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屋上庭園  作者: 深瀬静流
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後編

 この屋上から麻衣が転落し、悠と一緒にそれを見ていた耀子が翌年行方不明になった。雅子は娘を失った悲しみで平常心を失い、百合子は狂気のように耀子を探して心を病んだ。そして、悠が来るのを待っていたように、死んだはずの麻衣が屋上庭園に現れた。麻衣が見せる幻影の町には行方不明の耀子がいた――本文より――


◆◆◆◆再びの屋上庭園◆◆◆◆


 東都建設の本社ビルの応接室で、担当者から報告書を受けとった修三は、依頼していた田崎ビルの耐震検査結果に目を通した。国土交通省が発表した耐震改修促進法が施行されることになったので、マンションビルとほかの二つの貸しビルを調べてもらったら、貸しビルのほうは築年数が経過していることもあり建て替えを勧められたが、マンションのほうは補強工事をすれば十分だということなので、話はその方向で決まった。これを機に、修三はマンションの屋上庭園を廃棄しようと考えていた。

 すべて処分して何もない屋上に戻すつもりだった。耀子が行方不明になって十年が過ぎた。今は十二月だから、生きていれば、現在高校三年生で、来春の三月には高校を卒業する。生きていて、高校に通わせてもらえるような境遇であれば、の話しだが。

 用談をすませて、修三は東都建設の地下駐車場に下りた。車を向けたのは精神科がある総合病院だった。あんなに励んでいた百合子のビラ配りだったが、突然糸が切れたように興味を失ってしまった。無気力になり、身だしなみにも無頓着になり、料理も買い物も、会話さえしなくなってしまった。感情の波が激しく、突然泣き出したかとおもうと独り言を繰り返した。食事もとらなくなってしまって、痩せた体がますます細くなったのを心配した修三が、無理やり病院に連れて行ったところ、精神科に入院することになってしまった。

 修三は百合子が憐れでならなかった。投薬と安静と精神作業療法が功を奏してきたのか、ようやく退院にこぎつけた。いまごろ百合子は荷物をまとめて、自分が迎えに行くのを首を長くして待っていることだろう。見舞いに行くたびに、化粧をしていない百合子が、修三を見てうれしそうに微笑むのを、修三はいつも美しいと感じた。痩せて骨にうっすらと肉がついているだけの姿も美しいとおもった。余分なものをそぎ落とし、失ってしまった我が子と、夫への愛だけに生きている妻に強い愛情を覚えた。耀子を失ったことは辛いことだったが、修三には百合子がすべてだった。百合子とともに生きる。修三は、真っ直ぐ前を見つめて、退院する百合子を迎えに車を走らせた。



「雅子さん。たいへんご無沙汰いたしております。田崎百合子でございます」

 雅子は受話器から聞こえてきた相手の声に驚いた。何年ぶりだろう。屋上庭園に外宮そとみやを建立したのでおいでいただきたいとの電話で田崎家を訪れたことがあったが、百合子の声を聞くのはそれ以来だ。

「おかわりございませんか」と、明るい口調で百合子はいった。

「ご無沙汰しております。こちらは相変わらず仕事で忙しく過ごしております。」

 警戒気味に返した返事に百合子は軽く笑い声をもらした。

「お元気でお忙しいのは何よりですわ。じつは今度、マンションの耐震補強工事をすることになりまして、主人がついでだから屋上のお庭をなくしてしまおうというんですの」

「はあ」

「なくしてしまうのは寂しい気もするのですが、遊ぶ子供もおりませんし、あってもしかたがないとおもいまして、そうすることにいたしました。以前お庭に小さなお宮を建立したとき、雅子さんに来ていただきましたでしょ。お宮も処分しますので、神様にお帰りいただくために、また神主さんに祝詞をあげていただくのですが、雅子さん、今度もいらしていただけませんでしょうか」

「あの、それでは、庭の木は廃棄するのですか」

「ええ。産廃業者に全部処分してもらうつもりです」

「杏の木も」

「もちろんですわ。一番見たくない木ですもの。気味が悪くて、せっかくお宮さんを建てたのに、わたし、ぜんぜんお参りしなかったんですの。でるんですのよ。麻衣ちゃんが。幽霊になって」

 うふふ、と百合子は秘密めいた笑い声を漏らした。雅子は全身に寒気を覚えた。そして、ふつふつと怒りがわいてきた。

「麻衣がでるんですか。あの庭に。あなたは麻衣の幽霊を見たんですか」

「ええ。み、た、の、よ」

 ひそめた声が、百合子の精神の異常さを露呈した。

「そういうときは、わたしに電話をください。会いたくても会えないでいるわたしは、幽霊でもいいから娘に会いたいんです」

「わたしもよ。幽霊でもいいから、耀子ちゃんに会いたいわ。会いたくて、会いたくて、気が狂いそうになるの。雅子さんもそうでしょ」

 雅子は絶句した。歌を口ずさむように楽しげに百合子は話す。百合子の声が遠のき、かわりに修三の声が聞こえた。

「吉井さん。妻がおかしなことを言って申し訳ありません。ご不快にさせてしまって、謝ります。いかがでしょうか。いらしていただけないでしょうか。これで最後です。もう迷惑はおかけしません」

「田崎さん。では、あの杏の木をうちに引き取らせていただけますか」

「ええ。かまいません。ほかにほしいものがありましたら、ご自由にお持ちください」

「いいえ! ほかのものはいりません。杏の木だけ、いただきます」

「わかしました」

 日時を打ち合わせて電話をきった。これで最後。雅子はそう自分に言い聞かせた。麻衣は死んだ。耀子はいまだに行方不明だ。同じようだがまったく違う。行方不明には一縷の望みがある。それが雅子には妬ましかった。


「お母さん。支度できた?」

 玄関で悠は奥に声をかけた。雅子は田崎家に悠をともなうのを逡巡していたが、雅子から話を聞いた悠は、自分から行くといった。このところ、夢の回数が増えていた。夢は子供の頃に受けた心の傷のせいだと考えていた。目のまえで姉が転落死したのだ。あのときの記憶は、心の深い部分に焼印を押した。

 十年前、外宮を建立したというので雅子に連れられて、田崎家の屋上庭園を訪れたことがあった。荒れ果てて見る影もなくなってしまった庭園で悠は姉を見た。夢の中ではなく、目覚めているときに見たのだ。会ったというべきだろうか。

 この機会に行ってみようとおもった。夢の中に出てこなくなった姉が、屋上庭園でなら姿を現すのか、行ってみなくてはならないとおもった。屋上庭園が処分されるなら、その前に、庭ももう一度見ておきたかった。

「おまたせ」

 雅子が暖かそうなロングコートと手土産を抱えて現れた。土間の靴脱ぎ台に降りてハイヒールを履く。雅子の装いはプレタポルテのウール地の黒のスーツだった。ジャケットの飾りボタンと首もとの真珠のネックレスが調和していた。悠は高校の制服の上からダッフルコートを着ていた。

「いきましょうか」

 二人は倉庫の横の車庫に向かった。雅子が使っている車と祖父が乗っている車が並べてとめていある。悠の自動二輪バイクと通学に使っている自転車も手前のほうにとめてあった。日曜日なので従業員の姿は無く、庭も圃場も閑散としている。雅子がなめらかに車をスタートさせた。二人は無言で田崎家に向かった。


 田崎夫妻は玄関で、雅子の後ろに控えている悠を見て感嘆の声をあげた。

「まあ。悠ちゃん。こんなに大きくなって……」

 リビングに通されて、改めて百合子は惚れ惚れと悠をながめた。修三も悠の高校生らしい率直な眼差しに笑顔を大きくした。

「悠くんは、たしか、高校二年生だったね」と修三は、雅子と悠にソファをすすめながら自分も腰をおろし、「僕と身長がたいしてかわらないじゃないか。何センチあるのかな」と尋ねた。

「百七十九センチです」

 悠が答えると、横から雅子が、「背ばかり大きくなって、まだまだ子供です」と控えめにいった。

「親からすればそうなんでしょうな。しかし、大きくなった悠くんをみると、時の流れを実感しますよ」

 百合子がお茶を運んできて修三の隣に座った。修三は悠の部活のことや、将来のことを聞きたがったので、悠は丁寧に答えた。そのあいだ百合子は口を挟まずじっと悠を見つめていた。なにを考えているのかわからない熱のこもった目付きだった。悠は居心地が悪くて百合子の視線を意識しないように努めたが、気になってしかたがなかった。うつむきかげんの雅子を盗み見ると、悠を見つめる百合子の視線に神経を張り詰めているのがわかった。息苦しかった。なぜ雅子が悠をともなうのをためらったのか、わかったような気がした。

「悠ちゃん。耀子ちゃんのお部屋に行きましょうよ。耀子ちゃんがいつ帰ってきてもいいように、きれいにしているのよ。ぜひ悠ちゃんに見てほしいの。こんなに素敵な青年になった悠ちゃんを、耀子ちゃんに見せてあげたいのよ」

 唐突な百合子の誘いに悠と雅子が驚いて顔を見合わせた。雅子が何か言う前に悠が口を開いていた。

「でも、耀子さんは行方不明なんでしょう」

 雅子がびくっとした。行方不明は禁句だった。

「耀子ちゃんはいないだけよ。いなくても悠ちゃんが来てくれたことはわかるわ。悠ちゃんがこんなに大きくなったように、うちの耀子ちゃんも、きっとどこかで美しい娘に成長しているに違いないの。お部屋には、耀子ちゃんの写真がいっぱい飾ってあるのよ。写真を見に行きましょう」

 悠の腕を引いて連れて行こうとする百合子の手を、雅子は強く払っていた。その衝撃が百合子を正気づけたようだった。

「まあ。ごめんなさい。わたしったら」

 困ったように笑ってごまかす百合子の目から、大粒の涙がぼろぼろこぼれだした。

「ほんとうに、ごめんなさいね。いやだわ、わたしったら。悠ちゃんを見ていたら、うらやましくなっちゃって。悠ちゃんがこんなに大きくなって……でも、うちの耀子ちゃんは」

「いいかげんにしてください」と、雅子が気色ばんで言葉を続けた。

「悲しいのは、あなただけじゃないんです。わたしだって、麻衣を失っているんです。辛いのは自分だけみたいなのは、もうやめてください」

 無理に声を抑えた雅子の、腹のそこからの怒りに、悠の胸がきりきりしてきた。

「百合子。お茶を飲みなさい。落ち着こうね。吉井さんも、どうか、こらえてください」

 修三が辛そうに雅子に向かって小さく頭を下げた。玄関でチャイムが鳴った。

「みえたようだね」

 修三が神主を出迎えに行って戻ってきた。式服を着た神主が入ってきて挨拶を交わした。十年前の神主は老齢だったが、今度の神主は中年だった。代替わりしたのかもしれなかった。修三を先頭に、玄関前の廊下を進んで突き当たりの階段を上り屋上に出た。

 七階の屋上に吹きつける木枯らしは身を切るように冷たかった。大人達は一様に首をすくめて北風をやり過ごした。外宮の祭壇には、米、塩、水、酒、榊が供えられていた。外宮の前で神主にならって全員が二拝・二拍手・一拝すると、「それでは神様にお帰りいただきます」といってぬきを振り、祝詞がはじまった。

