女子高生の白い味
現実に起きた事件を目を逸らさないで受けとめて下さい。
第一章 ある女子高生
第一話
「颯太、たまには部活忘れて羽伸ばそうぜ。隣町の夏祭り、いい子も来るしさ」
テニス部の厳しいコート整備を終え、汗を拭う僕——颯太に、友人の和樹がそう声をかけてきたのは、八月の終わりのことだった。
連日の猛練習で足腰はパンパンだったが、祭りの賑わいという言葉にはどこか惹かれるものがあった。
着替え終わると、提灯の明かりが遠くに見える隣町の神社へと自転車で向かった。
境内に足を踏み入れれば、人混みの熱気とソースの焦げる香りが鼻をくすぐる。神社の一角で、和樹の彼女である朱音が僕たちを待っていた。
「和樹、颯太くん、お疲れ様! 部活大変だったでしょ」
明るく微笑む朱音を見て、和樹の表情が一瞬だけ引きつり、すぐに無理な笑顔を作った。どこか固いその様子に僕は首を傾げたが、深くは気にしなかった。
「おう、朱音。……あいつ、そろそろ着くって」
和樹がスマートフォンを握り締めながら人込みの向こうへ手を振ると、淡い紫色の浴衣を着た一人の少女が現れた。
「お待たせ。和樹くん」
「颯太、紹介するよ。隣の高校の葵ちゃん。葵ちゃん、こいつが部活バカの颯太」
「初めまして、颯太くん。葵です」
「朱音も初めましてだよな」
「初めましてって、和樹とどういう関係?」
和樹は慌てて取り付くように口を挟んだ。
「最近知り合って、颯太のやつに似合そうだと連絡先交換しただけだよ。朱音、変な誤解するなよ」
「ふーん、まっ、いいか」
葵は軽く頭を下げた。どこか大人びた雰囲気を纏っており、同い年とは思えない艶やかさがあった。立ち振る舞いも落ち着いていて、祭りの喧騒の中でそこだけがしんと静まり返っているような錯覚すら覚える。
屋台の並ぶ参道を歩き始めたその時、人混みの中から見覚えのある顔がこちらに近づいてきた。僕の幼馴染・香織だった。
「あ、颯太?……と、和樹くん?」
家族と祭りに来ていたらしい香織は、僕の姿を見つけるとパッと表情を明るくした。
だが、僕の隣に立つ大人びた浴衣姿の葵に目を留めた瞬間、その表情がぴきりと固まった。
香織はツカツカと僕のもとに歩み寄ると、露骨に険しい顔で詰め寄ってきた。
「ちょっと、颯太。誰、その子」
急な剣幕に僕は思わず後ずさりした。
「えっ……あ、和樹の友達だよ。隣の高校の」
「ふーん……」
納得のいかない様子で、香織は僕と葵の顔を交互にじっと見比べる。それから腕を組み、不貞腐れたようにぷいっと顔を背けた。
「ふーん……あっそう。じゃ、邪魔して悪かったね」
「あ、おい、香織——」
引き止める間もなく、香織は不機嫌そうな背中のまま、人混みの向こうにいる家族の元へと去っていってしまった。
呆然としている間、葵はそんな香織の背中を冷ややかな目で見送り、口元に小さな笑みを浮かべていた。
「せっかくだし、何か買おうぜ。颯太は何がいい?」
和樹がどこか焦ったように話題を戻し、屋台を指差した。
「僕は焼きそばかな」
「相変わらずベタだなあ」
「夜祭りで焼きそば食わないやついないだろ」
何のツッコミもなく、和樹は横を向いた。
「葵ちゃんは?」
和樹の問いに、葵は歩みを止めず、ふっと小さな微笑を浮かべた。
「私は……そうね。強いて言うなら、白子かな。特に生の白子ポン酢」
「しらこ……?」
聞き慣れない単語に、僕は首を傾げた。祭り屋台の定番メニューからはあまりにもかけ離れた響きだった。
