23話 立腹
ジルダは、信じられない気持ちで目の前の男を見る。
(私の、目を……?)
それは、想像しただけでも恐ろしいことだった。
もちろん、ジルダが頷くはずもない。
そのまま動かず、唇を引き結んだまま何か言いたげに見上げる少女を見て、ファルク卿は表情をそのままに、口を開いた。
「もちろん、手荒な真似はしません。私も、残酷なのは嫌ですから」
そう言うと長い指を三つ立て、ジルダに向けた。
「選んでいいですよ、今はあなたの目ですから。“生きたまま”か“氷漬け”、それとも、眼球だけ取り出しますか?」
(何を言ってるの?)
詳しく聞こうとは思うまい。
どちらにせよ、残酷であることは決まっている。
「私はどちらでも構いませんよ。何か別の方法があれば、それでもいいです」
「私、私は……」
ジルダは一生懸命心を落ち着けようとしたが、どうにも難しい。
それでも、無理をして声を張り上げた。
「あなたの所有物にはなりません。早くここから出して!」
直後、パシッ!と歯切れの良い音が響いた。
ジルダは目を見開きながら、硬い床に転がる。
「ジルダ!」
サラの声を耳にしながらジルダは、左側の頬がひりひりと痛むのを感じた。
体勢はそのままに、目だけを上方へ向けると、そこに男の冷めた目があった。
ジルダは歯を食いしばり、顔の横に手をつく。やはり鎖が邪魔だったが、それでも膝をついて起き上がった。
そんなジルダを平然と見つめて、ファルク卿は喋りだす。
「お嬢さん。何も、あなたが欲しいと言っているわけではないんです」
ゆっくりと、言い聞かせるように。
そこにあの笑顔はなかった。
「あなた自身は、二つの宝石についている付属品のようなものです。ですがその付属品も、今ので傷ついちゃいましたね。不良品は宝石を汚します。ですから……」
そこまで言うとファルク卿は立ち上がり、高くからジルダを見下ろした。
ジルダは目を覆いたい気分だった。
あの無邪気な微笑みが、今では毒を含んでジルダを攻撃する。
「宝石そのものの鮮度は保ったまま、あなたのことは殺してあげます」
ジルダは男爵を睨む。
しかし、ジルダの目を見れば見るほど、男爵は恍惚としていた。
この人に何を言っても無駄だという虚無感が、ジルダを包み込む。
目の前にいるのは、自分とは全く違う生き物なのだと思わざるを得なかった。
そのとき、「わっ」と驚いた声をあげて、男爵が床に尻もちをついた。
何事かとジルダが思っていると、男爵の向こう側に、体勢を低くしたサラが見えた。片膝を立て、もう片方の長い脚を男爵のほうに伸ばしている。
どうやら脚をはらってファルク卿のすねを蹴り、転ばせたようだ。
これが、鎖で手と移動の自由を奪われた彼女にできる、精一杯だった。
「ふざけんな」
刃物のように鋭い目で、サラは睨みつける。
「ああ、なるほど」
ファルク卿は腰をさすりながらやれやれと立ち上がると、今度はサラに視線を向ける。
「あなたの赤い髪も、なかなか見事なものです」
「どうでもいい」
「しかし、赤い髪ならもう持っているので、あなたには一切用はありません」
ジルダは男爵の注意が自分から逸れたものの、まずいと思った。
このままでは、サラまで何をされるか分からない。
とにかくこの男爵は、行動が読めない。
「それなら、あたしを殺すか?」
「そうですねえ。最初から私はそれでいいと思ってたんですけど、どうやらルースは、そうはしなかったみたいですね」
(ルース?)