 雅子は無言だったが、庭の荒れ方にショックを隠せないでいた。それは悠も同じで、手を入れない庭が、朽ちて野生に帰っていくのを目の当たりにした思いだった。

 十年前は化粧レンガの歩道が草の隙間から見えていたが、今では枯れた雑草に被い尽くされて色目も見えなくなっていた。雅子が夏なら日陰を、冬なら日当たりを計算して植えた植栽も、伸び放題に伸びた常緑樹の枝に負けそうになって、落葉樹の枝と絡まりあっていた。野鳥が運んできた雑多な種子があちこちで芽を出し根を張っている。葉を落としたツル草が投網のように樹木に絡まり、クモの巣がはびこっていた。

 神主の祝詞が朗々と屋上庭園に広がっていった。大和民族の血をゆさぶる厳かな祈りの声が満ちて行く。田崎夫妻も雅子も、目を閉じてじっと祝詞に聞き入っていた。

 悠は、どっしりと太くなった杏の木を見つめていた。剪定をしていなので、すき放題に大きくなった木は、裸の枝を複雑に交差させて空に伸びていた。

 雅子はこの木を引取るつもりでいるが、赤木造園にあるクレーン車では、このマンションの屋上まで届かない。レンタルで中高層まで届く大型クレーン車を借りてくるしかないだろうとおもった。

 悠は麻衣が現れるのを待った。きっと現れる。姿をみせてくれ、と悠は心の中で念じた。麻衣の魂が杏の木に宿っているのか、あるいは、この屋上庭園にあるのか、どちらなのかはわからないが、自分が来たのだから、きっと姉は現れるとおもった。

 冬特有の透明な日差しがレースのカーテンのようにたなびきはじめた。地上七階の高さを吹く風は強いはずなのに、悠のまわりだけは凪いだように静かだった。百合子と雅子の髪が風に乱れているを見ながら、悠は凪いだ静寂を確かめるように視線をあたりにめぐらせた。

 杏の木の陰から、麻衣が姿を現した。八歳のままの小さな麻衣が、悠を見て微笑んだ。子供なのに大人びた微笑みだった。生きていたら、姉は十九歳だ、と年を数えたとき、悠は大きく心を揺さぶられた。

 かわいそうに。お姉ちゃん。こんなに小さくて死んでしまったなんて。

 目頭が痛くなった。小さな姉は、悠を手招きした。木が絡みあった奥のほうに誘う。うれい顔の麻衣は、半透明の姿で藪に入っていった。正確には、透き通った体が藪の向こうに抜けて行った。悠は誘われるままに藪をこいで麻衣のあとを追った。

 神主の祝詞や風の音、地上から上ってくる雑踏の騒音が潮騒のように引いていく。悠が麻衣のあとを追うと顔や服に枝があたるので、かろうじて夢ではないと意識が保たれる。それなのに、屋上の庭にいるのではなく、森の中にいるような錯覚を覚える。時間の感覚も歪んでしまうのか、歩いても歩いても茨混じりの藪が続く。麻衣は振り返りもせずに流れるように進んで行くので悠は懸命にあとを追った。

 夢ではないはずなのに、しだいに焦りがつのってきた。麻衣の様子もおかしかった。目的があって進んでいるような表情だ。

「お姉ちゃん」と、悠は不安になって麻衣を呼びとめた。麻衣は悠を振り向いて、自分が行こうとしている方向を指差した。

「なにかあるの」と尋ねると、麻衣は動きをとめた。悠は麻衣のそばに寄って顔の辺りまである枯れた藪を両手でどけてみた。山の頂上から見下ろしたときのように、眼下に知らない町の風景が広がっていた。

「この街の景色じゃないな。どこなんだ」

 自分が暮らしている街ではない風景が展開していた。その不条理さに眉をひそめながら、こんなことを不思議がっていたのでは、麻衣の存在自体をどう考えていいのかわからなくなるとおもいなおした。麻衣は確かに自分の前に姿をあらわしているのだから。悠は、自分に起こっていることを、あるがままに受けとめるしかないと決めた。

 麻衣は、じっと眼下に広がる町を見つめていた。麻衣が見つめているところを悠も見つめた。集中すると、望遠レンズの焦点が合うように、ある一点がズームしてきた。郊外のような佇まいの町は道幅が広く、町の中を川が三本蛇行して流れており、寺があり、自然公園やスポーツ競技場があった。

 悠の注意を引いたのは、三本の川の中で一番大きな川に架かっている舗装された橋だった。橋の中ほどで悠と同じ年頃の少女が川を見下ろしていた。バスや車が通る橋の両側は歩道になっていて、橋から川までかなり高さがあるようだった。車の交通量は多いのに歩道は誰も歩いていない。地方都市ではよく見る光景で、車道は賑わっていても人が歩いていないのだ。

 彼女は家からちょっと外出しただけのような軽装で、欄干に身を乗り出して、冬の日差しに輝いている川面をじっと見つめていた。

「なにをしているんだろう。コートも着ないでセーターだけで、寒くないのかな」

 ねえ、お姉ちゃん、と振り向くと、麻衣は悲しそうに目を細めていた。もしも麻衣が泣くことができるなら、涙が浮かんでいたかもしれない。悠は再び橋の彼女を見つめた。

 彼女は手ぶらだった。コートも着ていないということは、家は近くですぐ帰るつもりなのだろう。

「お姉ちゃん。あの人がどうかしたの。お姉ちゃんは、あの人をぼくに見せようとしたの」

 尋ねても麻衣は答えなかった。悠は再び幻影の世界に目を戻した。彼女が欄干の柵に足をかけて身を乗り出した。いまにも川に身を投げようとしているように見えた。

「だめだ!」

 とっさに叫んでいた。はっとして振り向いた少女の顔を見て、悠は息を飲んだ。白昼夢の中で会った、あの人だった。



 拾子は、はっとして我に返った。いきなり頭の中に若い男性の声で「だめだ!」という叫び声が響いた。魅入られたように川を見下ろしているうちに、吸い込まれるように欄干を乗り越えようとしていた。死のうとしていたのかもしれなかった。

 拾子はあたりを見回した。自分に声をかけた人物を探したが、橋を渡る車の流れがあるばかりで人の姿はなかった。幻聴だったのかとうなだれた。誰でもいいから、一瞬でも死のうとした自分を止めてくれる人を望んでいた。死んではいけない。なにがなんでも生きなくてはだめだと、叱ってくれる人がほしかった。

 千賀子は拾子の進学に不満だったようだが、塩田が中国から帰ってきて、また本社勤務になれば、きっと力になってくれるとおもっていたから、進路調査には進学希望と書いて提出してあった。高校生の就職活動は高校三年の九月ごろから本格的な就職試験がはじまる。一社に対して一人が受験するのだが、希望者が重なった場合は成績順に受験が決まり、落ちたら次の会社の試験というようになっている。順調に行けば年内に就職が決まってしまうのだ。

 先日、高校を出たら一人で暮らせと千賀子からいわれて進学は諦めたものの、就職活動から大きく出遅れた拾子には、ろくな会社は残っていなかった。しかたがないので学校帰りに職業安定所を回ってみたが、賃金の欄をみると、この基本給でアパートの家賃を払ったら、いくらも残らなないという現実に途方に暮れた。

 千賀子にそのことを話すと、アルバイトをしていたではないかといわれた。アルバイトはしていたが、アルバイト代は衣服や学用品や身の回りの物に消えていた。実の親ではないので、留美や真美のように身の回りの物を整えてはもらえなかった。留美と真美の古着はもらえたが、ほかの必要なものはすべてアルバイト代でまかなっていた。だから拾子には貯金というものがなかった。拾子が困り果てて泣きついても、千賀子は、そんなことは知らないといって聞く耳を持たなかった。

 世間を知らない拾子は、どこか住み込みの仕事先でも探すしかないと思いつめた。十二月ももうすぐ終わる。卒業式は来春の三月十日だ。千賀子は忙しく実家と往復していて実家のそばに家を借りて、親戚が経営しているスーパーの事務所で働くことまで決まっていた。留美も仕事先を探しているし、短大を卒業する真美も向こうに就職するのだろう。拾子は鉄の欄干を握り締めて凍えてしまった指を開いた。帰らなければ。夕飯の買い物に行く時間だ。

 拾子はとぼとぼと歩き出した。目の粗い着古したセーターの中に北風が入ってくる。橋を渡り、寺の境内を抜けて、寺の地所の駐車場を通り抜け、蕎麦屋の並びにある自宅に入っていった。




◆◆◆◆◆姉とぼくと、もう一人◆◆◆◆◆


 田崎家から雅子とともに帰ってきたその夜、悠は眠れなくてベッドの上で寝返りばかりくりかえしていた。昼間見た屋上庭園での出来事が頭からはなれなかった。雅子が言うには、悠は神主の祝詞のあいだじゅう、じっとしていたという。雅子の言うことは本当だろうとおもった。あれは幻覚だったのだ。そうとわかっていても、川に飛び込もうとしていた人のことが気になって眠れなかった。

 あの人は、死のうとしていた。そうおもうと、いたたまれなくてベッドから身を起こした。めまぐるしく頭を回転させる。思い出すんだ、と自分を叱咤した。

 川が三本、町の中を流れていた。彼女はコートを着ていなかった。きっと家は近くなのだ。寺があった。広い駐車場もあった。あとはなにがあっただろう。

 悠は頭を抱えた。あの人が住んでいる町を探すには情報が少なすぎる。それより何より、屋上で見たことは現実だったのだろうか。

 首にぶら下げた紐を手繰り寄せた。屋上庭園の鍵が現れる。その鍵を見ているうちに、もう一度行ってみようという考えが浮かんだ。鍵があるのだから、こっそり忍び込めばいい。そう決心すると悠の行動は早かった。

 急いで着替えてダウンジャケットを着込んだ。マフラーを首に巻いて隙間風が入らないように襟元もふさぐ。机の一番最後の引き出しにしまってある懐中電灯を取った。足音を忍ばせて廊下を歩き、茶の間に置いてある車庫のシャッターの鍵を取った。玄関から外に出ると夜半の寒風が思ったより強く吹き付けてきた。空気が冷え込んでいるので月が冴えわたっている。足元を照らす灯りがほしくて懐中電灯を持ってきたのだが、必要ないほどの月明かりだった。

 車庫のシャッターの鍵を開けてから、壁に取り付けてあるリモコンのスイッチを押すと、シャッターが自動的に上がっていく。静穏タイプのシャッターだが静かな夜に響いて悠はひやりとした。バイクを出してヘルメットをかぶった。帰ってきたときのためにシャッターは開けたままにしておこうかと思ったが、このあたりもぶっそうになってきていて、車庫荒らしの話も耳にする。やはりシャッターを下ろすことにした。

 悠は緩やかにバイクをスタートさせた。道は雅子の車で走ったときに覚えていた。道路は空いており、信号の赤や緑が暗い空に寒々としていた。グローブをしているから手は冷たくなかったが、袖口や足元から風が入ってくる。悠の家から田崎のマンションまで車で四十分ほどだ。マンションに着いたころには日付が変わっていた。