「それって、白身魚の刺身か何か?」
知ったかぶりをするのも恥ずかしく、素直に尋ねた僕を見て、葵の足がぴたりと止まった。
彼女はゆっくりとこちらに振り向くと、浴衣の袖で口元を隠し、クスクスと小さく笑った。
その瞳は笑っておらず、どこか冷ややかな光を宿して僕の全身をなめ回すように見つめていた。
「ふーん。颯太くん、白子知らないんだ」
「……悪かったな。あんまり魚の種類とか詳しくないんだよ」
僕の少し尖った声を聞いて、葵はくちびるを微かに歪め、囁くような低い声で言った。
「白子っていうのはね……男の人の大事な『命のもと』みたいな部分だよ。すっごく濃厚で、美味しいのに」
ーー命のもと。
その言葉の意味が瞬時に理解できず、僕は固まった。
「あ、葵ちゃん、高校生が祭りの真ん中で言うトークじゃないって!」
和樹が慌てて割って入ったが、その声はどこか怯えて震えていた。
葵は朱音の方を一瞬だけチラリと見やり、嘲笑うような笑みを浮かべる。和樹の額には、冷たい汗が伝っていた。
(馬鹿にされた——)
高校生特有の青く不器用なプライドが逆撫でされ、僕の心はすっかり冷めてしまった。
「じゃあ、私こっちだから。今日は楽しかった、ありがとう」
駅前の改札前で、葵は綺麗にお辞儀をして去っていった。
朱音を途中で送り届けて二人きりになった帰り道、和樹は僕に声をかけた。
「颯太、葵ちゃんの連絡先、聞かなくてよかったのか?」
「いいよ。なんか……僕とは住む世界が違う感じがしたし」
「……そうか」
和樹はそれ以上何も言わず、暗い夜道をただ俯いて歩いていた。
白子という奇妙な言葉の響きと、彼女の冷ややかな視線の記憶を、僕はその夏の終わりとともに意識の底へと追いやった。
第二話
九月に入り、照りつける陽射しの角が少しだけ丸みを帯びてきた。
夏休みが明け、僕——颯太の日常は、秋の新人戦に向けたテニス部の猛練習一色に染まっていた。
あの日、隣町の夏祭りで出会った「葵」という少女のことや、彼女が口にした「白子」という不気味な言葉の響きは、日々の激しい稽古の波にのまれ、すっかり過去の遠い記憶へと押し流されていた。
「颯太、タオル。あとスポーツドリンク」
部活のコート脇でベンチに腰掛けていると、隣のクラスの香織が影を落とすように立っていた。
香織はマネージャーではないが、幼馴染という気安さから、たまにこうして部活終わりに差し入れを持って顔を出す。
「サンキュ、香織。助かる」
ボトルを受け取りゴクゴクと喉を鳴らす僕を、香織はどこか落ち着かない様子で見つめていた。
夏祭りの日、不貞腐れて走り去って以来、彼女の態度はどこかぎこちない。言葉数が少し減り、ふとした瞬間に探るような視線を僕に向けてくるのだ。
「……何? 僕の顔に何か付いてる?」
「ううん、別に。……颯太さ、あの後、あの夏祭りの子と連絡取ったりしてないよね?」
不意に投げかけられた問いに、僕は吹き出しそうになった。
「取るわけないだろ。言っただろ、和樹の知り合いで、僕は名前すらろくに覚えてないって」
「……そ。ならいいんだけど」
香織はあからさまに安堵したように胸を撫で下ろした。その素直すぎる反応に苦笑しつつ、やっぱり香織は香織だなと安心しかけた、その時だった。
香織が周囲を気にするように少し声を潜め、僕の耳元に顔を寄せてきた。
「ねえ、颯太。……変なこと言ってもいい?」
「変なこと?」
「うん。……私、見間違いかもしれないんだけど、見たの。一昨日の夕方、三丁目にあるホテル街のところで……吉岡先生が、すごく若い女の子と一緒にホテルに入っていくところ」
