#1 瘴気に侵された旦那様
『お願い…。どうか、早く目を覚ましてちょうだい…。もう…、時間がないの…。』
枕元で、私を起こす誰かの声が聞こえる。その切羽詰まったような訴えに、重いまぶたを開けた。でも、重いのはまぶただけではなくて、体も重くて動かせないの…。
(あぁ、体が鉛のように重いってこういう状態のことを言うのね。)
仕方なく、動かせる目だけを使ってまわりを確認してみる。部屋の灯りはサイドテーブルに置かれたランプだけが灯されていて、視認できるのは枕元だけだった。その枕元には、私を起こしていたであろう声の主が、祈るように手を組んでいる姿があった。その女性は、40代くらいのきれいな方だった。
「あぁっ、気がついたのね??よかったわ、目を覚ましてくれて。」
私が目を覚ましたことに気づくと、その女性はとても安堵していたわ。でも私は、ただ目を覚ましただけでこんなにも喜ばれている状況に困惑してしまう。
「あぁ、どうしましょう…。ちょっと、待ってちょうだいね。何から話せばいいかしら…。」
女性は安堵したと思ったら、今度はすごくうろたえた様子でなにを話すか悩んでいる。
「そうだわ!まずは、体の確認よね!?体の具合はどう?どこか痛むところはない??」
「…痛みは、ないです。ただ体が重くて、動かせないのです…。」
「体が固まってしまったのね。あなた、一日以上眠ったままだったんですもの。」
「えっ!?そんなに眠ってたんですか!?」
私が聞き返すと、女性は困ったように頷いた。寝ていた時間を聞いて、思わず驚いてしまったわ。この体の重さは、丸一日寝ていたせいなのね。
「それでね…。目を覚ましたばかりのあなたにこんなことを頼むのは、本当にとても心苦しいのだけれど…。そもそも、こうなってしまったのは、うちの馬車のせいですからね…。だけれど、もう時間が残されていないのよ。」
女性は切羽詰まった表情で私の手を取り、懇願してきた。そのただならぬ雰囲気に、なにか重大なことが起きているのだと察したわ。
「どうか、わたくしたちに、あなた様の力をお貸しくださいませ。」
「おやめください!私のような者に、頭を下げるだなんて。」
私は慌てて、大きな声を出した。だって高貴な身分であろうその女性が、私なんかに敬語を使い、頭を下げているんだもの。
「ですが…。わたくしは今、うちの馬車のせいでケガを負わてしまったあなた様に、非常識なお願いをしようとしているのですよ?厚顔無恥にもほどがあると自覚はしていても、形振り構っていられないのです…。」
女性が、すごく真剣な話をしているのはわかるのよ。だけど私には、この状況がまったく飲み込めていなかったの。
「あの…。その、『馬車のせい』ってなんのことでしょうか??」
質問すると、女性は信じられないものでも見たように、大きく目を見開いた。
「あなた、うちの馬車に接触したのよ!?教会を出たところで。」
「教会…??」
馬車に接触したことや、教会から出たところと聞いてもピンとこなくて、困惑してしまう。だけど私以上に、この女性の方が困惑しているようだった。
「まさか…。覚えていないの?あなたは昨晩、教会から出てきたところでうちの馬車と接触し、その衝撃で転倒して頭を強く打ったのよ!?」
思い出そうと記憶を探ろうとした瞬間━━。
「うぅっ…。痛いっ。」