 マンションの地下駐車場に滑り込み、業務用エレベーターの近くにバイクを止めた。駐車場はほぼ満車状態だったが、むきだしのコンクリートの空間は無人だった。防犯カメラが作動しているのは知ってたので、慌てずに自然な動作で業務用エレベーターに乗った。 マンションの住人が使っているエレベーターは別にあるので、あとから管理会社が防犯カメラをチェックしたら、悠の不審な行動は目に止まるだろうが、たぶん事故や事件でもないかぎりチェックはないだろうとおもった。

 直通エレベーターで上までのぼってエレベーターが止まりドアが開くと、そこは資材倉庫だった。懐中電灯で灯りのスイッチを探して照明をつけた。倉庫の中には、庭の手入れに使う用具や用土、肥料などが雑然と積み上げてあった。床にはうっすらと埃が積もり、どこから入り込むのか枯葉が散乱し、クモがそこいらに巣を張っていた。

 何年も使われていない倉庫のありさまには目もくれず、悠は首に下げていた紐を引いて鍵を出した。ドアの鍵穴に差し込んで解錠する。ためらわずにドアを開けた。

 青い月が冴え冴えと庭園を照らしていた。星は月の輝きに負けて霞んでしまっている。吹きつける清冽な風に、胸苦しいような土の匂いが混じっていた。

 庭のガーデンライトが点いていないので、倉庫の壁の配電盤を開いてスイッチを入れた。庭のいたるところからガーデンライトの柔らかな明かりが夜空に広がった。

 夜の中に浮かび上がった屋上庭園は、荒れ果ててはいるが、雅子が丹精こめてつくった庭だけあって、形は崩れていても、そこには一種の美しさがあった。木は木らしくおおらかに成長し、小低木はちいさな枝ぶりに生命力を蓄え、今は葉を落としていても、春になれば盛んに芽吹いて緑を茂らす勢いに満ちていた。

 悠はガーデンライトの明かりをたどりながら杏の木のところに行った。

「お姉ちゃん。ぼくだよ」

 声をひそめて杏の木に囁いた。北風が吹きつけてきて思わず首をすくめる。麻衣が杏の木の陰からふわりと現れた。風は吹いているのに、麻衣の髪や衣服は、絵に描いたように静止していた。麻衣はお宮の銅ぶきの屋根をそっと撫でた。こころなしか悲しそうな顔をしていた。

「田崎さんは庭を処分するんだって。お母さんは、杏の木を引き取るっていっていたよ」

 麻衣は小さく頷いた。

「お姉ちゃんは、この庭がなくなったらどうなるの。消えてしまうの」

 残酷な質問だったかもしれないが、気になることを訊いてみた。麻衣は、やはり小さく頷いて見せた。

「そうなんだ。じゃあ、あんまり時間がないね」

 姉と会えなくなる。姉は消えてしまう。成仏して、天国に行くのだろうか。それとも、依り代をなくした麻衣は、精霊の世界をあてどなく彷徨うことになるのだろうか。

 胸の底のほうで、ざわざわしたものが動いた。もう会えない。それは、とても悲しくて恐ろしいことのようにおもえた。でも姉は、死んでから十一年も、この荒れ果てた屋上庭園で、一人ですごしてきたのだ。悲しくて寂しかったのは麻衣のほうだろうとおもった。 母の雅子でさえ、麻衣がここに宿っていることを知らない。幽霊でもいいから会いたいのだと百合子に抗議した雅子の前には、麻衣は姿を現さない。雅子の前に現れたいに違いない麻衣のことも、幽霊でも会いたいのだと叫ぶ雅子のことも、どちらもかわいそうでならなかった。

 麻衣は、そんな悠の気持ちに気がついているのかいないのか、無言で悠の前を横切って東の方角に悠を導いた。それは、麻衣がいつも悠を連れて行く方角だった。

「東、東?」

 はっとした。

「もしかしたら、東の方角にあの人がいるの。 お姉ちゃんは、それをぼくに教えたかったの。あの人は、誰なの」

 姉が、こんなに執着する人とは、誰なのだろうと考えて悠はドキッとした。ここは屋上庭園。姉とぼくと、そしてもう一人。

「まさか、耀子さん? そうなの? だって、あの人は、小学二年生のときに行方不明に……」

 信じられなかった。生きているというのか。それを姉は、ぼくに教えようとしていたのか。

 悠の前を進みながら麻衣が振り向いて頷いた。裸木の枝が絡み合っているフェンスの向こう側を麻衣が指差した。悠は、指された方向に目を凝らした。見慣れた夜の街灯りが広がっていた。終電を終えた駅の小さな明かりや、照明が消えたオフィスビルのシルエット。点々と灯っている住宅の明かり。ひっそりとした信号機の点滅。明るすぎるコンビニエンスストアの照明。ときおり単車が爆音を響かせて道路を走って行く。ネオンがかたまって輝いているのは深夜営業の店の集まりだ。どこにでもある地方都市の駅前の夜景だった。

「この街に、あの人はいるの」

 この街の中から探しだせというのか。でも、先日雅子と訪れて、神様にお帰り願う神主の祝詞を聞いているときに見た白昼夢の町は、こんな景色ではなった。川が三本流れていて、寺があって、駐車場があった。記憶を手繰っていくうちに、その景色が、今見ている夜景に重なり始めた。二重写しになっている景色が一つに集約されて行く。悠が住んでいるF市の夜景とは明らかに違う小さな田舎町が広がっていた。

 こんなに暗くてはよくわからない。これではだめだとおもった。あの人を探す手掛かりを見つけられない。川があって寺があるところなど、日本全国に無数にある。もっと特徴的なものがほしかった。

「お姉ちゃん。出直してくるよ。暗くてだめだ」

 麻衣も同感なのだろう。頷いてくれた。悠は長居せずに倉庫に向かった。配電盤のスイッチを下ろしてガーデンライトを消した。青い月の雫が庭を満たしていた。倉庫のドアに鍵をかけるとき、庭に首を伸ばしてみたが、麻衣の姿が見えるわけではなかった。

 こんな暗いところに、お姉ちゃんは十一年もさまよっていたのだとおもった。麻衣に安らぎは訪れるのだろうか。悠は倉庫に鍵をかけて帰途についた。



「いけない。もうこんな時間だわ」

 拾子は目覚まし時計の時間を確かめて布団から跳ね起きた。目覚まし時計をセットし忘れていたらしい。慌てて布団を押入れにしまって高校の制服に着替えた。いつも使っている赤いエプロンをして台所に急いだ。家の中はまだ寝静まっていた。茶の間兼台所のエアコンのスイッチを入れて暖房温度を確認した。

 拾子の朝は忙しかった。家族の朝食のしたくをして、自分と留美の弁当をつくらなければならない。留美は大学の友人と学食に行くのだが、学食の定食を嫌って弁当を持っていった。真美は逆に短大の友人達と学食でおしゃべりをしながら定食を取るのを好んだ。洗濯機を回してから拾子は食事の支度にかかった。

 ゆうべはなかなか寝付けなかった。橋の欄干で川面を見つめていたときに頭の中で聞こえた若い男性の声が耳について目が冴えてしまったのだ。聞き覚えのない声だった。あの声で我に返って、自分が何をしようとしていたか気づいて力が抜けた。誰かの声に助けられるとは不思議なことがあるものだった。

 不思議といえばもう一つある。夢の中で会った高校生ぐらいの人だ。本を読んでいた顔を上げて、驚いたようにこちらを見た目には覚えがあるような気がした。誰だろう。思い出せないが、わたしはあの人を知っているような気がする、とおもった。

 千賀子から、来春高校を卒業したら一人で暮らすようにと言われてから、頭痛の頻度が増していた。頭を絞られるような痛みに苦しみながら、そのつど何かの記憶が泡玉のように浮かんでは消えていく。記憶の粒をかき集めようとするのだが、いつも弾けて流れていった。でも、夢で会ったあの人を、きっとわたしは知っているとおもった。それだけで拾子の胸は熱くなった。子供の頃の記憶が、ほんのわずかでもほしかった。

 わたしの両親は生きているのだろうか。わたしは両親から捨てられてしまうほど邪魔な子供だったのだろうか。わたしを愛してくれる人は、この世には誰もいない。塩田健一が唯一拾子をかばってくれていたが、その人はもういない。わたしはこれからどうなってしまうのだろう。

 涙がこみ上げてきた。鼻をすんとすすって目玉焼きにした卵をのせる皿を取った。手が滑って床に落とし、皿が派手な音を立てて割れた。

「なにをしているの拾子。朝からお皿を割るなんて」

 起きてきた千賀子が大きな声を出した。

「わたし、拾子じゃありません。わたしの名前は」

 とっさにそう言い返していた。一瞬、本当の名前が浮かんだような気がした。だから、拾子などという名前ではないと言い返したのだが、それでは親につけてもらった名前がなんだったのか、泡沫のように消えていた。

 記憶の断片が浮かんでは片っ端から消えていく。拾子は頭をかかえて床にしゃがみこんだ。頭が割れるように痛かった。

「まだお弁当もできていないじゃないの。早くしなさいよ。留美たちがおきてくるわよ」

 邪険な千賀子の声が意識から遠ざかっていく。拾子は痛む頭を抱えながら、誰かの声を聞いていた。

「……ちゃん。遠足ですもの。行けばきっと楽しいわ」

 やさしそうな女の人の声がする。

「低いお山ですもの。……ケーブルカーで登って……」

 行きたくないっていっているのに。お熱もあるし、おなかも痛いっていっているのに。

「二年生のお姉さんが登れないなんて、一年生の子に笑われちゃうわよ」

 やさしい声。やさしい笑顔。でも頑として家から追い出そうとする。

 拾子は床で丸くなってうめき声をあげた。頭が割れそうだ。やがて何もわからなくなった。



 いつもは自転車で通学するのだが、悠はバイクで学校に行った。バイク通学は禁止されていたのだが、そんなことにかまってはいられなかった。

 下校時間になると真っ先に教室を飛び出して駐輪場に急いだ。向かったのは田崎のマンションだった。急がないと業者が入って庭を処分してしまう。その前に、なんとしても彼女の居場所を探し当てたかった。

 冬の日は短くて、バイクを走らせている間にも、どんどん夕暮れが深くなる。田崎のマンションについたときは、もう日が暮れかけていた。地下駐車場には住人の出入りがあったが、うまく紛れて屋上に行くことができた。資材倉庫の鍵をあけて庭に出る。

「お姉ちゃん!」

 悠は麻衣を呼んだ。枯れた蔦が絡まっている枝をどけながら杏の木のほうに行くと、麻衣がすでに木のところに佇んでいた。

「東のほうだったよね」

 麻衣よりも早く東のほうに走り出す。背中に背負ったデイパックを下ろして中から地図を取り出した。国土地理院の五万分の一の地図だ。それを広げながら、東のフェンスのきわに立って街を見下ろす。暗くなってしまったが、まだ景色は薄闇の中に浮かび上がっている。ビルやネオンの明かりが街に広がっているので、なんとかなりそうだった。