「は……? 吉岡先生が?」
思わず大きな声が出そうになり、僕は慌てて口を押さえた。
吉岡先生といえば、僕たちの担任であり、学校では生徒指導も務める厳格な数学教師だ。眼鏡の奥の目はいつも険しく、規律に厳しいことで知られている。
「本当だってば。女の子の方は制服じゃなくて私服だったけど、小柄で……吉岡先生、周りをすごく気にしてビクビクしてて、絶対怪しかったよ」
「いやいや、まさか……見間違いだろ。先生、結婚してて子供もいるんだぞ? 親戚の子か何かじゃないか」
「かもだけど……なんか、嫌な感じがしたんだよね」
不機嫌そうに唇を尖らせる香織を見て、僕は「考えすぎだろ」と笑い飛ばした。大人がホテルに入ろうが何しようが、僕たち高校生の日常には何の関係もないことだ。
……そう、この時は高括っていたのだ。
「じゃあ私、先に帰るね。あんまり遅くまで練習しすぎないでよ」
「おう、ありがと」
手を振って去っていく香織の背中を見送り、僕は残っていたコートのブラシがけを終わらせた。すっかり陽が落ち、校舎が朱色から群青色へと染まり始める。
汗を拭い、ラケットバッグを担いで部室を出た直後だった。
「——桜!」
重く不快な声に名前を呼ばれ、僕は足を止めた。
薄暗い渡り廊下の陰から現れたのは、先ほど噂に上ったばかりの担任・吉岡だった。
「吉岡先生? どうしたんですか、こんな時間に」
普段ならビシッと整えられているはずの吉岡のスーツは、どこかしわ寄っており、ネクタイも僅かに歪んでいる。
何より異常だったのは、その表情だった。眼鏡の奥の目が血走り、定まらない視線で周囲を異様なほど警戒していた。額には不自然な油汗が浮かんでいる。
「桜……ちょっと生徒指導室に来い!」
「え? 僕、何かしましたか?」
「いいから来い!」
吉岡の荒げた声が、誰もいない静まり返った校舎に鋭く響き渡った。ただならぬ気配に気圧され、僕は大人しく吉岡の後に続いた。
生徒指導室に入り、吉岡が鍵をかけると、カチャンという金属音が重く室内に響いた。吉岡は机に両手を突き、僕を射殺すような勢いで睨みつけてきた。
「桜……お前、他校の女子生徒と付き合っているそうだな」
「は……? 僕が、ですか?」
「とぼけるな! 相手は〇〇高校の女子生徒だろ!」
脳裏に、あの夏の終わりの記憶が鮮明にフラッシュバックした。
紫色の浴衣。冷たい瞳。そして「白子」という言葉。
「いや、付き合ってなんていません」
「嘘をつくな!!」
吉岡がドンッ!と力任せにデスクを叩いた。あまりの剣幕に僕は思わず息をのむ。
「あちらから学校に苦情が入っているんだぞ!『桜という生徒にストーカー行為をされている』『無理やり付き合いを強要されて困っている』とな!」
「なっ……ストーカー!? 意味が分かりません! 本当に僕は何の関わりも——」
「言い逃れは通用せん! 葵は怯えきっているんだぞ! これ以上騒ぎを大きくしたくなかったら、今すぐ葵との関係を清算しろ!」
吉岡は興奮した様子で捲し立てるが、その声は怒りというよりも、何か巨大な恐怖に脅かされているかのように震えていた。
僕を問い詰めながらも、吉岡の目は何度も何度も自分のポケットにあるスマートフォンを気にしている。
身に覚えのない濡れ衣。激しい困惑と憤りが胸に渦巻く。
だが、それ以上に僕の背筋を冷たく凍りつかせたのは、ひとつの致命的な違和感だった。
(……待てよ?)
