死者から届いた手紙 ③
店内には、コーヒーを淹れる音だけが響いていた。
誰も口を開かない。
黒瀬はテーブルに置かれた封筒を見つめていた。
「神崎さん。」
静かな声だった。
「一つだけ、お聞きします。」
千尋は小さく頷く。
「ご主人は、生前、手紙を書く習慣がありましたか。」
「ええ。万年筆が好きで、よく便箋に書いていました。」
「その手紙は封筒に入れず、机へ置いたままにすることも?」
「……あります。」
黒瀬は満足そうに頷いた。
「やはり。」
私は首を傾げる。
「何が分かった?」
「この手紙は本物です。」
「それは筆跡でも分かっている。」
「しかし、この封筒は違います。」
拓也――いや、長男の修司が、わずかに肩を震わせた。
黒瀬は封筒を持ち上げる。
「神崎さん。」
「はい。」
「封筒は、ご主人の物ですか。」
千尋はしばらく見つめていたが、やがて首を横に振った。
「……違います。」
「え?」
思わず声が出た。
「主人は無地の和紙の封筒しか使いません。このような市販の茶封筒は嫌っていました。」
店内が静まり返る。
黒瀬は静かに封筒を置いた。
「つまり、手紙を書いた人と、投函した人は別人です。」
修司の喉が、ごくりと鳴る。
「さらに、この手紙です。」
黒瀬は便箋を広げた。
『書斎の時計を見ること。』
「皆さんは、この一文を『何かが隠されている』という意味に受け取った。」
誰も否定しない。
「ですが、本当にそうでしょうか。」
私は眉をひそめた。
「違うのか?」
「神崎隆一という人物は、家族思いで、用意周到だったそうですね。」
千尋は涙ぐみながら頷く。
「ええ……。」
「そんな人が、家族を混乱させるだけの曖昧な手紙を書くでしょうか。」
沈黙。
「答えは、いいえです。」
黒瀬は続ける。
「この手紙は、途中までしか読まれていない。」
「途中まで?」
「ええ。」
「封筒から取り出した人が、最後まで読ませなかった。」
修司の顔色が変わる。
「な、何を言って……。」
「手紙は一枚だけではありませんでしたね。」
千尋が息をのむ。
「そう……。」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
「実は……二枚ありました。」
私は思わず立ち上がる。
「二枚!?」
「はい。」
「でも昨日、封筒を開けた時には、一枚しか……。」
千尋は修司を見た。
「あなたなの?」
修司は俯いたまま動かない。
黒瀬は穏やかな口調を崩さない。
「二枚目には、こう書かれていたのでしょう。」
黒瀬は目を閉じる。
「『この手紙を読んでいる家族へ。私は遺言を書き直すつもりはない。互いを疑わず、助け合って生きてほしい。』」
修司の肩が震えた。
「……どうして分かった。」
その一言で、すべてが終わった。
修司は力なく笑う。
「父さんの机に、この手紙があった。」
「俺は読んだ。」
「二枚目も。」
「でも……そのままじゃ、何も起きないと思った。」
店内には誰も責める声を上げなかった。
「会社の資金繰りが苦しかった。」
「相続の話し合いを急がせたかった。」
「だから二枚目だけ抜き取り、新しい封筒へ入れて投函した。」
「家族がお互いを疑えば、自分に有利になると思った。」
修司は俯いたまま涙を落とした。
「最低だよな……。」
長い沈黙のあと、千尋は封筒を静かに閉じた。
「いいえ。」
修司は顔を上げる。
「あなたは間違えた。」
「でも、お父さんが最後に信じたかったのも、あなたなのよ。」
修司は堪えていたものが切れたように泣き崩れた。
黒瀬はカップを口元へ運ぶ。
「事件は終わりました。」
私は尋ねる。
「結局、この事件の犯人は誰だったんだ?」
黒瀬は少し考え、静かに答えた。
「犯人は修司さんです。」
「ですが、本当に家族を傷つけたのは罪ではありません。」
「互いに話し合うことをやめてしまった沈黙です。」
窓の外では雨が上がっていた。
マスターが新しいコーヒーを置く。
香りが静かに店内へ広がる。
黒瀬はその湯気を眺めながら、小さく呟いた。
「人は死んでも、手紙は残せます。」
「でも、本当に遺したかったものは――言葉ではなく、信じる心だったのでしょう。」