「川が三本流れていて、寺があって……」

 彼女がいるところの目印となる風景は、ゆうべ地図で何度も探していた。インターネットでも探した。しかし、情報量はあまりにも少なくてどうにもならなかった。

「東のほうを地図でたどってみたけど、寺はあっても三本の川なんかないよ。流れているのは白兎川とその支流だけだ。どこか、ほかの土地なんじゃないのか?」

 麻衣がなにか言うかとおもって見てみたが、東のほうを向いたきりだった。

「この街にいなかったら、どこを探していいのかわからないよ」

 半ば怒り、半ば途方に暮れて悠は肩を落とした。街の明かりが明るさを増すごとに空は暗さを深くしていく。焦りが悠の喉元に這い上がってきた。

 悠は麻衣が見つめているあたりに視線を集中させた。自分が住んでいる街の景色がぼやけだし、別の町が重なり始めた。悠はさらに気持ちを集中させた。S市の駅前より灯りの乏しい駅前が眼下に広がっていた。

 S市よりはるかに小さな市町村のようだった。駅前には小さなロータリーがあり、ロータリーを囲むようにビルや店が取り囲んでいる。バス停には仕事を終えた勤め人が並んでいた。高校の制服を着た生徒達の姿も混じっている。悠は目を見開いて何一つ見逃すまいと目に力をこめた。

 高校生の姿があるならあの人もいるかもしれない。そうおもって順番に確認していった。

 いた。不動産屋のガラス戸一面に貼られた物件を見ている女子高校生だ。あの人だった。熱心に物件を選んでいるが、なぜ高校生がアパートを探しているのだろう。高校を卒業したら一人暮らしをはじめるのだろうか。

 それを悠は不自然なこととはおもわなかった。高校卒業を期に親元を離れて会社の近く、あるいは大学のそばに住むということはある。悠も大学に受かったら上京するつもりだった。しかし、あの人の立場は悠とは違う。あの人が、本当に耀子さんだったら、行方不明になってからのこれまでは、想像もできない年月だったことだろう。川に身を投げようとするほど辛い生活をしていたのかもしれない。だとしたら、一日も早く見つけださなくてはならない。

 見ていると、彼女は不動産の物件をながめたあと、ロータリーをまわりこんでハンバーガーショップの裏口から中に入って姿を消した。彼女はハンバーガーショップからなかなか出てこなかった。悠の集中が切れてきたのか、景色がぼやけ始めた。景色が変わる前に、彼女が見ていた不動産屋の名前を記憶にとどめた。「テイトラルハウジング」という名前だった。駅の名前やバス停の名前までは読めなかった。高校の制服も手掛かりになるとおもったが、悠にはブレザータイプの制服はどれも似たり寄ったりで、自分の学校の制服とたいして変わらないような気がした。

「もうすぐ冬休みになるから、そうしたら明るいうちに来るよ」

 麻衣はやはり振り向かなかった。麻衣にどのような言葉をかけたらいいのかわからなかった。雅子や悠が麻衣を失って、どんなに辛く悲しかったかなど、いまさら言ってもしかたがない。自分には未来があるが、麻衣には未来はないのだ。この庭がなくなれば、ほんとうに消えて無くなるだけだ。悲しげな顔をしているから、もしかしたら霊にも感情があるのだろうか。そうだとしたら、なんと残酷だろうとおもった。

 麻衣は、成仏するべきだ。安らかな永眠こそが麻衣の魂を癒すのではないか。死者と生者の世界は別々であらねばならない。重なり合ってはいけないのだ。麻衣に心を残しながら悠は帰途についた。



 ハンバーガーショップのアルバイトを終えて拾子はバス停に向かった。スーツ姿のサラリーマンが数人バスを待っていたので最後尾に並んだ。家に着く頃には二十二時を回っているだろう。冷え込んできて足の先が凍えてくる。コートのポケットの中に手を入れて肩をすぼめた。

 駅前の不動産屋の物件をのぞいてみたが、やはり六畳一間のアパートを借りるしかないのだろうかとため息がもれた。学校の就職情報紙を見ても基本給が少なくて、そこから厚生関係や税金を引かれると、手取りはいくらも残らない。先生に相談してみたら、新聞配達だったら販売店の二階に住めるといわれた。都会だったら、いくらでも仕事があるのかもしれないが、こんな田舎では、そんな仕事しかないのかと、悲しくて泣きたくなってしまった。

 バス停でバスを待ちながら、拾子はうなだれて足元ばかり見ていた。誰にも助けてもらえない。助けを求める人さえいない。自分はなんと情けない人間なのだろう。学校に行って、家の中のことをして、そのほかの時間はアルバイトでつぶれてしまう。学校では、「バイト稼ぎの拾子」と笑われている。

 真面目に頑張ってきたほうだとおもう。短い時間を割いて一生懸命勉強もしたし、成績も学年で上位だった。塩田の家族に気を使って息を潜めて生きてきた。十八歳になったというのに、この情けないありさまはどうだろう。しっかりしなくては、と自分を励ましてみる。ここまで生きてきたのだから、塩田のおとうさんに拾われて助かった命なのだから頑張らなくては。そうおもう一方で、無力感で崩れてしまいそうだった。

「乗らないの?」

 サラリーマンの男性に声をかけられて顔を上げた。いつのまにかバスが来ていて、サラリーマンの男性が声をかけてくれなかったら乗り過ごすところだった。

「乗ります。ありがとうございます」

 目尻からこぼれた涙が氷のように拾子の頬を滑って落ちた。




◆◆◆◆◆記憶の糸口◆◆◆◆◆


 四日間にわたる期末試験がすんで代休になった。級友の寺島守に遊びに行こうと誘われたが、悠は家の手伝いがあるとことわった。気の良い友人は、悠の家が造園業なので、その手伝いをさせられるのだろうと悠の境遇を気の毒がった。悠は寺島をだますようなことをして申し訳ないとおもったが、屋上庭園のことで気が急いていた。

 雅子は杏の木を屋上から下ろすのに移動式クレーン車のレンタルの予約を入れていた。赤木造園も剪定や伐採に使うカーゴクレーン車は保有しているが、高さ約二十メートルのビルの屋上から木を下ろすとなると高所用クレーンが必要になる。一口に木を下ろすというが、木の根を傷めないように根切りして養生したあと、吊るすときに木の重量で幹がつぶれないようにロープ掛けをしなければならない。養生は赤木造園の従業員がやることになっているが、クレーンの操縦は高所作業の操縦資格を持っているものでなければ操作できないので、運転士も雇うことになっていた。けっこうな出費になってしまうが、雅子の意志は固く、どうしても杏の木を引き取りたいようだった。悠はもちろんだが、雅子の父の赤木貞三も、それで雅子の気がすむのならと何も言わずに黙っていた。

 田崎のマンションの耐震補強工事が始まるのは、来月の正月が明けてからと聞いている。雅子は年内に木を掘りあげる予定をしていた。悠は雅子に、木を掘り上げるのは学校が冬休みになってからにしてくれと言ってあった。悠も立ち会うつもりだった。それには学校が休みになってからでなくては困る。悠が強く念を押したので、雅子は了承してくれた。

 期末試験の代休の日に、悠は朝の八時ごろバイクで田崎のマンションに向かった。前回は四十分ぐらいで着いたが、その日は道路が混んでいて一時間近くかかってしまった。田崎のマンションの地下駐車場も車の出入りが頻繁で人の姿があった。悠は目立たないように資材用エレベーターに乗り込んだ。七階の屋上について倉庫の鍵で庭に出たら麻衣が待っていた。

 背中のデイパックから地図とメモ用紙とボールペンを取り出しているうちに、麻衣は東の方角に向かって動きだした。麻衣が指差した方角は、夜中に訪れたときの方角とは、わずかにずれていた。地図を広げ、デイパックのポケットから簡易方位磁石を出して、丸で囲んだ田崎ビルの上に置いて方位をすばやく記入した。それがすむと街の景色に集中することにした。慣れてきたのか風景は待つほどもなく別の景色に変化して定着した。

「お姉ちゃん。お母さんがクレーン車の手配をしたよ。学校の冬休みが十日後からなんだけど、二十五日に木を掘りあげて持って帰るってさ。ぼくももちろん来るよ。杏の木を庭に植え替えたら、お姉ちゃんはぼくたちと一緒に暮らせるね」

 景色を見ながら麻衣に語りかけた。麻衣は横顔を見せたままだった。麻衣にとっては、どうでもいいことなのだろうかと、悠は少し傷ついた。

 よけいなことを考えていたので、景色は平板なままだった。いつもなら、ここからズームして一箇所に焦点が合うのに、いつまでも同じ景色のままだ。悠は焦りを覚えた。せっかく早い時間に来たというのに何も見えないのでは無駄足だ。気を入れて目に力をこめた。やっとある箇所がズームしだしたのでほっとした。やはりどこにでもある町の風景だった。集中を切らさないようにした。

 区割りされた戸建ての住宅が碁盤の目の中に納まっている一角に高校があった。校門の学校名を読み取りたいとおもったが映像が小さくて読めない。悠の高校は期末試験の代休で今日は学校が休みだったが、ほかの高校はそうではない。あの人も教室で授業を受けているのだろうとおもった。そのまま見つめていると、女子高生が一人、校舎から出てきた。学生カバンのほかに事務用の書類袋を胸に抱いていた。

「あの人だ。授業中なのに、早退したのかな」

 彼女は校門から出てすぐのところにあるバス停で足を止めた。悠は思い出したように慌ててデイパックから双眼鏡を出した。

「見えるのかな。現実の風景じゃないからな」

 ためしに双眼鏡を覗いてみた。

「見えるよ。どうなっているんだ」

 霧旗高校前と書いてあるバス停だった。彼女が着ているコートは古着のようにくたびれていて、コートからのぞいている手足は痩せていた。肩も薄くて弱々しい印象を受ける。悠は彼女の顔をよく見ようと双眼鏡の倍率を上げた。彼女は鼻筋が通った整った顔立ちをしていた。印象の薄い顔立ちだが、薄皮まぶたの大きな瞳は黒々と澄んで美しかった。

「あの目は……耀子さんだ」

 唐突に昔の記憶が甦った。外宮を建立したからと田崎夫妻に招かれて屋上庭園を訪れたとき、麻衣が姿を現し、耀子の幻影を見せてくれたことがあった。子供だったので忘れてしまったが、あのとき悠は花壇に水をやっている耀子を見て姉に、「どして耀子ちゃんは、あんなところにいるの」と尋ねたのではなかったか。

 今まで忘れていたなんて。生きているというのか。それを姉は、ぼくに教えようとしていたのか。信じられないおもいだった。しかし記憶している耀子の成長した姿が今の彼女であると理解したからには、自分が見ているものを信じないわけにはいかなかった。

 小学校の遠足で行方不明になって以来、今までどこでどのように暮らしていたのかまったく不明だった人。何よりも、どうして耀子は自分の意思で帰ってこないのだ。行方がわからなくなったのが八歳だから、自分の名前は言えるし、両親の名前、住所、電話番号ぐらい言えるはずだ。少なくとも自分の住んでいた場所ぐらいはわかるだろう。疑問は次々にわいてきたが、急いで高校名をメモして彼女に目を戻した。

 バスが来て、彼女を乗せたバスが走り出した。十分ほどで駅につき、こんどはJRの電車に乗る。悠は双眼鏡で駅名を確認しようとしたが、電車が遠ざかっていくので彼女を追いかけることにした。



 拾子は電車で二十分ほど走った駅で降りた。そこは町工場が狭い路地を挟んで密集しているようなところだった。工場の油の臭いが路地にまで染み込んでいるようなところを会社の看板を拾いながら歩いた。