僕は夏祭りで一度葵と会っただけだ。付き合ってもいなければ、学校に彼女との接点を話したこともない。親密な関係では全くない。
——しかし吉岡先生は、「葵」という女子高生の名を呼び捨てた。まるで自分の娘ーー親密な間柄かのように。
「先生……葵を知っているんですか?……」
僕の疑問の呟きを聞いた瞬間、吉岡の顔からスッと血の気が引いた。吉岡は怯えたように後ずさりし、喉をひくひくと鳴らした。
放課後の薄暗い生徒指導室に、底知れぬ気味の悪さと闇が、静かに充満し始めていた。
第三話
翌日、放課後のテニス部コート裏。
夕闇が迫る薄暗い影の中、僕は和樹を壁際へ追い詰めていた。
「おい和樹、誤魔化すなよ。昨日、吉岡から呼び出されたんだ」
僕は和樹の制服の胸元を強く掴み上げた。和樹は体をビクッと震わせ、視線を泳がせる。
「吉岡が……。僕が葵にストーカー行為をしてるって、学校に苦情が入ったらしいぞ。なぁ、どういうことだ!?」
「颯太……やめろって、声が大きい……!」
「大きい声も出るだろ! 身に覚えのない濡れ衣着せられてんだぞ! そもそも……お前、なんで葵なんて奴と知り合いなんだよ! お前には朱音っていう彼女がいるだろ!?」
僕の怒声に、和樹の顔から一瞬にして血の気が引いていった。和樹は唇をガタガタと震わせ、崩れ落ちるようにその場に膝をついた。
「ごめん……ごめん颯太……! 俺、どうしたらいいか分からなくて……」
「謝る前に説明しろ! お前と葵は、どういう関係なんだ!」
和樹は頭を抱え、掠れた声でポツリポツリと話し始めた。
「……夏休みの初めだよ。隣町のショッピングモールに行った時……偶然、葵と知り合ったんだ。最初は……道を聞かれて、少し話して、SNS交換しただけだった」
「ただの知り合い……? なのに、なんであんな奴の言いなりになってるんだよ!」
「罠だったんだよ!」
和樹が血走った目で僕を見上げた。その瞳には、底知れぬ恐怖が宿っていた。
「あいつ、最初から俺と朱音を調べてたんだ……! SNS交換してすぐ、葵からメッセージが届いたんだよ。朱音の盗撮写真と一緒に……『この子、可愛いね。うちのガラが悪い知り合いのグループに見せたら、すごく興味持ってたよ。酷い目に遭わせるのなんて簡単なんだから』って……!」
「……な……!?」
僕の手から力が抜け、掴んでいた服を離した。
「朱音を……暴行させるって脅されたんだ……! 朱音の写真や家のアドレスまで握られて……『嫌なら私に従いなさい』って……! 朱音を守るには、あいつの言うことを聞くしかなかったんだよ……!」
和樹は地面に拳を叩きつけ、ボロボロと涙をこぼした。
自分の大切な恋人を盾に取られ、選択肢など最初から奪われていたのだ。
「じゃあ……なんで『僕』を夏祭りに呼んだんだ? なんで葵に紹介したんだよ!」
「葵から……命令されたんだ……。『あんたの周りで一番真面目で、毒のない男を紹介しろ』って……! 葵は吉岡と関係を持ってたんだ。でも吉岡がしつこくストーカーみたいになってきたから、吉岡の目を逸らすための『ダミーの彼氏』として……お前を利用しようとしてたんだよ……!」
言葉を失った。
香織が目撃した、吉岡先生がホテルに入っていった相手。それが葵であり、吉岡は葵に執着するあまりストーカー化していた。
そして葵は、自分を追う吉岡を牽制し、身を守るための「身代わり」として、和樹を脅して僕を引っ張り出したのだ。
「吉岡も葵も狂ってる……! 颯太、本当にすまない……! 俺のせいで、お前を巻き込んで……!」
泣きじゃくる和樹の姿を見て、激しい憤りと同時に、背筋が寒くなるような気味悪さがこみ上げてきた。
夏の終わりの夏祭り。浴衣姿で微笑み、冷たい目で「白子が好き」と語っていたあの女子高生。