割れるように頭が痛くなり、顔を歪めた。
「まぁ!大丈夫!?誰かっ!!急いで侍医を呼んでちょうだい!」
女性が呼びかけると、廊下からバタバタとたくさんの足音が聞こえた。女性は、この屋敷の主人なのだろう。
「頑張って。すぐにうちの侍医が来るから。どこが傷むの??」
「思い出そうとしたら…、頭痛が…。」
「…事故のこと、思い出せないのね?」
小さく頷くと、女性はハッとしたように私の顔をのぞき込んだ。
「ねぇ、覚えていないのは事故のことだけ??なぜ教会にいたのかは、覚えているかしら?」
私が首を横に振ると、女性は顔を引きつらせた。
「…あなた、自分の名前はわかる?」
覚えてないのは、馬車の事故だけではなかった。名前を聞かれ、そこで自分に記憶がないことに気づいたの。私の表情から、自分の名前さえ覚えていないことを察した女性は、頭を抱えて狼狽してしまった。
「そんな、なんてこと…。あぁ、もう…。いったい、どうしたらいいの?」
目が合うと女性は、バツが悪そうに微笑んだ。それは、明らかに取り繕った笑顔だった。
女性は部屋へやって来た医師へ、私のケガと記憶について診察するよう言い、使用人へは、私の身の回りの世話をするよう指示を出すと、部屋を出ていった。
医師の診察を受けたあと、メイドに体を拭いてもらい、マッサージもしてもらった。そのあと食事を軽くいただいているところへ、女性が戻ってきた。女性は、医師から診察の結果を聞くと、医師とメイドをさがらせ、ベッドの横の椅子へ腰を下ろした。
「うちの侍医に聞いたと思うけど、記憶を思い出そうとして頭痛がしたのは、脳が、思い出したくないと拒絶反応を起こしたせいなのですって。トラウマとなった馬車との接触事故を思い出さないように、体が自分自身を守っているのよ。」
「はい…。先生からは、無理に思い出そうとしないようにと言われました…。でも私、このままでいいのでしょうか??自分の名前さえ忘れてしまったのに…。」
「あなたの名前は、アリーシャよ。」
『アリーシャ』
自分の名前を聞いても、なにも感じない…。これが本当に私の名前なのかさえも、わからない。
「不安になる気持ちもわかるけれど、そんなに心配しなくとも大丈夫よ。一過性のものである可能性が高いと言われたのでしょう?そのうち思い出せるわよ。」
「そうだといいのですが…。」
女性は椅子からベッドへ移動し、不安になる私の肩を抱き寄せた。
「ところで…。私はなぜこちらのお屋敷にお世話になっているのですか?このうちの馬車と接触したとのことですが…。ここは、どちらのお屋敷なのでしょうか?」
「ここはアダルベルド伯爵邸で、わたくしは、前伯爵夫人のイヴォンヌよ。」
「聞いておいて申し訳ないのですが、家名をお聞きしてもやっぱりわかりません…。」
「仕方ないじゃない、記憶をなくしてしまったのだもの。」
前伯爵夫人のイヴォンヌ様は、私の背中をさすり、なだめてくれた。
「それでね。記憶をなくしただけでも大変な状況なのに、もっと残酷なことをあなたに伝えなければいけないのよ…。」
記憶をなくしショックを受けているところへ、残酷な話があると聞いて、一体これ以上なにがあるのかと身構えてしまう。
「落ち着いて聞いてちょうだいね。現在のアダルベルド伯爵の名はクロードと言って、わたくしの一人息子であり、あなたの夫なの。」
(…私の夫??)
