◆097. もう一つの暴力 2/2
一護の顔が近づいてきた。顔を背けると、そこで動きを止めた。
動きが止まって助かったが、どうしたらよいかわからなかった。一護は、教えてあげる、と言った。さすがにあれを教えもらうわけにはいかない。
(む、無理やりされそうになったら……、蹴る? だ、ダメ。一護くんに暴力はダメ! さ、叫ぶ? でも、こんな状況で叫んだら……)
動かなくなった一護をチラリと見た。目が合った。
(あ……。そうか、これは、たぶん、きっと――)
「わ、わ、わかってる! 意味わかってるから! 教えてくれなくても大丈夫! 一護くんよりも、全然詳しいからっ!」
私がそう言うと、一護はすぐに離れてくれた。隣に座り直し、膝を抱えた。
わからないフリをしたことがバレていた。フリをした時点でバレていたのかもしれない。そうでなくても、教えてあげると言われ、こんなに慌ててしまっては、わかっていると態度で示しているようなものだ。
だいたいわかっていなくても、一護は教える気などなかったと思う。動きを止めた一護は、ただ私の目をジッと見ていた。私の手首を掴んでいた一護の手には、力が入っていなかった。いつでも振りほどけた。
(でも……、この年齢でこんな手を、こんな口の割らせ方を思いついちゃうなんて)
「ボクよりも、か。アハハ。……やっぱり、お嬢様はちゃんとわかってるんだね」
一護はまた遠くを見た。
「あの日、ボクたちの話を聞いて、汚くないって言ってくれて嬉しかったよ。でも、あとから思ったんだよね。ボクたちの話、本当にわかったのかな? って。お嬢様って、何も知らなそうだから」
「でも、あの日も今も、話を聞いてるお嬢様のこと見てると、わかってるんだなって思えて。反応っていうか。聞き返さないし。なんとなくだけど。たぶん、一加も。何も考えてないんだろうけど、そう感じてて。だから、お嬢様の言葉に安心したんだと思う」
「……本当に意外だな。お嬢様はなんで知ってるの? 誰かに教えてもらったの? それとも本とか? 本棚にそういう感じの本は、なかったと思うけど。隠してる?」こちらに顔を向け、首を傾げた。
「教えてもらってない! 本も隠してないよ!」
思いきり首を横に振った。一護の言葉に、またしても慌ててしまった。
一護は目を見開いた。少し微笑んでから、悲しそうな顔をした。
「でも、そうだよね。こういうことは……、好きな人と。やっぱり、ボクは……」ボソッと呟いた。
「汚くないよ」体を起こして、一護のほうを向いて座った。
「本当に汚くない? だって、ボクは――」
一護は伏せることなく、されたことしたことを私に話した。
私たちくらいの年齢の子は、そういうことに興味を持ちはじめる頃だと思う。そういうことは、興味を持って、本を見たり、友だちと話をしたりして、自ら知っていくことだと思っている。
それを一護は興味を持たないうちに、強制的に知ることになってしまった。見せられてしまった。苦痛、だったと思う。しかも、今の一護ではない。数年前の一護だ。
「――これでも、汚くないって言えるの?」
「一加ちゃんを守ろうとした一護くんの、その気持ちと行動が、汚いわけがない」
「本当に? 本当にそう思ってる?」
「思う。思ってる」一護の目を見て頷いた。
「……でも、なんで私に教えちゃったの? 二人とも、その……観賞されてたって話で。それで終わりで良かったのに」
「さっきも言ったけど、お嬢様が話を聞いて、本当にわかってるのか気になって。それと、もし、一加のこと勘違いしてたら嫌だったから」
「そっ……か……」
「嘘だよ」
「え?」
「ボクが聞いてほしかっただけ。お嬢様ならきっと……、汚くないって言ってくれるって思ったから。ボクのこと……、知った上で言ってくれるって」
「汚くないよ。ちゃんと本心だよ」
視界がボヤけた。これ以上ボヤけないように、涙がこぼれないように深呼吸をした。
胸が苦しい。一護たちがひどく辛い目に遭ってきたことを考えると、一護が一加のために耐えてきた日々を思うと、胸が苦しくて辛い。一加のために身を挺した一護はすごい。
(だ、ダメだ……)
うつむいた。パタパタッと膝の上に涙が落ちた。
「泣いてる?」
「さっきぶつけたところが痛いだけ」
「結構経ってるよ」
「……思い……出して」
「痛いのを?」
(顔じゃなくて……)
あのときのことを、はたと思い出した。
黒羽も同じことをしようとしていた。理由はどうあれ、私のために自分のことを差し出そうとしていた。あのとき、私は前世の記憶があったから、あの年齢でもどうにかなった。もし、前世の記憶がなかったらどうなっていただろうか。
(私、前世の記憶があって良かった)
「汚くない。絶対に」