彼女は可哀想なストーカー被害者などではない。自分の欲望と保身のために、和樹の弱みを握り、僕を罠に嵌め、大人の教師すら振り回しているのだ。
「和樹……泣いてる場合じゃないぞ」
僕は震える声をなんとか絞り出し、和樹の肩を強く掴んだ。
「このまま葵の言いなりになってたら、お前も朱音も、僕も潰される。吉岡の暴走を止めて、葵と直接話をつける。これ以上、誰も巻き込ませない」
(しかし、僕たちはまだ何も知らなかった。
葵が張り巡らせた本当の「蜘蛛の巣」が、すでに僕たちの家族の足元にまで伸びていたことを——)
第四話
吉岡のストーカー行為と葵の脅迫を終わらせるため、僕と和樹、そして事情を知って「一人で行かせない」とついてきた香織の三人は、吉岡の待つ放課後の旧校舎へと向かった。
だが、そこにいた吉岡は指導者としての威厳など微塵もない、哀れな廃人だった。
「ひぃっ……! 来るな、あいつに何を言われた!?」
激高する僕たちに対し、吉岡は頭を抱えて狂ったように叫んだ。
「違うんだ! ストーカーじゃない! 嵌められたんだ! あいつ……葵は悪魔だ! 援助交際の動画を撮られて……金を要求され続けて……従わないと学校にばらすと……!」
香織が言葉を失って口を押さえる。
吉岡は可哀想な犠牲者ではなく、欲に目が眩んだ挙句、少女に食い物にされた愚かな男に過ぎなかった。
「吉岡先生……今すぐ警察に行きましょう」
僕がそう告げた瞬間、吉岡のスマートフォンがけたたましく鳴った。画面に表示されたのは『葵』の二文字。
『吉岡先生? 辻村くんたちと一緒にいるんでしょ。……いつもの場所で待ってるから、みんなで来てよ』
(見張られている!)
受話器越しに聞こえる、どこか鈴を転がすような少女の明るい声。
僕たちの背筋に冷たい戦慄が走った。
指定されたのは、駅裏に昔からある居酒屋の個室だった。
重い扉を開けると、そこには制服の上にカーディガンを羽織り、白子ポン酢の皿をつつく葵が一人で座っていた。
「あ、いらっしゃい。みんな揃って仲良しだね」
葵は気さくに手を振る。
和樹は朱音の名を出される恐怖でガタガタと震え、香織は僕の服の裾を強く握りしめていた。
「葵……もうやめろ!」
僕は葵の前のテーブルを強く叩いた。
「和樹を朱音で脅すのも、僕をダミーに使うのも全部終わりだ! 吉岡先生のことも警察に話す! お前がやってることは脅迫だ!」
葵は箸を止めると、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には感情の欠片もなく、底知れぬ黒い闇が広がっていた。
「ふふっ……毒はないけど、熱いね、颯太くん。でもね……警察なんて行けるのかな?」
葵はカバンから冊子のような一冊のタブレットを取り出し、パタンとテーブルの上に置いた。
「吉岡先生だけじゃないよ? この街の『大人たち』は、みんな私に優しくしてくれるの」
葵がタブレットを開き、ペラペラとページをめくる。そこに並んでいたのは、盗撮写真とともに几帳面に記録された男たちの名前と連絡先、そして振り込まれた金額のリストだった。
そのページを目にした瞬間、僕と和樹の息が止まった。
「な……んだよ……これ……」
和樹の声が裏返る。リストの上の段にあった名前——それは、和樹の父親の名前だった。
「和樹くんのお父さん、すっごくケチでさ。動画見せたら青い顔して和樹くんのお小遣い分までお金振り込んでくれたよ? ……あ、それからね」
葵が次のページを開く。そこに記されていた名前に、僕の視界がぐにゃりと歪んだ。
『桜 隆史』——僕の、厳格で尊敬していた父親の名前だった。
「颯太くんのお父さんも、すっごく真面目な顔してるクセに私を買ったよ。 だからね、颯太くんを夏祭りに呼んだのは、お父さんをゆすった時の『保険』だったの。息子にバラされたくなければ、もっと出しなよって」