アダルベルド伯爵であるクロード様が私の夫だと聞いても、まったく実感がわかないの。そのお名前に聞き覚えもないし、お顔も浮かばない…。
「クロードは騎士でね…。先日の魔物討伐で数名の仲間と殿を務めた際、傷を負ったところから魔物の血が入り込んでしまったの。神官たちに浄化魔法をかけてもらったけれど、浄化しきれないと匙を投げられわ。現状、浄化以外に瘴気に侵された者を治す術がないため、クロードの命はね、残りわずかなのよ…。」
「そんな…。こんな大変なときに、私、記憶をなくすだなんて…。ごめんなさい…。」
「クロードが長くないと聞いたわたくしたちは、いてもたってもいられず教会へ行ったの。クロードの回復をお祈りするためにね。そしてその帰りに、あなたは事故に遭ったのよ…。」
(私は、どうしてそんな大事なことを忘れてしまったの…。)
旦那様の命が危ない深刻な事態だというのに、なにも覚えていないのよ…。そうか…。だから、お義母様は先程から切羽詰まった様子だったのね。
「ケガを負い安静が必要な上に、記憶をなくしたあなたに、こんなことを頼むのは人としてどうかと思うのだけれど…。残されたわずかな時間で、あなたには、クロードの子を身ごもってもらいたいの。」
「私が…、クロード様の子を??」
お義母様は私の手を取り、ぎゅうっと力強く握りしめると、まっすぐ私の目を見つめながら、アダルベルド伯爵家が置かれている現状について説明しはじめた。
3年前、クロード様の境遇は大きく変わった。先代の伯爵様が急死したため、20歳でアダルベルド家の当主となったの。当時、クロード様には婚約者がいたけれど、先方からクロード様との婚約をなかったことにしたいとの申し出があり、婚約は解消された。先代の伯爵様が亡くなり、アダルベルド家と縁を結ぶメリットがなくなったから。つまり、当時のクロード様には伯爵家を維持する力がないと見切りをつけられたのだ。
家のことはお義母様と執事が中心となり、伯爵家一丸となり家を盛り立てた。そのため騎士団長から、今すぐ騎士団を辞められると困る、もう少しだけでも騎士を続けてくれないかと懇願されていたクロード様は、伯爵位を継いでからも騎士を続けていた。騎士を続けることを選んだのは、この国が魔物による脅威に晒されているせいだった。クロード様は、今の自分が伯爵として家門や領民にできることは限られているため、王室騎士団の騎士として国と民を守ることに尽力する方が、アダルベルド家と領民のためとなり、家門と領民を守ることに繋がると信じていたの。
けれど…。今回の討伐中に魔獣が現れ、何人もの騎士が魔獣や魔物の瘴気に侵された。瘴気に侵された者は、次第に理性を失い、魔物化し、仲間たちへ襲いかかった。魔物化した者を助ける術はなく、団員たちは決断を迫られた。そのとき副団長が、殿に名乗りを上げ、つらい役目を買って出てくれた。副団長とともに殿を務めると数名が手を挙げ、その中にクロード様もいたの。団長や他の団員を逃がすために魔物化した仲間たちと戦い、そして、クロード様も瘴気に侵されてしまった…。
クロード様に残された時間がわずかとなり、お義母様は今ある問題に頭を悩ませていた。このアダルベルド家には、クロード様しか跡取りがいないのだ。このままクロード様になにかあれば、伯爵の位は傍系の誰かの手に渡ってしまう。お義母様はそれを阻止するために、私へクロード様の子を身ごもって欲しいと訴えているの。記憶をなくした、私に…。
クロード様の命が残り少なく、跡取りがいないこの状況で、お義母様がお世継ぎを切に願うのは当然のことだと思う。だけど。記憶をなくした私は戸惑うばかりで、決断できずにいた。
お義母様は、ケガを負い、記憶をなくした私を気遣いながらも、何度も頭を下げ、必死に説得を続けた。それで最後は、お義母様の涙を見て決意したの。クロード様の子を授かりたいって…。
お義母様は、私に子づくりについて指南し、妊娠しやすくなる薬を混ぜたお茶を飲ませると、クロード様が隔離されている地下室へと案内した。護衛として、伯爵家の騎士であるエイダンも一緒に地下室へ向かった。クロード様がいる部屋へたどり着くまでにいくつもの扉を通り、部屋へ近づく程にエイダンの表情が険しくなっている。