 学校が紹介してくれた有限会社は、家内工業の典型的な町工場で、一階が工場になっていて二階が住居になっていた。その二階の一室を貸してくれるというので拾子は面接を受けてみる気になった。

 岩井螺子製作所という会社は、大手の家電企業の孫受け会社で、一家四人とその身内の合計七人で操業していた。募集は事務員だったので、それなら拾子にも勤まるとおもって気を張ってきたのだが、事務所といっても工場の中にパーテーションで仕切ったところに事務机をおいただけの簡単なものだったので失望した。

 機械油の臭いと工作機械の騒々しい音の中で、六十代後半の女性が電話を受けていた。岩井社長の妻なのだろうとおもった。そうだとすれば、むこうのネジを切る旋盤のところにいる七十代ぐらいの男性が社長なのだろう。ほかの従業員の男性達は、みんな中年だった。わたしは、ここで働くことになるのだろうかと、ぼんやりおもった。

 電話を終えた女性が拾子に手招きした。肩をすぼめながら機械に触れないように事務机に歩いて行く。

「社長。面接の子が来たわよ」と、大きな声でむこうにいる男性に声をかけた。予想した老人がやはり社長だった。グレーの作業服に作業用帽子をかぶった岩井社長が、事務机の横の簡易応接セットに拾子を招いた。

「嘉子。お茶を入れてくれ」

 社長が、電話を受けていた女性に声をかけた。やはり奥さんなのだとおもった。初めは見たこともなかった工場の中に驚いたし、いくら小さい工場でも事務所ぐらいあるだろうとおもっていたので楽観していたが、予想とはだいぶ違っていたので気持ちはしぼんでいった。しかし、社長の奥さんがお茶を入れてくれて、「いただきものだけど、ここのお店の大福餅はおいしいのよ。そろそろお腹が空くころでしょ。食べて行きなさい」といって、皿に盛り上げた大福を勧められたとき、思わず笑みをうかべていた。

 岩井社長は簡単に自己紹介したのち、拾子の履歴書に目を通しはじめた。これは面接だとわかっていたので、拾子はお茶にも皿の上のものにも手は出さなかった。岩井社長は履歴書を見ながらいくつか質問したのち、「うちのような小さな町工場に来てくれる事務員さんは、なかなか見つからないので、応募があったときはうれしかったですよ」と言った。

「ただね、こんな会社ですから、すぐ戦力になる人がほしかったんですよ。塩田さんは、簿記検定を取得していないんですね」

「すみません。普通科なものですから、簿記の授業はありませんでした。あの、わたし、勉強します。簿記の資格がいるなら、働きながら勉強して資格をとります。それではいけませんか」

 まさか簿記のことを言い出されるとはおもっていなかったから拾子は焦った。学校の募集要項には、一般事務となっていたはずだ。岩井社長は渋い表情を崩さなかった。

「長いこと働いてくれていた経理の人が辞めてしまったんで困っているのは事実だが、貸借対照表や財務諸表も作成してもらいたいし、年度決済には税理士のところだけでなく税務署にも行ってもらいたんですよね。そうなると、ある程度経理の知識がある人のほうがいいんですよ。塩田さんは成績も大変いいし、こんな小さなところじゃなくて、もっといいところに就職できるでしょう。本日は、ご足労いただき、ありがとうございました」

 話を打ち切られたので、拾子は立ち上がって一礼して岩井螺子製作所をあとにした。膝に力が入らなかった。正式な通知は学校に届くだろうが、不採用だということは拾子にもわかった。最初はこんなところで働くようになるのかとおもったけれど、採用を断られたら予想しなかった失望があった。工場の機械音と油の臭いと、昼間でも点灯している天井の蛍光灯の弱い光。黙々と働いていた父親くらいの年配の男性達。パーテーションで仕切っただけの事務所。あんなところで働いても、何の楽しみもなさそうで、ややもすると惨めになってしまいそうだ。それなのに、断られてみると心が痛んだ。面接しているあいだに、わたしは、ここで働いてもいいな、とおもい始めていたのだ。現場の工場を見て、自分の席になるかもしれない事務机を見て、働くという実感がつかめたのかもしれない。

 力なく駅に向かって歩きながら、気持ちのどこかで、もうどうでもいいやというなげやりな気持ちが生まれていた。もう、どうでもいい。そう思う一方で、今回の面接はだめだったけれど、諦めずに職を探せば寮がある会社のどこか一つぐらいはみつかるかもしれないと、わずかな希望にしがみついた。

 沈んでいく感情を無理に胸の奥に閉じ込めて駅に向かって歩いていると、ぷかり頭の中に名前が浮かんだ。

――ようこ――。

「ようこ?」

「ようこ」とは誰だろう。平凡な名前に記憶はなかった。ああ、そうか、とおもった。塩田健一の遺体を空輸して国際空港に着いたときのことだ。千賀子たちとリムジンバスに乗って家に帰ろうとしたとき、バス乗り場でビラを配っていた女性がいた。

 行方不明の娘を探している女性は、乱暴に突き飛ばされて尻餅をついたっけ。その人の娘の名前が「ようこ」だった。でも、どうしてそんなことを思い出したのだろう。頭が痛い。また頭痛がはじまったのだ。拾子は額を手で押さえた。

 いつのまにか駅まで来ていた。痛む頭をかかえて駅の階段を上った。前後左右をおおぜいの人たちが上り下りしている。いくつもの靴音が耳鳴りのように響く。体がだるい。息が苦しい。微熱もあるみたいだ。どうしてみんなは、あんなに元気にこの急な下り坂を飛ぶように下っていけるのだろう。先生が、道のはしに寄りなさいと声を張り上げている。ハイキングのおとな達が遠足の行列の横を行きすぎていく。おとな達は、遅れているわたしに、頑張ってと声をかけてくれる。でも疲れてしまって返事もできない。頭がくらくらする。ピンクのリュックが重くてたまらない。喉が渇いた。水筒のお水が飲みたい。わたしが一番最後になってしまった。「白兎山は低いお山だから、だいじょうぶよ」優しい声で誰かがそんなことをいっている。知っている声だ。でも、誰なのかは思い出せない。頭が痛い。痛い。

 拾子は駅の階段の途中で足を止めた。体がふらついて今にも倒れそうだった。道がわからない。深い山の中だ。サルが集団で頭上の枝をものすごい速さで飛び越えて行く。むせ返る土の臭い。足が滑る。怖い。落ちる。

 はっとして拾子は目を見開いた。

「白兎山! 遠足。わたしは――」

 足のかかとが階段から落ちそうになって体が揺れていた。ふるえながら手すりに掴って体勢を戻した。頭が割れるように痛くて、駅の階段の途中で崩れるようにしゃがみこんでいた。



 彼女が入っていった駅を確認して、悠は双眼鏡を下ろした。三時間ちかく立ちっぱなしで耀子を追いかけていたので疲れていた。その疲れが集中力を途切らせて映像が揺らぎ始め、急速に現実の景色に変わっていった。

 デイパックからペットボトルの水をとって一気に半分ほど飲んだ。北風に吹かれ続けていたので体は冷え切っていたが、緊張していたので喉が渇いていた。双眼鏡を握っていた手のひらにうっすら汗が滲んでいる。興奮もあった。大収穫だ。彼女の通っている高校名がわかったし、面接に行った先の駅と会社名。これだけあれば、きっと彼女を探せる。

「お姉ちゃん。なんとかなりそうだよ。帰ったら詳しく調べてみるよ」

 麻衣は小さく頷いた。

「二十五日に、お母さんと一緒にまた来るね。赤木造園の従業員が杏の木を掘り上げるからね。そうしたら、一緒に帰ろうね」

 麻衣はまた小さく頷いた。しかし、横顔を向けたままで一度も悠を振り返ることはなかった。

 バイクを飛ばして家に帰った。祖父も雅子も仕事に出払っており、家の中は空っぽだった。冷蔵庫を開けて、雅子が用意してくれていた昼食を電子レンジで温めて部屋に持っていって食べた。食べながらパソコンを操作する。

 耀子が通っている県立霧旗高校を検索したらすぐにでてきた。所在地はバイクで行けるような近場ではなく、電車で三時間もかかる県外だった。どうしてこんなに遠くへ行ってしまったのだろうと驚きながら、霧旗高校に電話を入れた。クラスはわからないが、三年生の田崎耀子さんの住所と電話番号を教えてほしいといったら、生徒の個人的な情報はお教えできかねますと男性の職員に断られてしまった。

 簡単に教えてくれるとばかりおもっていたので慌てた。どうしても連絡を取りたいので、住所だけでもお願いしますと粘ったが、やはりだめだった。こうなったら、学校をずる休みして、直接霧旗高校まで行って校門で待っているしかないとおもった。すると相手の職員は、意外なことをいった。

「田崎耀子とうい生徒は、うちにはいませんよ」

「いない? 田崎耀子ですよ」

「ええ。三年の名簿を見ているんですけど、そのような女子生徒はうちの高校にはいませんね。学校を間違えたんでしょう」

 職員は冊子のページをめくる音をさせながらそういった。

「あの、じゃあ、二年生にいますか」

 耀子は悠より一つ年上だから、三年生のはずだが、念のために訊いてみた。やはり在学してはいなかった。一年生にはいるかと尋ねたら、確かなこともわからずに電話してきたのかと相手が怒り出したので、そそくさと礼をいって電話を切った。

 どういうことだろうと首をひねった。あしたから学校だが、授業は午前授業になり、じきに終業式だ。どの高校も同じようなものだろうから、たぶん彼女の高校もそうだとおもう。ということは、やはり学校をサボって、下校時間に霧旗高校の校門で彼女を待っているしかないだろうと考えた。

 彼女の自宅のほうは、町を流れる川の名前も寺の名前もわからないので調べようがなかったし、霧旗高校に在籍していないといわれても、その高校から出てきたのは確かなのだから、自分が行ってみるのが一番いいとおもった。期末試験の代休の翌日に学校を休むのは目立つので、週があけた火曜日に行くことにした。

 火曜日の当日、部活で使っているスポーツバッグに私服の着替えを入れて、いつものように学校に行くふりをして自転車で家を出たが、学校には行かずに駅に向かった。

 駅のトイレで私服に着替え、制服をスポーツバッグにしまってバッグをコインロッカーに入れた。霧旗高校へのアクセスと地図はホームページで調べてあった。片道三時間ほどかかるので、むこうにつくころは、ちょうど下校時間になっているだろう。

 何度も乗換えをして目的の駅につき、霧旗高校行きのバスに乗って十分。見覚えのある校門にたどりついたときにはほっとした。事務棟までのアプローチの植え込みがきれいに刈り込まれている校門前で待っていると、生徒たちがちらほら下校し始めた。やはり悠の高校と同じで、半日授業だったようだ。学校をサボって来てよかったとおもった。

 耀子はなかなか姿を現さず、午後二時頃までねばって校門前に立っていたが、帰宅していく生徒達の最後の一人まで見送っても、ついに耀子は現れなかった。諦めるのは忍びなくて悠はさらに一時間校門に立っていた。午後三時を過ぎたあたりで、ようやく諦めた。