ジルダはいぶかしげに顔を上げた。
男爵が言っているのが誰のことなのか尋ねたかったが、背中を向けられていた。
ただ、ジルダはなんとなくあの少年の顔を思い浮かべる。ただ直感だったが、彼のことではないかと思った。
「別に無害なら、そのまま監禁しておくだけでもよかったのですが、そうではなさそうですからねえ」
ファルク卿は眉を下げ、困ったように笑う。
サラはそれを、黙って見ているだけだった。
「やめて!」
そんな中、ジルダの声が響く。
「次から次へと、うるさいなぁ」
男爵はまた、煩わしそうにジルダを見た。
どんなに情のない冷たい目を向けられても、ジルダは怯まずに言った。
「私の瞳が手に入ればそれでいいでしょ!それなら、その人は殺さないでください」
言葉の後半には、懇願するような響きが加わっていた。
息をのむサラを横目に、ファルク卿はまたジルダの前に屈んだ。
目を細め、唇は弧を描いたまま、ジルダに手を伸ばす。
ジルダは避けようとはせず、息を荒くしてファルク卿に侮蔑の目を向けていた。
「大丈夫ですよ、お嬢さん」
ファルク卿は長い指でジルダの耳の近くの髪の毛を掬いとると、その指をゆっくり下へと滑らせていく。
そしてジルダの肩のあたりに手が到達すると、その栗色の毛束をくしゃっと握り潰した。
「殺すときは、お二人ともまとめてさしあげましょう」
ファルク卿はするっとジルダの髪から手を離すと、最初に床に置いた灯りを手に持ち、今度こそ立ち上がった。
とことこ歩いて鉄の扉を開け、部屋から出て行く。
最後に顔だけ覗かせると、付け足すように言った。
「あ、そんなすぐには殺しませんよ。私もそれなりに忙しいので」
そう言って最後にまた微笑むと、重い扉を閉ざして行ってしまった。
残された二人の間に、沈黙が広がる。
サラはちぎれそうなほど唇を噛みしめ、ジルダはただただ蒼白な顔で俯いていた。
やがて、サラが口を開く。
「ジルダ、大丈夫か」
「……私は大丈夫です。サラさんこそ」
気持ちの入っていないようなその声に、サラは眉根を寄せる。
「私は何もされてない。あんた、叩かれたところが腫れてきてる」
そう言ってジルダの頬を指さす。手を目一杯伸ばすと、また鎖が音を立てた。
ジルダは目線を下げたまま自分の頬に手を添えたが、どうでもよさそうな顔をしていた。
「こんなの、全然」
「しっかりしろ、放心してる場合じゃない」
「いいえサラさん、私は今、頭も心も冴えわたっています」
その口調は、いくらか心配になるものだった。
たしかに落ち着いた話し方だが、その静けさが逆に怖い。
ジルダの俯いた顔に髪が纏わりつき、サラのところからではどんな顔をしているのか見えない。
「サラさん、私は」
ジルダが言いかけたとき、また扉の開く音がした。
サラは警戒したそぶりを見せ、ジルダも口を閉じて目をやる。
あの狂男爵が、何か忘れてきたのだろうか。
もしそうだったらやってられないと、ジルダは無言で目を逸らそうとしたが、やって来たのは違う人物だった。
「あっ」
ジルダは声をあげて立ち上がる。
そこには、ファルク卿の下男である少年がいた。
相変わらず暗い瞳をしていたが、手には二人分の料理をのせた膳を持っている。
少年は先ほどの男爵同様、部屋の中に入ってきて扉を閉め、しっかりと鍵をかける。
それから無表情のまま、二人の近くにそれぞれ食事を置いた。
一見ちゃんとした料理であり、分量も少なすぎることはない。しかしジルダもサラも、すぐに手をつけるほど能天気ではない。
「おまえ……」
サラは男爵に向けたのと同じような目線を少年に送る。
ジルダも、悲しげだった。
裏で何が起きているのか、詳しいことはジルダには分からない。
しかしあの主人の下男である限り、共犯であることを疑うのは当然だった。
少年は配膳を終えると、二人のちょうど中間あたりに立つ。
そして、静かな口調で言った。
「俺を恨んでもらってかまわない」
その言葉が、疑いを現実にさせた。
ジルダは言葉なく、目を伏せる。
「でもどうか、フーゴ様の言うことに従ってほしい」
フーゴ、あの男爵の名だ。
サラは少年の言葉に、怒気を含んだ目を向けた。
「大人しく死ねってことか」
すると少年は、首を横に振る。
「フーゴ様が機嫌を直してくれさえすれば、きみたちは生きられるよ。宝飾品として一生この屋敷にいることになるけど、殺されずにすむ。だからさ、変に抵抗しようとか思わないでよ」