「嘘だ、嘘だろ……! 父さんが……そんな……!」
胃の底からドロリとした嘔吐感が押し寄せてくる。家で優しく微笑む父親の顔と、このタブレットに書かれた醜悪な名簿が重なり、世界のすべてが崩れ去っていくような感覚に襲われた。
「あっ、香織ちゃんだっけ?」
葵は顔を青ざめさせて固まる香織に、可愛らしく首をかしげて見せた。そしてページを開いて指でなぞる。
「香織ちゃんのお父さんはね、次のターゲットなの。今ね、お友達経由で連絡取ってて……そろそろ引っかかる頃かな?」
「え……?」
香織の声が震える。
「お父さんを罠に嵌めたらね、次は香織ちゃんに『お父さんを助けたいなら、パパ活しなよ』って言おうと思ってたの。そしたら親子揃って私の奴隷でしょ? 楽しそうじゃない?」
「やめて……! やめてよ!!」
香織が泣き叫び、その場に崩れ落ちた。
葵は冷めた手つきで白子を一口含むと、恍惚とした表情で咀嚼した。
「最初に言ったよね? 白子は男の人の『命のもと』だって。……自分を性的に買おうとする愚かな男たちの精子も、プライドも、家庭も、こうやって噛み砕いて呑み込んであげてるの。すっごく濃厚で美味しいよ?」
彼女にとって白子とは、自分を搾取しようとする身勝手な大人たち——そしてその父親たちにぶら下がる僕たち高校生の人生を喰らい尽くすための、復讐と支配のシンボルだったのだ。
僕たちは一言も発することができなかった。
和樹は膝をついて嗚咽し、香織は床に伏せて震え、僕は葵のタブレットに書かれた自分の父親の名前から目を逸らすことができなかった。
爽やかな青春のページなど、最初から存在しなかった。
僕たちは全員、夏の終わりのあの夜から、一頭の蜘蛛が張り巡らせた底知れぬ闇の巣の中で、ただ食われるのを待つ虫に過ぎなかったのだ。
葵は満足そうに微笑むと、残りの白子ポン酢を静かに呑み込んだ。
第5話
翌日の夕方。
街にはひんやりとした風が吹いていた。
がらんとしたスーパーの鮮魚コーナーで、僕は立ち尽くしていた。
パックの中で半透明にのたうち回る、あの白い塊——『白子』を見つめながら。
「……颯太?」
不意に声をかけられ振り返ると、そこには香織が立っていた。
昨日、居酒屋から帰り道、どこかぎこちなく距離を置いていた彼女ーーその目は驚くほど静かだが、どこか焦点が定まっていない。
香織は僕の手元にあるパックに目を落とすと、吸い寄せられるように呟いた。
「それ……買っていくの?」
「いや」
「買いなよ」
「えっ」
無言のままレジで支払いを済ませて、会話もなく、僕たちは近くの公園へ歩いた。そしてベンチに並んで座った。
秋風が吹き抜ける中、パックのフィルムを剥がす。
「私も食べてみていい?」
香織の問いに、無言で頷いた。
震える手で箸を取り、冷たく不気味な塊を一つ挟んで、僕の口の中へと放り込んだ。
ゆっくりと、歯を立てて咀嚼する。
味など、何もなかった。
舌の上に広がるのは旨味でも何でもなく、ただ粘りついて後味の悪い感触。
あの少女の嘲笑と父親たちの欲望が、拭っても拭っても喉の奥にまとわりつく忌まわしさだけだった。
次の瞬間、激しい拒絶反応が胃の底から一気に突き上げてきた。僕は口を押さえ、たまらずベンチから崩れ落ちると、地面に向かって激しく吐き出した。
「おえっ……ぐっ……はぁ、はぁ……っ!」
喉を掻きむしりながら咳き込む僕の耳に、静かな咀嚼音が届いた。
ハッと顔を上げると、香織がベンチに腰掛けたまま、パックから白子を指先でつまんで口に運んでいた。
「……すごく、美味しいよ。颯太」
そう言うと、彼女は昔と変わらない無邪気で眩しい笑顔を浮かべ、喉を鳴らして呑み込んだ。
(第二章へ続く)
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