 バス停の標識柱の根元に枯葉がかたまって吹き溜まっていた。誰もいないバス停でバスを待ちながら、あたりの景色を見回した。

 霧旗高校のまわりには畑があって、収穫まぢかのダイコンや白菜が実っていた。駅までは戸建ての住宅が整然と並んでいて、駅に近づくにつれてビルが増えていった。田崎夫妻が暮らしているT県S市から遠く離れたこの土地で、耀子はどんなふうに暮らしていたのだろう。なにが耀子の身におきたのだろう。生きていたなら、なぜ耀子は田崎夫妻のもとに戻らなかったのだろう。

 わからないことだらけだった。バスが来たので乗車した。霧旗高校に向かっていたときは気が張って期待に胸が膨らんでいたのに、帰途につく悠の心はしぼんでいた。ほんとうに、彼女は存在しているのだろうか。不安が再びわいてくるのだった。




◆◆◆◆◆母に抱かれて◆◆◆◆◆


 冬休みに入った二十五日の朝八時、悠は雅子が運転する4トントラックの助手席に乗って田崎のマンションに向かった。赤木造園の従業員もワゴン車で向かっている。レンタルした高所クレーンは、レンタル会社が手配してくれた運転手が午後一番に直接マンションに乗って来ることになっていた。

 曇り空から薄日がさす寒い日で、普段なら色彩にあふれている駅前の雑踏が、この日は薄墨を流したように色褪せていた。

 雅子は田崎の部屋におもむいて挨拶をしたのち、すぐに作業に取り掛かった。赤木造園からは従業員が三人来ていて、エレベーターで道具を運び込んでいた。お宮が置きっぱなしになっていたので、雅子はまずお宮を庭の隅に移動させた。「仁さん」と呼ばれている古参の従業員が、二人の若い従業員に指示してさっそく杏の木の根切りをはじめようとした。

「仁さん。悪いんだけど、少しのあいだ時間をちょうだい。ほんの少しだけ、一人になりたいの」

 作業の手を止めさせて雅子がいった。仁さんと悠は顔を見合わせた。雅子の低い声音は硬かった。仁さんも、ここで麻衣が命を落としたことを知っていたので、何もいわずに従業員を連れて資材倉庫のほうに歩いていった。

 悠はどうしようかと迷ったが、少し離れたところで雅子を見守ることにした。雅子なりに、心の整理をつけたいのだろうとおもった。

 しばらく雅子は、杏の木の前で動かなかった。北風が強く吹いて、白髪が増えた雅子の髪をもつれさせた。常緑樹の低木の葉は色褪せ、裸木の枝は打ち震えていた。うす曇りの日差しは弱く、なにもかも白っぽく見えた。ときどき雲の隙間から陽がこぼれると、くっきりと影がまわりに刻まれる。なんと寒く、色のない景色だろう。冷たい風が悠の耳の産毛を逆立てる。

 雅子は微動だにしなかった。やがて、風鳴りとは違うびょうびょうとした音が聞こえてきた。地の底から湧き出てくるような陰鬱な音だった。それが雅子の喉から漏れている泣き声だとは気づかなかった。

 雅子は杏の木の根元に両膝から崩れ落ち、両手を突いて声を放って泣き出した。

「麻衣! 迎えに来たよ!」

 そう叫ぶと、狂ったように手で土を掘り始めた。悠はふるえだした。 十一年前の記憶が甦った。

 嵐の風雨が吹き荒れる真夜中だった。全身ずぶ濡れになりながら、雅子は狂ったように両手で杏の木の根元を掘っていた。六歳だった悠は恐ろしくてぶるぶる震えていた。母が狂ったのかとおもった。呪詛の言葉を吐きながら、雅子は土を掘り、何かを埋めた。

 あれから十一年が過ぎた。いま、雅子はまた、杏の木の根元を掘っている。狂ったように、一心不乱に掘っている。目的のものが探せないのか、穴は少しずつ広がっていき、雅子の指の爪は土で膨れ上がっていく。やめてよ、お母さん、と言いたいのに、声がでない。近寄って、肩を押さえて止めさせたいのに、足が動かない。悠はわなわな震えながら、心の中で麻衣呼んでいた。

 お姉ちゃん、お母さんが、おかしくなっちゃったよ。お姉ちゃん!

「麻衣……」

 雅子の動きが止まった。次の瞬間、木の根に絡まっている白っぽい小さなものを夢中で掻き出しはじめた。なにを言っているのか聞き取れない言葉をぶつぶつ呟きながら、体重をかけて小さなものを引き抜き、自分のジャンパーの裾で泥を拭いはじめた。手の中に現れたのは、輝くように真っ白な人骨の一部だった。

「麻衣。長いあいだ一人にして、ごめんね。お母さんが悪かった。ごめん麻衣」

 滂沱と涙を流す雅子の前に、麻衣が姿を現した。透き通る麻衣の姿は悠には見えたが、雅子には見えないようだった。

「麻衣。迎えに来たよ。一緒に帰ろう」

 手のひらに納まる小さな骨に向かって雅子がそう言うと、透けている麻衣の体が揺れた。悲しそうな笑みが、八歳で命を終えた少女の唇にうかんだ。

「これからは、もう寂しくないからね」

 雅子の言葉に頷き、麻衣は悠に振り向いた。悠に微笑んでから、麻衣は両手を雅子に向けて、抱きつくように体を傾け消えていった。

「お姉ちゃん」

 消えてしまった。悠は呆然とした。麻衣の魂は雅子に抱かれて、やっと安息の眠りを迎えたのだった。お母さんがむかえに来たから……。

 泣き伏している雅子の丸い背中を見ながら、悠は力なく立ち尽くしたのだった。




◆◆◆◆◆決別と再会◆◆◆◆◆


 年が明けた一月。屋上庭園の撤去が七日に行われた。悠は田崎の許可を得ず、こっそり作業現場を見に行った。あしたから学校がはじまるので、これが平日に屋上に昇れる最後の機会だった。撤去が終了したら、もう庭ではなくなり、ただの屋上になってしまう。田崎は屋上を封印するようだった。

 屋上の樹木を植え替えるのなら、造園業者が木を傷めないように丁寧に扱うのだが、田崎が手配した産廃業者の仕事は手荒かった。ぜんぶ廃棄してしまうのだから当然なのだろうが、木はチェーンソウでぶつ切りにしていき、根は力任せに掘りあげて引き倒して行く。敷き詰めた化粧レンガは彫りかえされて一箇所に集められ、朽ちた東屋は解体された。人口の滝と川、かつては魚が泳いでいた池の部材もひとかたまりにされて潰されて行く。シャベルでかき集めた土をどんどんコンフレバッグに放り込んで一箇所に集め、コンフレバッグをクレーン車で吊るして地上に下ろし、トラックに積み込んで行く。ヘルメットに作業服姿の作業員たち六人が、黙々と庭園を丸裸にして行くのを、屋上の隅のほうに立ったまま悠は眺めていた。

 作庭するときは何日掛かりで造った庭だったが、撤去するのは簡単だった。午後には仕事を終えた作業員たちが帰り、なにもかも取り去られたコンクリート床の広い空間を見渡したとき、悠は体の中が空っぽになったような気がした。小さい頃から夢にうなされて見続けてきた屋上庭園は、悠が成長するように樹木も育ち、悲しみと恐れがないまぜになった畏怖を心に植えつけてきた。

 この屋上から麻衣が転落し、悠と一緒にそれを見ていた耀子が翌年行方不明になった。雅子は娘を失った悲しみで平常心を失い、百合子は狂気のように耀子を探して心を病んだ。そして、悠が来るのを待っていたように、死んだはずの麻衣が屋上庭園に現れた。麻衣が見せる幻影の町には行方不明の耀子がいた。でも、なにもかも無くなってしまった。残ったのはコンクリートの床だけだ。

「お姉ちゃん」と、悠は西の空に傾きはじめた太陽に呟いた。耀子を探さなければならないのに、麻衣が消えてしまったのでは、もう幻影は見えないだろう。姉の助けがなくては耀子を探す自信がなかった。

「どうしたらいいんだ」

 悠は途方にくれて街を眺めた。密集して建っている建物の隙間を鉄道と道路が網羅し、車と人が波のように動いていた。その街の中心に白兎山があった。T県と隣のS県にまたがる562メートルの低山は、美しい円錐形の独立峰だった。

 西側に登山口のロープウエイがあり、東側には白兎川から流れ込む湖のキャンプ場がある。春は桜、夏はキャンプ、秋は紅葉、冬はハイカーで、一年を通して賑わう山だった。

「あの山に遠足に行ったまま、耀子さんは帰ってこなかった」

 悠は白兎山を見つめた。いま立っている七階の屋上からだとロープウエイとキャンプ場の湖の一部が見えた。悠も小学校の遠足で登ったことがあるし、大きくなってからも友人たちとハイキングに行ったりキャンプ場にバーベキューをしに行ったりした。安全で美しい山。それが白兎山だった。それなのに……。

 ロープウエイ白兎駅から緑色のゴンドラが山頂駅に向かって上り始めたのが見えた。ゆっくりしたスピードで上っていくミニチュアのようなゴンドラを、悠は見るともなく見ていた。上りのゴンドラには客が一人しか乗っておらず、下りのゴンドラのほうは満杯だった。遠目なので小さな人の形しかわからなかったが、そのくらいは屋上からだと見えた。 午後三時を回っているから、低山でも山頂は寒いし、日が落ちたらさらに冷え込む。時間が時間だから帰途につく人が増えているのだろう。そんな中で、一人だけ山に登っていく人がいる。あと一時間もすると日が落ちるというのに、これから山に登ってどうするつもりなのだろうと不思議におもった。

 ロープウエイの最終運行時間は16時15分だったはずだ。まだ一時間ぐらいはあるし、最終のロープウエイに間に合わなくても登山道を歩いて下ってくればいいだけなのだが、一人というのが気になった。悠は見つめる目に力をこめた。女性のように見えるゴンドラの中の人物が無性に気になりだした。

 目を見開いて見つめていると、目の奥が痛み出した。その痛みは前頭葉に広がっていき、こめかみのあたりに伝播していった。思わず頭を抱えて歯を食いしばっていた。耐えられなくなってゴンドラから目をそらそうとしたとき、空気が揺らぎはじめた。焦点があやふやになっていく。

「お姉ちゃん?」

 麻衣は眠りについたはずだ。でも、揺らぐ景色がしだいにゴンドラに焦点をあわせていく。悠は目を見開いた。ゴンドラの中の人物がくっきり見えた。

「あれは、耀子さん!」

 赤いダウンジャケットを着たその人は、思いつめた瞳を頂上駅に向けていた。悠は弾かれたように走り出していた。エレベーターで地価駐車場に下りると、急いでバイクに向かった。ヘルメットを装着してまたがり、スロットルグリップを握った。白兎山までは二十分。間に合う。追いつける。きっと会える。

 スロットルを回すと、エンジンはこの寒さにもかかわらず一回でかかった。悠は白兎山に向かってバイクを走らせた。



 誰も乗っていないゴンドラの中で、拾子はロープウエイ山頂駅を見つめていた。下りのゴンドラは満員だったが、さすがにこの時間で山に登る人はいない。陽のある時間に出直してくるという考えが拾子にはなかった。