「あの変態のもとで一生を終えるくらいなら、自分から死んだほうがましだ」
サラは強く言い返す。それは、ジルダも同意見だった。
少年はそんな二人をじっと見てから、目線を下げた。
「じゃあ、死を選ぶんだね」
「そんなわけないだろ」
「逃げ出そうなんて、考えない方がいいよ」
そのとき、少年の目が揺らぐ瞬間を、ジルダはとらえた。
無表情の中に一点、まるでジルダたちを説得しようとする色がある。
ジルダはそのまま、目線を少年の顔全体に移す。よく見れば、昨日はなかった傷が増えているように感じた。
前髪で隠しているつもりだろうが、額や鼻には打ちつけたような痕があり、頬やこめかみあたりも不自然に赤い。
それを見ながら、ジルダは自分の頬に触れた。まだ、さっき引っ叩かれた痛みが残っている。
それから、数週間前に少年と初めて会ったときのことを思い出す。少年の身体中にあった打撲や切り傷、そしてそのときの発言の数々。
さらにジルダは、自分の頬を容赦なく叩いてきた男爵の姿を頭に浮かべる。
そのときの様子と、今目の前にいる少年を見比べているうちに、ジルダの中で何かが繋がろうとしていた。
「ルース……」
呟くようなジルダの声に、少年が肩を震わせた。
ジルダを見る目は驚くようでもあり、同時に何かを恐れるようでもあった。
反応を見れば分かる。やはりファルク卿がルースと呼んでいたのは、この少年のことなのだ。
そしてジルダは、少しだけ前に出る。鎖があるので、その幅は限られていたが。
「あなたはずっと、辛い目に遭わされていたの……?」
ジルダの言葉を聞いた途端に少年、いやルースは後退った。
なぜだと問うような目で、ジルダを見つめ返す。そこに、いつもの無情の少年はいなかった。
追い討ちをかけるように、ジルダは続ける。
「ファルク卿から、虐待を受けてたんだよね」
問いかけてはいるが、ほぼ確信したような言い方だった。
ルースの怯えるような瞳が、肯定を示していた。
ジルダは額を押さえる。
看病しているときに目にした、ルースの身体にあった無数の傷は、主人からの日常的な暴力によってできたものだろう。
平気な顔でジルダを叩いたように、あの男はルースにも同じようなことを、もしくはそれ以上のことをやってきたのだ。
「どうして……そんな主人に仕えているの?」
ジルダは嘆くように言う。
ルースは目線を下げ、扉のところまで下がっていくばかりだった。
相手が何も言わないので、ジルダの憶測は進むばかりである。
やがてジルダは、ある一つの恐ろしい考えにたどり着いた。
サラがいるのではっきりとは口にできないが、それでも聞かずにいられなかった。
「もしかして、あなたの背中にあったものも……」
「違う!」
その先を言わせないような、尖った声が飛んできた。
それを見たサラは、探るような目を二人に向ける。
「違う、これは、違うんだ……」
消え入るような様子に、ジルダもこれ以上追求するほどの厳しさは持ち合わせていなかった。
ルースはすっと顔を上げると、まくしたてるように言った。
「とにかく、きみたちが大人しくしてくれればここから出してあげられるし、食事だって用意する」
「あんたは」
サラが厳しい目をしていた。
それに対してルースは眉を潜め、口を止めた。
「あんたは、ずっとあの男に仕えていたいのか」
「……」
「離れようと考えないのか」
その場の空気が張り詰める。
息苦しいような中で、サラとルースは睨み合っていた。目を逸らせば負けだとでも言うように。
「……思ったよ」
やがて聞こえてきた絞り出すような声に、ジルダは耳を研ぎ澄ませる。
「毎日痛みに耐えながら、言うことを聞くしかない。フーゴ様は自分の手は絶対に汚したがらないから、俺が何度もこの手を汚した。その罪深さに気がついて逃げたところで、結局自分には他に居場所なんてないと痛いほど知らされた」
そしてルースは、自嘲した。
「下賤の妖精族は、何も求めちゃいけないんだ」
妖精族という言葉を聞いても、サラは表情を変えなかった。もしかすると最初から勘づいていたのかもしれないし、顔に出すほどではなかっただけかもしれない。
サラがちらっとジルダに目線を流すと、意外にも動じていなかった。
他人の苦しみを無駄に気にかけるような娘だから、きっとまた悲しげな目をしていると、サラは思っていた。