(一加ちゃんも。一護くんも。黒羽があのとき、未遂じゃなくて、想像したくもないようなことになっていたとしても)
「汚くないんだよ」心の底から、そう思える。
「そうだね。ありがとう」
一護の声は震えていた。顔を上げると、一護は目に涙を溜めてはいたが、泣いてはいなかった。
「アハハ。お嬢様、泣きすぎ」
一護は笑いながら、目元を指で拭った。私はハンカチを取り出し、涙を拭いた。
「お嬢様。触っていい?」
「いいけど。どこに?」
「うーんと……。ほっぺに」
「どうぞ」
「ありがとう」
手の平で、そっと頬に触れてきた。
「髪もいい?」
「いいけど。二日に一回触ってるでしょ?」
毎晩、一加と一護が交互に、私の髪を乾かしてくれている。
「そうだけど。今は……、違うから。さっき話したから。ボクのこと、わかったでしょ?」
(そういうことか……)
「わかったけど、触っちゃダメなんて思ってないよ。だから、どうぞ」
「うん」
一護は頬に触れていた手で髪に触れ、そのまま手を下ろした。
「お嬢様も……、触って。顔がいいな」
一護の頬に、手の平で触れた。
(そうだ……)
「ほっぺ、つまんでもいい?」
「なんで?」一護は目を丸くした。
「なんでも。いい?」
「いいけど……、いたっ! 痛いんだけど!」
「さっき、意地悪されたの思い出して。注意しとこうかなって」
「意地悪って?」
「あんな風に女の子を押さえつけるのは良くないよ。ああいう意地悪はダメ」
もう片方の頬もつまんだ。
「痛いっへ!」
「こんなところで、意地悪するのも良くないよね。誰かに見られたら、どうするつもりなの?」
「部屋ならひひの?」
「黒羽みたいなこと言わない!」
頬から手を離した。額をペチンと叩こうと思ったが、すんでのところで手を止めた。
「おでこ叩いてもいい?」
「なんで聞くの?」
「だって……、その……」
黒羽だったら迷わずペチンとするところだが、相手が一護だと迷ってしまう。暴力を受けてきた。トラウマを刺激したくない。だったら、やるなという話だが、もう構えてしまった。
「ああ、そっか。大丈夫だよ。振りかぶられたら、さすがに驚くかもしれないけど。お嬢様なら怖くないし」
「それじゃ、遠慮なく。部屋ならいいとかじゃないからね!」
ペチンと額を叩いた。前髪も含めて髪を結っているので、額が出ていて非常に叩きやすい。
「ずっとお嬢様を避けてきたボクに言われてもかもだけど。一加もボクもお嬢様のことが好きだよ。三つ子になりたいくらい。だから、一加に触ってあげてほしい」
「触るの?」
「うん。いっぱい触ってあげて。ボクのことも、一加のついででいいから触って。言葉も嬉しいけど、触ってもらえるのも嬉しい。今くらいの、おでこを軽く叩くくらいだったら、一加もボクも平気だから気にしないで。お嬢様は大人じゃないし大丈夫」
「わかった。そうする。やめてほしいときは、ちゃんと教えてね。絶対に無理はしないで」
「うん。ありがとう、お嬢様」
にこっと微笑んだ一護の両手を取り、頬にあてた。
「どうしたの?」一護は首を傾げた。
「つまんでいいよ」
「なんで?」
「意味わかってるのに、わからないって嘘ついたから。一護くんが真剣に話してくれてたのに、わからないフリしようとしちゃって、ごめんなさい」
一護の指が頬を優しくつまんだ。
「本当にごめんね」
「ダメ。許してあげない」
「いふぁい~」
一護はつまむ力を強め、さらに左右に引っ張った。
「わからないフリのことじゃないよ。それは気にしてない。それじゃなくて。一加ちゃんじゃなくて、一加。一護くんじゃなくて、一護ね」
「ふぁい」コクコクと頷くと手が離れた。
「じゃあ、呼んで」
「一加、一護」
「うん」
「お嬢様~! 一護~!」
声のしたほうに顔を向けると、一加が笑顔で手を振っていた。
一護から、すごく見られていると思ったのは、間違いではなかった。一加がいないときに私と話がしたいと思っていて、ついつい見てしまっていたと、あとで教えてくれた。そのときに、お願いされた。
「ボクが勝手に話したことだけど、一加はボクだけがされていたことを知らないから、絶対に言わないで」
約束して、と言った一護は、少しだけ辛そうな顔をしていた。
一護の両手を取り、約束するよ、と目を見て応えた。一護は私の手をギュッと握りしめ、ありがとう、と微笑んだ。
いつも一緒にいて仲が良く、お互いのことで知らないことなどないのではないかと、勝手に思っていた。だが、大切に思うからこその、隠し事があった。
私に話すことで、少しでも気が楽になるのであれば話してほしい。いくらでも話を聞こう。私が触れることで、二人が嬉しくなるのであれば、いくらでも触れよう。そう思った。




