◆007. 親子の写真
「菖蒲の瞳は、たまに紫がかるな。薄い紫。すみれと同じだ」
八月も下旬に差しかかる頃。早く帰ってきた父が、玄関で私を抱き上げ、私の前髪を指で横に流しながら言った。
「おかあしゃま?」
父は、しまった、という表情をして口ごもった。父の後ろにいた大地たちも、気まずそうな顔をしている。
(そうか、私がお母様が亡くなったことを理解してるって知らないから)
「おかあしゃまのこちょ、わかりゅ。あえにゃいのいみ、わかりゅ。もう、だいじょーぶ」
驚いた表情をした父だったが、「そうか、わかるか」と私の頭をなでた。
「しゃしゅん、おかあしゃまのしゃしゅん、みちゃい」
いつかお願いしようと思っていたが、良い機会なのでお願いすることにした。
父は、口を真一文字に結び、眉間にシワを寄せた。怖い顔が、余計に怖くなった。
写真を見たら、また恋しがるのではないかと思っているのかもしれない。
両手の親指で、眉間のシワを左右に伸ばしながら聞いた。
「わたしゅの、ほんきゃら、しゃしゅん、もってっちゃでしょ?」
「……すまん。泣くかと」
かまをかけてみたが、当たりだったようだ。『0』の刺繍が施されている小冊子からなくなっていた写真は、なくしたのではなく父が抜いていた。
「おとーしゃまがいりゅから、だいじょーぶ。おにゃがい」
父は、嬉しいような困ったような顔をして、「わかった」と書斎に連れていってくれた。
父の書斎は、私の部屋と左右対称の位置にある。玄関から二階に上がり、右に行くと私の部屋が、左に行くと書斎がある。
書斎に入るのは、初めてだ。家の中を探検しているときに何度か侵入を試みた。でも、いつも鍵がかかっていて入れなかった。
(あれ? この場所、知ってるかも?)
入ったことがないと思っていた父の書斎は、なんとなく見覚えのある場所だった。でも、少し違和感があった。
ドアの正面奥、腰高窓の手前には重厚な机と椅子が置かれている。右側には、小さいバルコニー付きの窓がある。左側は、壁一面本棚になっている。
私の部屋には腰高窓が二つあるが、こちらは一つしかなく部屋が狭いように感じた。
その理由は、すぐにわかった。
父が本棚の棚の一部を触ると、カチッと音がした。本棚を横に押すと、棚の一部が、横開きのドアのように移動した。
本棚の後ろにも部屋があった。そこには、座り心地の良さそうな肘かけ付きの椅子と、丸いテーブルが置いてあった。
ぶわっと、母が生きていた頃の光景が蘇った。
バルコニー付きの窓の近くに、テーブルと椅子が置いてあり、そこで刺繍を刺したり、お茶をする母の姿。父は、机で書き物をしている。
特に会話もなく、父が走らせるペンの音だけが微かに響く。とても幸せそうな時間。
違和感は、窓の近くに椅子とテーブルがなかったのと、本棚で仕切られていたため私の部屋と広さが違って見えたせいだった。
父は、私を床に降ろし、本棚の後ろの空間から、一冊の本を持ってきた。
本を机に置き、椅子に座ると、私を膝に乗せた。
「見てみなさい」
本を開くと、それはアルバムだった。ほとんど、私の写真だが、たまに父や母も写っている。
忘れかけていた母の顔を思い出した。瞳の色まではわからないが、髪は母ゆずりなのがわかる。
「おかあしゃまに、にちぇる?」
「似ている。すみれ似だ。本当に良かった」
父は真面目な顔で何度か頷いた。
「にちぇなくても、おとーしゃまのきょと、だいしゅき」
膝から下り、父の左側に回り込み、腕にギュッと抱きついた。
「しょれに、きっちょ、にちぇるときょ、ありゅ」
父の頬にチュッとキスをした。父の顔がほころぶ。基本、怖い顔の父だが、たまに優しい顔をする。その顔が見れるとこちらも嬉しくなる。頬へのキスは、その顔を見るのに非常に有効な手段だ。
(お母様もこの顔が好きだったのかも)
椅子に座る父と机の間に立ち、アルバムの続きを見た。最後のページに、写真が一枚挟まっていた。裏側が上になっていた。
「菖蒲のアルバムに使われていた写真だ」
裏側には『七月七日』と誕生日から約一ヶ月後の日付が書いてある。写真をめくると、椅子に座って赤ん坊の私を抱く母と、その横に花を一輪持ち立つ父が映っていた。
「このはにゃ、あーめ?」
「これは、ハナショウブだ。アヤメって花と似てるが、違う花だ。アヤメの名前は、ハナショウブのショウブからつけた。ショウブって漢字は、そのままアヤメと読むこともできる」
父は、紙に『花菖蒲』と書き、『菖蒲』の部分を丸で囲んだ。「難しいな」とペンを置いた。
「おかあしゃまと、どきょで、しゅりあっちゃにょ?」
父と母は、どこで知り合ったのだろうか。気になる。聞きたい。母がいれば母に聞いたが、母はいないので父に聞くしかない。
父の方を向いて質問した。父は黙っている。
(教えてもらえないか)
小さい子は親や周りの人の発言を、そのまま言ってしまったりする。私が他の人に言ってしまうかもしれないことを、警戒しているのかもしれない。
父の場合、単純に恥ずかしいから言わないだけのような気もするが。
(ちゃんと話せるようになってから、徐々に聞き出すか……)
あきらめて、アルバムをもう一度見てみようと、机の方を向いた。すると、父が私を持ち上げ、そのまま膝に乗せた。
「学園だ」
「え?」
父のほう、後ろを向こうとすると、父の両手が頬に添えられ、前を向かせられた。
「だから、学園だ」
(もしかして知り合った場所?)
「りぇんあいけっきょん?」
「そうだ」
(恋愛結婚なんだ)
「しょちゅぎょーして、しゅぐ、けっきょん、しちゃの?」
「いや」
「にゃんで?」
「それは、内緒だ」
「おしゅえちぇ」
「内緒だ」
(というか、さっきから、お父様のほうを向こうとすると、前を向かせられるんだけど)
アルバムが見たい、と言って膝から下りた。下りた瞬間に振り向いた。父は無表情だった。
父の膝に両手をつき、父の顔を覗き込むように質問した。
「おかあしゃま、きゃわいきゃっちゃ?」
父は固まった。私のことをジッと見つめて固まっている。
父の耳にかけていた長い前髪が半分ほど垂れていた。その前髪が、ふわりと浮いた気がした。瞳が潤んでいるような気がする。
「かわいかった。菖蒲はそっくりだ」
父は、はにかんだような笑顔をして、私の頭をなでた。
(お父様、かわいい……)
自分の父親にかわいいは変かもしれないが、そう感じてしまった。母は見る目があるなと思った。
(お母様とのこと、絶対に聞き出そう)
そのためにも、頑張ってちゃんと話せるようになろうと改めて思った。
「これ、もどしゅちぇいーい?」
『七月七日』と書かれた写真を父に向けた。かまわないとのことだったので、一緒にアルバムに戻そうと、父の手を引いて書斎をあとにした。