無理もないわ…。彼の任務は、クロード様が完全に魔物化した際、討伐することだから。自身の主である、クロード様をね。それは、仲間たちを討伐しなければならなかったクロード様と同じく、重くつらい措置となるだろう。
お義母様は、部屋には瘴気が充満しているため体に異変があれば無理せず退室することと、なにかあったらドアの外に待機しているエイダンへ助けを求めるようにと言った。
「アリーシャ、お願いね…。」
私を力強く抱き締めたお義母様の腕は、震えていたわ。その震えから不安と恐怖が伝わってきた。たった一人のかけがえのない息子が、今まさに死の狭間にいて、魔物化した際にはエイダンへ指示を出し、その大切な息子を亡きものにしなければならないから…。それでも、魔物化したクロード様によって被害が出ることがないよう、その時がきたら指示を出さなければならないお義母様からも、直接手を下すエイダンからも、その顔つきから覚悟がうかがえる。
そんな二人を見て、私もまた覚悟を決めた。
部屋に入ると、そこは真っ暗で、息苦しかった。それはここが地下だからという理由だけでなく、瘴気が充満しているせいだった。ランタンの灯りを頼りにベッドまで進むと、聖水や香などを乗せたトレイをサイドテーブルへ置き、香を焚いた。うめき声がする天蓋の向こうへ視線を送り、深呼吸をしてから天蓋をめくる。焚いた香をヘッドボードへ置き、ランタンでベッドを照らすと、瘴気に侵され、苦しんでいるクロード様の姿が目に映った。その手と足には、拘束具がはめられていたわ。
(この方が、私の旦那様…。)
クロード様のお姿を見ても記憶は戻らず、忘れてしまった申し訳なさで胸がいっぱいになるの。
聖水を手に取ると、クロード様へ声をかけた。
「クロード様、聖水をお飲みください。きっと楽になるはずですから…。」
だけど。クロード様は飲み込むことができる状態ではなく、聖水は口から垂れてしまった。
お義母様は、クロード様の魔物化を遅らせるために聖水を何本も用意していた。
(聖水は、とても高価なものなはず…。)
一滴も無駄にしてはいけないと思った私は、聖水を口に含むと、彼へ口移しをした。はじめは抵抗していたクロード様は、3本目の聖水を飲み切ると、もっと欲しいと訴えているかのように私の口の中を舌で探りだした。
聖水の効果によりクロード様の状態が少し落ち着いたため、彼の服を脱がせた。私に託された、重大な務めを果たすために。
瘴気に侵された彼の体には、たくさんの黒い痣ができていた。それらを見て、呪いみたいだと感じたの。こうなってしまったのは、魔物化した仲間のせいなのよね…。そう思うと、複雑でやるせない気持ちになったわ。仲間同士で傷つけ合う状況になるだなんて…。苦楽をともにしてきた仲間たちに手をかけなければならなかったことは、私には想像もできないほど壮絶な苦悩だったろう。それなのに、私は…。その苦悩を分かち合うどころか、クロード様のことを忘れてしまったのよ。旦那様に寄り添い、支えるのが妻である私の役目だというのに…。
「クロード様…。ごめんなさい…。私…。なんにも、覚えてなくて…。」
クロード様へ覆いかぶさった私は、何度も謝罪の言葉を口にした。
「なんで…?どうして私、忘れてしまったの…。」
旦那様であるクロード様の痛々しいお姿を目の当たりにしても、なにも思い出せないこの状況に、涙があふれてしまう。ポロポロとこぼれた私の涙で、クロード様の胸元がびちゃびちゃに濡れているけど、構わず彼の胸に顔を埋めた。
すると━━。心臓の音が聞こえてきた。
(クロード様は、生きている…。)
お義母様もエイダンも、すでに最悪の事態を想定している。それでも、私は祈らずにはいられなかった。
(神様どうか、クロード様をお救いください。)
催淫作用のある香が天蓋の中に立ち込めると、私はサイドテーブルから媚薬を取り、意を決して飲み干した。それから、媚薬をもう一本口に含むと、それを口移しでクロード様へ飲ませた。




