白い闇
第1章
あの夏から半年。冷たい雨の降る春だった。
父親たちは自殺した。母親たちは狂い、施設へ入った。
僕と和樹は学校を辞め、日雇い現場で泥に塗れて生きている。
そして、香織。
あの日公園で白子を呑み込んだ彼女は、誰とも視線を合わせなくなっていた。男の気配に怯え、身体を強ばらせる。
あの事件の元凶である葵は、影のように街から消えた。
◇
「……颯太、これを見ろ」
深夜、僕のボロアパートで和樹がスマホを差し出した。
見知らぬ街の駅前。私立高校の制服を着た葵が、中年男性と並んで歩いている。
「許せない……」
和樹が濁った声で呟く。
僕は胸ポケットの「それ」に触れた。旧実家で見つけた、父の遺書。
『葵に飲み込まれるな。飲み込むな。女を怖れよ。女の愛を。』
葵。何者なのか。父は何を伝えたかったのか。
その時、アパートの扉が開いた。
フードをかぶった香織が立っていた。
「……聞こえたよ。葵がまたやってるのね」
香織の声は冷たく澄んでいた。スマホを見つめる彼女の瞳に、底知れぬ闇が宿っている。
「行こう、二人とも。探そう。葵を」
「香織……怖くないのか?」
香織は薄く笑った。
「怖くないよ。……だって私、もう『味』を知っちゃったから」
香織は口元を押さえ、和樹を向いて微かに顔を歪めた。
僕たちは暗闇へ踏み出した。
第2章
見知らぬ街の安ホテル。
和樹のスマホに映っていたコンビニ脇の電柱。それだけが葵の居所の鍵だった。
葵の尻尾は掴めない。香織の体調は日に日に悪化した。移動中も洗面所へ駆け込んで吐く。
夕方、香織は「ホテルに戻る」と言い、一人ドラッグストアへ寄った。
狭いユニットバス。
震える手で試薬を浸す。秒針の音。
小窓に浮かび上がったのは——鮮烈な、一本の赤い線だった。
香織は便器に突っ伏し、胃液を吐いた。
喉の奥に広がる、あの日呑み込んだ白子の生臭く粘りつく後味。
口元を拭い、鏡に映る青ざめた顔を見つめる。そして、声もなくニタリと笑った。
◇
夜、部屋に戻ると香織は壁に向かって丸くなっていた。
洗面台のゴミ箱。押し込まれた紙箱とプラスチックの棒。
『陽性』の赤い線。
「……なんだ、これ……」
頭の中が白くなる。
香織が……妊娠?
「……和樹」
僕の声は乾いていた。
「香織が妊娠してる。誰かに酷いことをされたんだ。僕たちが守らなきゃいけない」
正義感を握りしめる僕を、和樹は冷たく凍りついた瞳で見つめていた。
「颯太……お前、気持ち悪いよ」
「……え?」
「善人ぶって……お前が一番、狂ってるんだよ」
和樹が胸倉を掴みかからんとした瞬間、テーブルに置かれた和樹のスマホがけたたましく鳴り響いた。
登録のない番号。通話ボタンを押し、スピーカーにする。
『……久しぶり、颯太くん』
間違えるはずがない葵の声。
『そこにいるんでしょ。こんなところまで追ってきちゃうなんてバカだね。……ねえ、私の味、美味しかった?』
僕と和樹は固まった。
『本当に毒のない男の子! あなたは何も知らない。和樹は私を抱いたのよ。和樹のパパが私を抱いたようにね』
和樹が……。
『……毒に塗れた二人の中で、あなただけが何も知らずに正義の味方ごっこをしてたんだよ』
ツ・ツ・ツ……と通信が切れた。
「……和樹……嘘だろ……?」
和樹は顔を上げた。そこに浮かんでいたのは、どろりと濁った笑みだった。
「嘘じゃねえよ。颯太、俺はお前に謝らないからな。香織は……俺に抱かれながら、お前の名前を叫んでたよ!」
頭の中で何かが弾けた。
「葵の味を知った男は……」
和樹は丸くなった香織の背中に視線を落とし、舌打ちした。
「……妊娠だけは想定外だった。葵にそそのかされたんだよ。『香織を抱いて壊せ』ってな! だから……」
視界がぐにゃりと曲がり、色を失っていく。
「クソッ……クソがぁっ!」
和樹はドアを蹴り開け、夜へ飛び出していった。
部屋に残された二人。
ベッドの上の香織が立ち上がり、無言で服を脱ぎ捨てていく。白い裸身。細いお腹。
香織は僕に近づき、裸のまま抱きついてきた。
僕は香織を強く抱き返した。
どちらからともなく唇を重ね、ベッドへとなだれ込む。
互いの肉体を貪りあった。
香織の目から涙が落ちる。僕の目からも涙が溢れた。
ボロボロと泣きながら、互いを求め続けた。
「汚れてしまった」と悔やむ気持ちすら湧かなかった。そんなものを悔やむ少年と少女は、もうどこにもいなかった。
ぬくもりの果て、天井を見つめていた。
僕らは誰なのか。これから、どこへ行くのだろう。
僕たちはもう動けなかった。
視界を埋め尽くすもや。幾重にも伸びる透明な蜘蛛の糸が絡みつき、身動きすら取れない。
ただ重なり合った体温を感じながら、世界を塗りつぶしていく大きな塊に身を委ねていた。
呑み込まれていく。
父親たちの呪いも、和樹の裏切りも、腹の中の冷たい命も、僕たちすらも。
何もかも全てが、染められていく、白い白い何かに。
(了)




