、ひきつった笑いをして、顔を変えたりしちゃった」
このフリースの言葉は、少し違うんじゃないかと思う。
俺が言うことじゃないかもしれないけど、フリースの気持ちがレヴィアに負けているとは俺には思えない。気持ちが大きいからこそ、踏み出せないってこともあるんじゃないか。
いずれにせよ、フリースは少し自分に厳し過ぎるような気がするのだが。廃寺跡に住んでるからって、修行っぽいことしなくたって良いのにと言ってやりたい。
空気がこれ以上ないくらい沈んだので、キャリーサは明るいヤツに援軍を求めようとした。
「コイトマルは、どうしてるんだい?」
「一緒に来てる。ここみたいな、周りに林とか川とかがあるところなら、あたしとだけは話すことができるから、なんとか本当に一人きりじゃなくて助かった。今も、『お二人とも、おひさしぶりですねぇ、お変わりないようで何よりです! そうお伝えください!』とか言ってる」
これで場が少しだけ明るさを取り戻したが、レヴィアの怒りは治まっていなかった。
「二人とも、なにをのろのろやってるんですか! 今すぐ、会いに行きますよ!」
「レヴィア、落ち着いて。もうけっこうな夜だから、今から行くのは良くない」
「そんなの、こっちの世界の常識です。マリーノーツではそうじゃありません」
いや、レヴィアはそう言うけれど、マリーノーツの方が夜間の訪問に厳しかったぞ。町によっては夜間外出罪みたいな形で逮捕されるところさえあった。
「とにかく、学問所の場所を教えてください。いっしょに行きますよ!」
「今は入れないし、そこに行くくらいなら、ラックの住んでるところに行くほうがマシ」
「ラックさんは、いま、どこにいるんです?」
「わからない。レヴィアの鼻でなんとかならない?」
「コイトマルさんの匂いだけは異質なのでハッキリわかりますけど、他の変なニオイが多すぎて無理です。川も池も臭いですし。森も人間くさいというか……全体的に人間のニオイが強くて、よほど近くに行かないとわからないと思います」
「まずは慌てず、この世界に慣れることから始めたらいいんじゃないかな。大学も、いまは夏休みだし、ラックもいつも大学にいるとは限らないし」
「なつやすみ?」
「そのお休み期間が終わったら、みんなで行こう。それまでは……」
と、そこまで言ったところで、レヴィアがキャリーサの手首を掴んだ。
「なんなんですか! さっきから、うじうじして。もういいです。フリースみたいな意気地なしは置いていきましょう。いきますよ、キャリーサ」
そして岩に座ったままのフリースに背を向けて、橋を渡ろうとした。
「まって!」
フリースが呼び止めるまでもなく立ち止まっていたレヴィアのところに、フリースは地面を滑るのではなく、走って近づいていった。
そして、一枚の紙を取り出して何かを書いた後、それを差し出して言うのだ。
「これ、あたしの連絡先。誰かに追いかけ回されたりしたら、相手の人に、これを渡して」
「これ、何て書いてあるんです?」
「住所とか、あたしのこの世界での名前。名前をきかれたら気づいてもらえるように、『丸糸子』って名乗ってる」
丸が苗字で糸子が名前だ。言うまでもなく、コイトマルの名前を借りて入れ替えたネーミングである。確かにね、俺が彼女の偽名を聞けば、一発でフリースだとわかるだろう。
レヴィアは金属製の橋の欄干に手をつきながら、フリースの差し出した紙を片手で乱暴に受け取った。
「いきますよ、キャリーサ」
再びキャリーサの手首を掴んで欄干から名残惜しそうに手を離すと、降り続ける小雨の下、闇の中に消えていった。
「よかった……」
二人が無事にこの世界に来られたことに、フリースは安心していたようだった。
さて、レヴィアは、ラックを探すため、しらみつぶしに歩き回るという作戦に出た。
それは、紫色の怪しい服を着た女と一緒に熱帯夜の東京を歩き回るということである。
あっちです、こっちだよ、こっちかも、わかんない、こんどはこっちに行ってみよう、ここはどこでしょう。こっちの気がします。なんて、そんな感じで、あてもなく歩き回っているうちに、さすがにキャリーサは疲れたようだ。
中野という駅の前にある広場で、紫色のテントを広げて休憩しようと提案した。
そして、テントを広げて、中で休んでいると、二人の男が声を掛け、中に入ってきた。
駅員と警官である。
「君たち、なにしてるの?」
本当に、この警察官の方の言うとおりである。レヴィアもキャリーサも、一体なにをしてるんだ。そういうふざけたことをしてれば、俺がツッコミを入れに現れるとでも思っているのだろうか。
「変な格好をしてる人ですね。何なんです?」とレヴィア。
「あたいのお客さんかい?」とキャリーサはタロットカードを構えた。
ちょっとそこの交番まで来てくれと言われたが、言葉が通じなかった。
レヴィアが駅員さんに腕を捕まれそうになったので、慌てて回避し、距離をとった。キャリーサがスキルを発動して戦おうとしたが合成獣は出現せず。それを見たレヴィアは、「これを!」と言ってキャリーサに名刺を投げ渡そうとした。
おそらく、この世界のカードを使わなくてはスキルが発動しないと考えたからだろう。
しかし、訓練された警官は、高速回転するカードをあっさり指の間でキャッチすると、そこにある文字を読んで、駅員の実力行使を制止した。
名刺のような硬い紙には『あたしたち迷子です。この保護者に連絡してください』というメッセージとともに、丸糸子さんの名前と電話番号、そしてメールアドレスが記されていた。
電話でキャリーサと話した丸糸子は、おとなしく自分の住む廃寺跡の住居に来るよう伝えた。
結局、二人は、やさしい警官さんの協力のもと、タクシーに乗せられたのだった。