いや、むしろあれは。
サラは目を凝らし、伏し目がちなジルダの顔を覗く。
その様子には気がつかぬまま、ルースはジルダに顔を向けながら話を続けた。
「きみの食事に睡眠薬を混ぜたのも、他の使用人に指示を出してそっちの人を気絶させたのも全部俺だよ。もうこんなにも、フーゴ様に協力している。今さら引き下がるなんて、俺は」
━━ガシャン。
なんだか穏やかではない音がして、少年は口を閉ざす。
そのまま視線を少し上に向け、だんだんと目を見開いていった。
己の視界に映るものが、信じられなかった。
ジルダを拘束していた左手側の鎖が、砕けて床に落ちていた。
それからジルダは、空いた手で反対側の鎖を掴む。そして錆びた金属をぐっと握ると、一瞬で鎖は粉々になったのだった。
ジルダは俯いたまま左手を開き、ぼろぼろと金属のくずを床に落とす。
「え、なんで……」
初めてルースが、少年らしく驚きを露わにした。
サラまでもが、うっすらと口を開けている。
そんな二人におかまいなしに、ジルダは最後に、両手首に付いている鬱陶しい輪を破壊した。
瞬く間に、自由になる。
そう、ジルダは破滅の力を使っていた。
家族以外の誰かの前でジルダがそれを使うのは初めてだった。
正確に言ってしまえば、数日前に謎の混血族の女に無意識に使ってしまったのだったが。
サラは感心したように瞬きをする。ようやくその力を見ることができて何やら満足げだった。
ルースはまだ何が何だか分からず、人ではないものを見るような目でジルダを見ている。
ジルダは動けるようになると、すぐさまサラのもとへ寄る。そして先程と同じやり方で、サラのことも解放した。
「よくやった!」
サラはにやっと口元を歪め、ジルダはの背中をぽんぽんと叩く。
それでもジルダは、喜びも笑いもせずにいた。
ルースは冷や汗を浮かべ、扉の前で身構える。
小柄な体は、扉を守るにはかなり頼りなかった。
ジルダはそんなルースに一度目線を投げたものの、そこから動かずにサラと向かい合う。
底から強い光を放つ瞳に、サラは何かを感じた。
「サラさん、話の続きです」
「は?」
急に何を言い出すのだと、サラは気の抜けた声を出す。
ジルダはそのまま続けた。
「私が言いかけている途中でルースが来たため中断されてしまいましたが、やっぱり言わせてもらいます」
「おう?」
若干受け身になるサラを前に、ジルダは一度目を閉じた。
深く息を吸うと、頭の中を巡る細かいあれこれを吹き飛ばすように、カッと目を見開く。
「私は、猛烈に腹が立っています!」
それは、サラですら黙ってしまうような迫力だった。
先程からジルダの様子が妙だったのは、このためだった。
「あの男爵がここに来たときからずっとです。人を物のように扱って、私もサラさんも、見せ物じゃないのに!」
口を開けば、次々と言葉が溢れ出してくる。
ジルダは、それはもう、ずっと我慢していたのだ。
それがルースの話をきっかけに、爆発したのだった。
「この力があれば鎖なんて簡単に壊せるって、もっと早く気がつくべきでした。そうすればさっきだって、あの男に一発食らわせることができたのに!」
「そうだな。でもジルダ、一旦落ち着かないか」
「さっきも言ったじゃないですか、今の私は、頭も心も最っ高に冴えています!」
ジルダの顔に、赤みが増していく。
このときのジルダは、落ち込んで尻込みしているような少女ではなかった。
変わった瞳に、ストルーガという特殊な立場。
人よりも苦労するであろうことは、とっくに分かっていた。
「本当に許せません、あんな心のない男。だけどますば、こんなところさっさと出ましょう、サラさん!」
ジルダは両手の拳をぎゅっと握り、サラに詰め寄る。
サラは苦笑を浮かべつつ、少し面白そうに目を光らせた。
「いい心意気じゃん」
そして二人は目を見合わせると、不敵な笑みを浮かべた。
お互いの心が固まると、ジルダはサラから目を離してルースを見る。
黒曜石のような髪と目を持つ少年は、険しい顔で二人のやりとりを見ていた。
警戒心を露わにするルースにジルダはつかつかと歩み寄っていき、目の前まで来るとすっと手を伸ばした。
扉にぴったりと背中をつけ、ルースは良からぬ気配を感じ取る。
「ちょっと、待ってよ……」
ルースは顔を青くして、間近に迫る手に身を竦めた。