 面接に行った岩井螺子製作所の帰りの駅の階段で見た幻影。記憶の残像だけを頼りに白兎山の所在地を探し出して、何かに駆り立てられるように電車に乗っていた。拾子として生きてきたルーツが白兎山にあると直感したが、実際にたどりついてみると、ざわざわとした恐れが湧いてきた。その恐れがどこからくるのかはわからなかったが、近づけばまた怖いことがおこるような気がした。それでも行かねばならなかった。きっと何かを思い出す。記憶の扉は開きかけたのだ。勇気を出さなくてはとおもった。

 山頂駅についたのでゴンドラを降りて駅を出た。売店やみやげ物屋はまだ開いていた。西日がさして明るいのに、どの店もすでに照明をつけていた。じきに日が暮れるのだろう。観光やハイキングで訪れた人々が、下山するためにケーブル駅の改札をくぐっていく。拾子は流れに逆らって歩き出した。

 山頂駅は有料望遠鏡やベンチがある広場になっていて市街が一望できたが、夕暮れ色に染められた景色は物悲しかった。たかだか標高562メートルの低山なのに、頂上駅の広場に吹く風は身を切るように冷く、わずかな時間に人の姿がなくなった広場で、つかのま立ち尽くした。

 拾子は注意深くまわりを見回してから頂上への上り坂に向かった。小砂利が混じる急勾配の上り坂は、拾子が履いているローファーでは滑って歩きにくかった。アキレス腱が痛むほど踵が曲がる急勾配に覚えがあった。

 わたしは、ここを歩いたことがある。

 緊張で胸のあたりが痛くなってきた。耳や頬が凍えるほど冷たいのに、手のひらが汗ばんだ。はやる気持ちを抑えて三十分で上りきってしまう坂を上った。

 頂上には標高と山の名前を刻んだ標識が立っていて、そこから市街を見下ろすと、東側の隣県に流れ込む白兎川の湖が、茜色の西日に油色にきらめいていた。

 塩田健一は、あのキャンプ場の渓流で釣りをしていて拾子を助けた。しかし拾子はそのときの事は覚えていなかった。覚えていないというより、記憶が分断されていた。意識が動き出したのは運び込まれた病院で手当を受けて診察室を出たときからだった。

 心配そうに駆け寄ってきた塩田に拾子はしがみついた。それは子供の生存本能だったのかもしれない。そうして拾子は塩田拾子になった。

 ここに来れば記憶が戻るかと思ったが、暮れていく市街地やキャンプ場を眺めても記憶に引っかかるものはなかった。失望は疲れを増幅させた。空腹だったことを思い出すと、なおいっそう疲労が増した。喉の渇きも覚えた。水筒の水を飲もうとしてはっとした。

 水筒。わたしは水筒を持っていた。そうだ。遠足だもの水筒を持っているのは当然だ。

赤とピンクの水玉模様の水筒だった。着ていたのはピンクのTシャツ。襟元に白いリボンがついていた。わたしは、あの時、体調が悪かった。体がだるくて熱っぽくて、汗がいっぱい出て、とても苦しかった。

 拾子は、紡がれだした記憶の糸を手繰り寄せた。

 山頂で、クラスのみんなで集合写真を撮って少し休んだら、いくぶん楽になったので歩き出した。わたしは、こっそり飴玉をなめたのだった。クラスの子たちは元気いっぱい下っていったけど、わたしは体が重くて、一歩一歩慎重に下って行った。気を抜くと、急な坂道を転がり落ちそうだったから。

 拾子は記憶をなぞるように山道をゆっくり下り始めた。ドキドキしていた。記憶がつながりはじめていた。喉の渇きが激しくなったが、それは緊張のせいだった。記憶を途切れさせてはいけないとおもった。

 あの時は、山が若葉に被い尽くされている季節だったので、冬枯れの今とはだいぶ違うが、それでも山道の急勾配や道のカーブはなんとなく感覚を思い出させた。クラスの子供たちから遅れてしまって、一人だけだるそうに下って行く拾子に、ハイカーのおとな達が励ましの声をかけていく。

 左のほうに蛇行した道をそのまま下ればケーブル駅に着く。だから、あの時も自分を励まして歩いたのだ。一本道のはずだった。上りでは脇道には気がつかなかった。そうだ、と拾子は足を止めた。

 上りでは隠れていた脇道が、下っていくと何本かあったのだ。その中でも、しっかりした道に……、わたしは……、入ってしまったのだ。

 拾子の目の前に、冬でも枯れないクマザサが茂る小道があった。ハイカーの登山靴のビブラムソールでクマザサの根が削り取られ、いくつも足跡が残っている道を、拾子はまじまじと見つめた。

 この道だ。ケーブル駅への道は幅が広くて間違えようがないのに、どうしてこんな道に迷い込んでしまったのだろう。

 腹立たしくもあり情けなくもあったが、体調が悪くて歩くのがやっとだった子供を責めるのはかわいそうだとおもいなおした。拾子は当時の自分の気持ちをなぞりながら、その道に入って行った。ほんの少しだけ歩いてみるつもりだった。なにか感じるものがあるかどうか確かめてみたいという軽い気持ちだった。しかし、絡み合った枝が顔にあたるのが鬱陶しくて腕で避けて歩いているうちに、いつしか道の踏み跡は消え、落葉樹の落ち葉が分厚く積もる地面を歩いていた。

 日が落ちかけていた。つい今しがたまで枝の隙間からこぼれていた西日が青紫になってきている。拾子は落ち着かなくなってきた。回れ右をして、来た道を引き返そうとした。そして動けなくなった。

 あの時と同じだ。帰り道がわからない。右を向いても、左を見ても、どこもかしこも同じように見える。木しか無い。拾子は、落ち着けと自分に言い聞かせた。もはや八歳の子供ではない。十八歳だ。そう言い聞かせても怖くて震えていた。動けない。やたらに動いたら、もっと深く山の中に迷い込んでしまう。このままここで一夜を明かし、明るくなってから大声で助けを呼んだらとうだろう。そう考えたが、厳しい冬の夜をダウンジャケット一枚で過ごせるだろうか。すでにつま先は凍えて感覚がなくなっている。風が吹くたびに揺れる樹木の枝が、拾子を絡めとろうとする網のようだ。暗さを増す雑木林の中で、拾子は自分を見失いつつあった。十八歳から、みるみるに八歳に逆戻りしていた。梢の中で鳥が威嚇するように鳴き声をあげた。拾子は弾かれたように走り出していた。

「こわい。お母さん。こわいよ。お父さん」

 泣きながら顔に当たる枝を折りながら夢中で走った。どこをどう走っているのかさえわからないまま走っていた。

「お母さん。お父さん。たすけて。たすけて」

 八歳の少女は、全身を襲ってくる風の強さや木々の軋み、暗さに慄き、父と母に助けを求めながら、走り、転び、傷つき、泥まみれになって、恐怖から逃げていた。

 獣の声が追ってきていた。大きな声をだして、枝を力強く叩き折り、驚異的な速さでぐんぐん近づいてくる。少女は狂ったように足を速めた。すると、獣もさらに速度を上げた。獣が地を蹴る躍動が地面から伝わってきた。怖い。追いつかれる。たすけて。お父さん。お父さん。

「お父さん!」と叫んで足を踏み出したら地面が消えていた。宙に浮いた状態で残った片足を軸にして反転した。そのまま上体が傾いて落下していく。夢中で手を泳がせていた。

 そうだった。思い出した。なにもかも。わたしは、こうして転落したのだ。

 一瞬にして八歳の少女から十八歳の現在にもどっていた。また落ちていくのだとおもった。父と母の顔が浮かんだ。会いたかった。あまりの会いたさに叫び声をあげていた。

「耀子さん!」

 誰かが拾子の手をがっしり掴んだ。傾いた体を強い力で引き戻される。反動で拾子は助けてくれた人の胸に飛び込んでいた。二人はそのまま地面に倒れこんだ。しばらく動けなかった。拾子も、助けてくれた人も、激しく胸を喘がせて息が整うのを待った。全力で追いかけていたらしい人は額に汗をうかべていた。

 拾子は身を起こして立ち上がった。その人も立ち上がる。背が高かった。きりっとした眉と澄んだ瞳にはっとした。拾子は自分の目を疑った。夢の中で会った人だった。

「まさか……そんなこと」

 あまりにも意外だったので信じることができなかった。現実とは思えなかった。

「あなたは、だれ」

 拾子は礼を言うのも忘れて尋ねた。

「ぼくのこと、覚えていませんか。悠です。吉井悠です」

「よしい、ゆう……」

 拾子はぼんやりと悠の名前を繰り返した。夜は濃さを増し始めていた。まだ物の形がわかるうちに雑木の中から抜け出たほうがいい。悠が拾子の手をとって歩き出した。

「急ごう。真っ暗になったら厄介だ」

 方向がわかっているような悠の足取りに拾子は驚いた。

「帰る道がわかるんですか」

 悠は無言で夜空を指差した。枝の向こうに星がたくさんまたたいていた。その中でもひときわ強く輝いている星を指差していた。

「北極星です。星をみて方向を決めるのはボーイスカウトの基本です。あなたは十年前、この山で行方不明になったんです。おなじ山でおなじようなことを繰り返すなんて、ばかだ」そう言ったあと、「いままで、どこで、なにをしていたんですか」と、悠は怒った。

 いきなり現れて助けてくれたとおもったら怒り出す人に、拾子は温かいものを感じていた。怒っていても憎しみはなく、心配しているだけだとわかったからだ。ずんずん進んでいく悠に手をとられて、そこから体温が伝わってきて体中が温かくなっていった。もう怖くなかった。信じられる手だと思った。雑木の中から出るまでのあいだ、拾子は記憶の底をさらっていた。

 ゆう、悠、悠ちゃん。

 悠ちゃん、とよんで可愛がっていた男の子がいた。ずっと昔、子供だった頃だ。目がくりくりして、小さくて、懐いて甘えてくれた弟のような男の子。

「悠ちゃん!」

 悠が振り向いてにっこりした。

「思い出した?」

「ほんとうに悠ちゃんなの。あの、小さかった」

「ほんとうに悠ちゃんだよ。こんなに大きくなったんだよ」

「悠ちゃん!」

 拾子は握った手に力をこめた。涙がこみ上げてきた。

「どうして、わたしがここにいるとわかったの」

「お姉ちゃんが教えてくれたんだ」

 拾子はぎょっとした。思わず足を止めていた。悠の姉。名前は、そうだ、麻衣ちゃん。

なだれ込んで来た麻衣の記憶にめまいがした。寒さのせいではない震えが手に走っていた。

「どうしたの。耀子さん」

「麻衣ちゃんは、だって、杏の実を取ろうとして」

「うん。そうだよ。でも、お姉ちゃんの魂は、ずっと耀子さんを見守っていたんだ」

「いいえ。麻衣ちゃんはわたしを憎んでいるはずだわ。だって、わたしのために杏の実を取ろうとして、あんなことになったんですもの」

「憎んでなんかいないよ。もしかして、ずっとそうおもっていたの。そうだとしたら、辛かっただろうね。でも、ほんとうに、お姉ちゃんは耀子さんを見守ってきたんだよ。あの屋上庭園から」

 枝の切れ目から登山道が見えてきた。悠はほっとしたように握っていた手を緩めたが、離そうとはしなかった。

「その話は長くなるから、こんどゆっくり話をしよう。そして、吉井家の墓に眠っているお姉ちゃんのところに、一緒にお参りに行こう」

「ええ。行きましょう」

 麻衣の墓参りの話をされて、悠のいうとおり、麻衣はわたしを憎んでいなかったのかもしれないとおもった。そうだったらどんなにいいだろう。罪悪感と贖罪に苦しんで熱を出し続けた子供の頃を思い出すと、悠にそう言ってもらえるのがありがたかった。

 登山道に出ると、街の夜景が眩しいほど明るかった。人の暮らしの営みが、あの明るさのひとつひとつに宿っている。拾子は胸がいっぱいになって息が詰まった。あの灯りの一つは、父と母が暮らしている家の明かりなのだ。とうとう帰って来たのだ。

「ご両親に、帰ってきたことを知らせたら。携帯電話は持っているんでしょ」

 悠にそう言われて拾子は困惑した。電話番号は何番だっただろう。子供の頃は覚えていたはずだ。

「覚えていないか。あの頃は、まだ小学校の二年だったものね」

 悠はおどけたように拾子を覗き込んだ。咎めている顔ではなった。

「覚えていたら、とっくの昔に電話しているよね。どうしてこんなことになったのか、こんどゆっくり聞かせてね」

 そう言って、悠は自分の携帯電話をポケットから出して自宅へ電話をかけた。

「お母さん。ぼくだよ。え? ああ、夕飯か。食べるよ。耀子さんを田崎さんのところに送ってから帰るから、そのままにしておいてよ」

 携帯電話から女性の大きな声が聞こえた。悠は痛そうに耳を離してから電話のマイクに話しかけた。

「大きな声を出さないでよ。普通に話してよ」

 また大声が漏れてくる。

「そうだよ。みつかったんだ。ぼくの目の前にいるよ。疲れた顔をしているけど、元気だよ。詳しいことはあとにしてよ。耀子さんは、ぼくと一緒にいるのは確かだ。田崎さんに、そのことを知らせてほしいんだ。いま、白兎山の山頂駅にいるんだけど、ロープウエーは終わっちゃったから、自然歩道を歩いて下るよ。駐車場にバイクを停めてあるからバイクで帰る。だから迎えはいらないよ。そうだな、一時間ちょっとで田崎さんのところに着くとおもうよ。うん。間違いない。絶対に耀子さんだ」

 そうだよね、と拾子に目で答えを求めてくるので、拾子は大きく頷いた。電話の通信を切ってから、悠はまた拾子の手をとった。田崎家に送り届けるまでは拾子の手を離すつもりはないようだった。

 自然歩道の道を下り始めると、じきに山頂駅の夜間照明が届かなくなり、真っ暗になってしまったが、そのかわり眩しいほどの星が輝き、青い月が煌々と光を降らせていた。市街の明かりが光の海原のようだ。暗さに慣れてくると夜目が利いてきて歩くことができた。

 悠に手をとられて、拾子の足は疲れを忘れたように動いた。帰りたい。はやく。はやく。心は父と母のもとに飛んでいた。



 社長室を出て廊下の先にある役員室の秘書に「お先に」と声をかけ、修三は役員専用のエレベーターに向かった。エレベーターのドアは開いていて、乗り込むとドアはすぐに閉まった。地下駐車場のボタンを押してエレベーターが動き出したとき、背広のポケットで携帯電話がなった。百合子からだった。

「修三さん!」

 うわずった金切り声に修三は眉をひそめた。また症状が悪くなったのかと思った。

「百合子。どうした」

 修三はやさしく声をかけた。

「具合が悪いのか? いま会社を出るところだよ。家に帰るまで待てるかい」

「修三さん! わたしたちの娘が!」

 電話の向こうで絶句する百合子に、修三は嫌な予感がした。まさか、耀子の死体がみつかったのかと心臓が締めつけられた。百合子の取り乱し方は尋常ではなかた。

「修三さん。耀子が、耀子が帰ってくるのよ」

 なにをばかな、とおもった。十年も探し続けてみつからなかったのだ。修三の中では、すでに耀子は亡き者として諦めがついていた。だから、突然の百合子の言葉を信じる前に、百合子の正気を疑った。

「早く帰ってきて修三さん。吉井さんのところの悠ちゃんが、耀子ちゃんをバイクに乗せて連れて帰るって」

「悠くんが? どうして悠くんが」

「悠ちゃんが白兎山で耀子ちゃんを見つけたんですって」

「白兎山で!」

「雅子さんから、お電話があったのよ。間違いないって。耀子ちゃんだって。一時間ちょっとで着くって!」

 エレベーターが地下一階に着いた。修三はドアが開くのももどかしく飛び出して、停めてあった車に走った。ほんとうなのか。なにかの間違いではないのか。信じていいのか。

ぬか喜びではないのか。

 混乱を抑えられないまま、修三は車のエンジンをかけた。



 ヘルメットからはみ出た髪がうしろにたなびいていた。拾子は悠の腰に両手を回してしがみつき、悠の背中から伝わってくる体温を感じながら、バイクのモーターが回転する心地よい振動に身をまかせていた。

 頬にあたる風は切るように冷たかったが、家に向かっているのだとおもうと汗ばむほど興奮していた。信じられなかった。まさか夢で見た人が、幼い頃に一緒に遊んだ吉井悠だと名乗られて耳を疑った。しかも麻衣が、あの屋上庭園でずっと見守ってくれていたという。悠と白兎山で会うことができたのも、麻衣が導いてくれたからだというが、それが本当のことだったら、奇跡ではないか。

 拾子は、どう考えていいのか訳がわからないでいたが、そんなことよりも、父と母に会えるというだけで胸がいっぱいだった。

 悠は安定したハンドルでバイクを走らせている。車のヘッドライトとテールライトの光の流れが夢のように美しい。点滅する信号のあざやかな赤や緑。道路の両脇に並んでいるビルやレストランのきらびやかな照明。歩道を行き交う人々の洗練されたファッション。

 なんて美しい街なのだろう。今まで住んでいた物悲しい町の佇まいと違って、なにもかも華やかだ。夜でも寂しくない。

 この街にはいままでのわたしのように、家に居たくなくて近くのお寺の境内で時間を潰しているような子供はいないだろう。

 学校から帰りたくなくて、わざとぐずぐず帰りを遅らせている子供などいないだろう。 夕方になって、お腹が空いて、走るようにして家に帰れば、お母さんが「お帰りなさい」と言ってくれて、温かいごはんを出してくれるのだろう。

 わたしのように、おつかいに行って夕飯の支度をして、お風呂を沸かして、食べるのも、お風呂に入るのも、全部最後で、疲れ果てても宿題があるからすぐに寝られないでいる子供などいないだろう。

 家族に気を使って、首をすくめて、家に置いてもらっているだけでもありがたいとおもいながらて生きてきた子供はきっといない。邪魔者扱いされて、心配してくれる人もなく、愛情をかけてくれる人もなく、悲しくて膝を抱えて眠りにつく子供などきっといない。

 拾子は夢見るように流れていく夜景に見とれた。やがてバイクがスピードを落とし、「もうすぐだよ」と、悠がいった。

 駅前に七階建てのマンションがそびえるように建っていた。こんなに大きな立派なマンションだったのだ。子供の時の記憶はあやふやで、覚えているのは自宅の玄関の大きな熱帯魚の水槽だったり、お気に入りのゾウさんの子供用スリッパだったり、お休みの日に修三がくつろいでいた座り心地の良いレザーのカウチだったりした。

 悠はバイクをエントランスの前で止めた。雅子がマンションの前で待っていて、走り寄ってきた。

「悠」

 ヘルメットをとった悠に雅子が呼びかけた。悠は頷いから、拾子がヘルメットをとるのを手伝った。現れた拾子の顔を見て雅子が小さく声を上げた。

「あなたが、耀子さん」

 雅子は動けないようだった。拾子の全身を見回してから、大きく息を吐いた。

「あなたが!」

 雅子の目にみるみる涙が盛り上がった。髪には白いものが増え、皺も増えて、一回り痩せた印象の雅子が、涙をぼろぼろこぼしながら、崩れるようにアスファルトに両膝をついて頭を下げた。

「耀子さん。許してください。わたしは。わたしは、あなたに、罪を犯しました。ごめんなさい。許してください」

「どうしたの。お母さん」

 悠が驚いて雅子を抱き起こした。拾子も驚いていた。どう考えても雅子はなんの関係もなく、当然責任も無いと断言できるのだが、泣きながら拾子に許しを請うというのは、雅子なりの理由があるのかもしれないとおもった。悠に肩を抱かれてようやく立っている雅子の姿を見て拾子は、拾子としての十年があったように、雅子にも雅子の十年があったのだろうとおもった。

「おばさん。おばさんがおっしゃる罪がどのようなものかは知りませんが、だれにも罪などないのです。わたしは、悠さんのおかげで、やっと自分の両親のもとにたどりつくことができました。感謝しています。こんど、ゆっくり、わたしのこれまでの十年をきいていただきたいとおもいます」

 落ち着いた拾子の態度に雅子は感動したように目を大きくした。そのとき、ビルの最上階のベランダから、百合子の大きな声が降ってきた。

「耀子ちゃん! いままで、どこにいたの! 早く帰っていらっしゃい」

 拾子は、はっとして上を見上げた。百合子が修三に抱き抱えられてベランダから身を乗り出してこちらを見ていた。

「ああ。お母さんが、怒ってる!」

 見上げて、拾子はどっと涙をあふれさせた。

「ごめんなさい。お母さん。お父さん。遅くなったけど、帰ってきました」

 喉が裂けるほどの大声で叫び返した。

「耀子!」

 修三が叫んだ。

「耀子ちゃん!」

 百合子も叫んだ。

 百合子を抱きかかえている修三を見て、拾子は胸がいっぱいになった。空港で、突き飛ばされた百合子を庇う修三の姿を思い出す。お父さんは、わたしがいないあいだ、ずっとお母さんを支えてきたのだとおもった。お父さんも、きっと苦しかったに違いない。

 拾子は、七階のベランダで、互いを支えあうように一つになっている両親を見上げながら、携帯電話を出して通話ボタンを押した。

「おかあさんですか。拾子です」

「なんなの、いまごろ。夕飯のしたくはどうしたの。みんなお腹をすかせているのよ」

 千賀子の冷たい声も気にならなかった。

「おかあさん。わたしはもう帰りません。これからは、おかあさんが食事の支度をしてください」

「帰らないの? そう。じゃ、拾子の荷物は捨てるわよ」

「はい。なにもかも捨ててください。それから、わたしの名前は拾子ではありません。耀く子と書いて耀子。田崎修三と田崎百合子の娘の耀子です」

「名前なんてどうでもいいわよ」

 ぷつんと切れた電話を、つかのま耀子は見つめた。それから悠と雅子に深く一礼した。

 そう。わたしは耀子。拾われてきた拾子ではなく、耀く子と書いて耀子。拾子として生きてきたわたしにとって長い十年だったように、父と母にとっても、きっと苦しい十年だっただろう。

 長い長い話をしよう。時間はいっぱいある。失われた互いの十年を語り合うための時間はいっぱいあるのだ。

 耀子は、光があふれているエントランスの中に歩みだした。父と母が待っている光の中へと。



               完

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